学習通信080821
◎二時間待たされたからて……

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現代のことば


山本 淳子

 恋と愛とはどう違うか。大学の授業で、毎年学生に尋ねることにしている質問である。

 古典文学の授業なので彼らの実情を聞いている訳ではないのだが、学生たちは大概驚く。指名すると即座に「分かりません」とだけ答える男子もいる。一応考えはあるが人前で口にしたくないのか、考えたことがないのか、あれこれ痛手を負った揚げ句考えたくもなくなったのか。恋という言葉を聞いただけで過剰に反応するのが若さなのかもしれない。ごめんなさい、そんなに意地悪な質問ではないのだけれど。デリケートな男子たちに比べると、女の子たちはむしろ冷静でこだわりがない。少し考えて「恋は自己中心的だけれど、愛は相手の幸福を思う」などと答えてくれる。

 去年の春学期、「恋は下心で、愛は真心」と答えた学生が、男女を問わず数人いた。ほう、と思っていたが、今年の授業でも同じ答えが返ってきて、はたと気づいた。漢字のことなのだ。

 「恋」は字の下の方に「心」があるから「下心」。「愛」は中間にあるから「間(ま)心」。そうか分かった。もしかしたら私一人が知らなかっただけで、世の中では有名な洒落なのだろうか。

 「下心」と「真心」という答えはよくできているが、やはり違う。恋を欲望、愛を無償の愛とするキリスト教的視点に拠っていて、近代以降日本社会に流入したものだ。

 奈良時代や平安時代の古語の「恋」は、「恋ふ」という動詞から来ている。そして「こふ」には「恋ふ」以外に別の漢字を当てるものもある。「乞ふ」と「請ふ」だ。これらは皆「こふ」という言葉の原義でつながっている。並べれば見えてくるだろう。「こふ」とは、自らの手元に無いものを強く求めることを言う。

 酒を飲みながら「酒が恋しい」とは言わない。家族を目の前にして「家族が恋しい」とも言わない。現代語にもこうしたところに古代の「恋ふ」の名残がある。つまり「恋」とは古来、不在の物や人を強く切なく想い、求める心なのである。

 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼み初めてき(古今集・小野小町)

(うとうとしていたら、夢で恋しい人に会えた。嬉しい、眠ればまた会えるかしら。その時から、夢に期待するようになってしまった)

 思いが通じていない。だから恋しい。あるいは、障害があって思うように逢えない。だから恋しい。またあるいは、思いは通じており障害もないが一緒に暮らしてはいない。だからもっと会いたい、恋しい。物を恋う気持ちもそうだが、「恋」の思いは人を恋うとき、はっきりと痛みの感覚を帯びる。恋とは必ずつらいものなのだ。

 そんな恋を、面倒だといって止めてしまう若者が、最近はいるのだという。止めてはならない。それは人生のつらさの練習なのだ。では、愛とは何か?それはまたいつか。 (京都学園大教授・日本文学)
(「京都」夕刊20080819)

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 鳩
  高揚陸郎

その鳩をくれないか と あのひとが言った
あげてもいいわ と あたしが答えた

おお なんてかあいいんだ と あのひとがだきとったくるくるってなくわ と あたしが言いそえた

この目がいいね と あのひとがふれた
くちばしだって と あたしがさわった

だけど と あのひとがあたしを見た
だけど何なの と あたしが見かえした

あんたのほうが と あのひとが言った
いけないわ と あたしがうつむいた

あんたが好きだ と あのひとが鳩をはなした
逃げたわ と あたしがつぶやいた
あのひとのうでの中で

  ──詩集『ミノ・あたしの雄牛』

 作者が二十代で若かったとき、そして読者の私もまだずっと若かったとき読んで、好きになった詩ですが、いま読んでも少しも照れくさくありません。照れくさかったり、むずがゆくなるのはダメな詩で、特に恋唄のばあい、それがはっきり出ます。

 女の子の立場で書かれていますが、「鳩」は一種の小道具で、二人で鳩をいじっているうちに、話は気持よくリズミカルに進んで、気がつけば鳩は自由の彼方ヘ──そして二人の心が無理なく寄りそう過程がいきいきと描かれて、このほほえましい小さな恋人たちを祝福したくなります。

 ちょっと気になるのは、男の子の発する「あんた」という言いかたです。「あなた」ではこの場合、そらぞらしいかもしれないし、「おまえ」ではすでに我がものとなったようだし、「君」だったら一番ぴったりだったのではないでしょうか。ふだんの会話で、男の子が「君」といえば爽やかに聞こえるのに、女の子が「君!」と呼びかけるのを聞くと、ちょっと耳がざらつく感じがあります。

