学習通信080819
◎逃げ場の無い「蟹工船」の登場人物……

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十字路
「蟹工船」とグローバル化

 「蟹工船」ブームが続いている。極限状況にある過酷な労働現場の描写が現実と重なり、共感を呼んでいるようだ。

 ただし問題を時代背景に限れば、その舞台は戦前、しかも大恐慌前夜であり、一国内で資本家対労働者という対立の構図が比較的鮮明だった。

 これに対し近年は、労働生産性の伸びに賃金が追いつかず、働きに応じた報酬が得られない傾向が、多くの先進国で共通にみられるようになった。企業間の国際競争が激化する一方、新興国の豊富で安価な労働力が参入してきたことなどが背景だ。

 さらに最近ではエネルギー・食料品価格の上昇が実質的な賃金の目減りにつながっている。こうした直接見えにくいグローバルな要因に影響を受けたやり場の無さが、働く側の閉塞(へいそく)感を一段と高めているのではないか。

 しかし同時に雇用関係が流動的で柔軟になっているとすれば、それは仕事を選択する幅と機会が広がる可能性にもつながる。経済規模が小さく制度改革について利害調整を行いやすい先進国の例では、フルタイム労働に対し原則として対等な条件でパートタイム労働を積極的に導入するモデルがよく知られている。

 一方、解雇に対する規制を緩めつつ失業者に対するセーフティーネットを手厚くする仕組みも注目されている。ここでは希少な労働力の活用という観点に加え、個人の次元でも転職がより容易になり仕事に対する意欲が高まるというメリットが生じるはずだ。

 逃げ場の無い「蟹工船」の登場人物たちは、最後にストライキを企てる。しかし現在では、働くことをやめず、適職を発見し、それに必要なスキルを向上させるための動機付けが重要になってくる。

 雇用対策に向ける金額の大小ではなく、制度の設計変更に対応しつつ、それぞれ異なる個人の動機付けに働きかけるという意味で、職業教育プログラムなどの質の高さが問われることになるだろう。(新光証券チーフエコノミスト林秀毅)
(「日経 夕刊」20080815)

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 われわれは国民経済学の諸前提から出発した。われわれはその経済学の諸用語と諸法則を採用した。

われわれはあらかじめ、私的所有や、労働、資本および土地の分離や、同じくまた労賃、資本の利潤および地代の分離、ならびに分業や競争や交換価値の概念等々を想定した。

国民経済学そのものから、この経済学自身のことばでもって、われわれが示してきたのは、労働者が商品、しかもみじめきわまる商品のところに堕(お)ちるということ、労働者のみじめさが彼の生産の力や大きさに逆比例するということ、競争の必然的結果が少数の人々の掌中での資本の蓄積、したがって独占のいっそうすさまじい復興であるということ、挙句のはてには資本家と地主の区別も農民と工業労働者の区別も消えて、全社会が有産者たちと無産の労働者たちとの両階級に分かれざるをえないということである。

 国民経済学は私的所有の事実から出発する。それはわれわれにこの事実そのものを説明しはしない。

それは私的所有が現実にたどる物質的過程を普遍的、抽象的な諸方式にまとめ、そうしてそれらを法則とみなす。それはこれらの法則を把握することをしない。ということは、どのようにしてこれらの法則が私的所有の本質から出てくるかを示してみせることをしないということである。

国民経済学はわれわれに労働と資本、資本と土地の分離の根拠を少しも闡明(せんめい)してくれない。

それがたとえば労賃の資本の利潤にたいする割合をきめる場合、それにとっての窮極の根拠となるものは資本家たちの利益である。

ということは、それはみずからが展開すべきものをあらかじめ想定しているということである。

同様にまた随所に競争がはいりこんでくる。競争は外的な事情から説明されるのである。

どの程度にこうした外的な、一見偶然的な事情が、一つの必然的な展開のあらわれにすぎないかについては、われわれに国民経済学は何一つ教えるところがない。

われわれは、この経済学には交換そのものが一つの偶然的な事実とみえることをみてきた。

国民経済学者が動かすところの車輪はもっぱらただ物慾と、物慾に憑かれた人々のあいだのたたかい、競争である。
(マルクス「経済学・哲学手稿」ME八巻選集@ p70)

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◎「この経済学自身のことばでもって、われわれが示してきたのは、労働者が商品、しかもみじめきわまる商品のところに堕(お)ちるということ、労働者のみじめさが彼の生産の力や大きさに逆比例するということ……」と。