 それなのに短歌などで「君」と文語的に使えば、ひどく床(ゆか)しい気配が立ちこめて、まるっきり変わってしまいます。

 日本語の二人称はややこしくて、You一つで済ますわけにはいきません。話しことばでも、書きことばでも選択しなければならず、黒田三郎は「あなた」、安水稔和は「君」を選んでいました。

 「あんた」はちょっと見下げたようなニュアンスを感じるのですが、地方によっては「あなた」と言っているつもりで「あんた」になっている所もあり、これはこれでいいのかもしれません。もう一つ、「あんた」の出てくる詩。

 葉 月
  阪田寛夫

こんやは二時間も待ったに
なんで来てくれなんだのか
おれはほんまにつらい
あんまりつらいから
関西線にとびこんで死にたいわ
そやけどあんたをうらみはせんで
あんたはやさしいて
ええひとやから
ころしたりせえへん
死ぬのんはわしの方や
あんたは心がまっすぐして
おれは大まがり
さりながら
わいのむねに穴あいて
風がすかすか抜けよんねん
つべとうて
くるしいて
まるでろうやにほりこまれて
電気ばちんと消されたみたいや
ほんまに切ない お月さん

──お月さん やて
あほうなこと云いました
さいなら わしゃもうあかへん
死なんでおれへん
電車がええのや
ガーッときたら
ギョキッと首がこんころぶわ
そやけど
むかしから
女に二時間待たされたからて
死んだ男がおるやろか
それを思うとはずかしい

 ──詩集『わたしの動物園』

 これもいっぷう変わった恋唄の一つ。

 葉月は、八月の古い呼び名です。一人の男の恋ゆえの、大まじめなのに大抜けという、ピエロめいた悲哀をそくそくと伝えてくれます。大阪弁を駆使しているせいで、いっそうあっけらかんとした、おかしさと哀しさが溢れて。

 二時間はただの二時間なのか、それとも遠からず恋人にふられるかもしれないという、予感をはらんだ二時間だったのでしきょうか。この詩の持っているユーモアとペーソスは、冷静に客観的に自分を見ることができているところから発しているので、最後のところで、関西線飛びこみの件は、ふみとどまれたことでしょう。

 「サッちゃん」という、かわいい童謡がありますが、阪田寛夫はその作詞者でもあり、

こんなに さむい
おてんき つくって
かみさまって
やなひとね
    (「カミサマ」)

 こんな愉快な歌もあり、たいていは作曲されて、うたわれています。
(茨木のり子著「詩のこころを読む」岩波ジュニア新書 p46-52)

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 愛ということばは、いつから人間の社会に発生したものでしょう。愛という言葉をもつようになった時期に、人類はともかく一つの飛躍をとげたと思います。なぜなら、人間のほかの生きものは、愛の感覚によって行動しても、愛という言葉の表象によってまとめられた愛の観念はもっていませんから。

 更に、その愛という言葉が、人間同士の思いちがいや、だましあいの媒介物となったのは、いつの頃からでしょう。そして、愛という字が近代の偽善と自己欺瞞のシムボルのようになったのはいつの時代からでしょうか。三文文士がこの字で幼稚な読者をごまかし、説教壇からこの字を叫んで戦争を煽動し、最も軽薄な愛人たちが、彼等のさまざまなモメントに、愛を囁いて、一人一人男や女をだましています。

 愛という字は、こんなきたならしい扱いをうけていていいでしょうか。

 愛という言葉をもったとき、人間の悲劇ははじまりました。人類愛という声がやかましく叫ばれるときほど、飢えや寒さや人情の刻薄がひどく、階級の対立は鋭く、非条理は横行します。

 わたしは、愛を愛します。ですから、このドロドロのなかに溺れている人間の愛をすくい出したいと思います。

 どうしたら、それが可能でしょうか。わたしの方法は、愛という観念を、あっち側から扱う方法です。人間らしくないすべての事情、人間らしくないすべての理窟とすべての欺瞞を憎みます。愛という感情が真実わたしたちの心に働いているとき、どうして漫画のように肥った両手をあわせて膝をつき、存在しもしない何かに向って上限をつかっていられましょう。この社会にあっては条理にあわないことを、ないようにしてゆくこと。憎むべきものを凛然として憎むこと。その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。

 愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私たちがわれとわが身をだましてゆくことを、はっきり拒絶したいと思います。愛が聖(きよ)らかであるなら、それは純潔な怒りと憎悪と適切な行動に支えられたときだけです。そして、現代の常識として忘れてならぬ一つのことは、愛にも階級性があるという、無愛想な真実です。(一九四八年二月)
(宮本百合子著「愛と知性」新日本出版社 p105-107)

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◎「愛が聖(きよ)らかであるなら、それは純潔な怒りと憎悪と適切な行動に支えられたときだけ」と。