学習通信080905
◎自分たちの自然発生性への屈従と拝跪を理論的に基礎づけ……

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 私たちの活動は、政党でも個人でも、活動のなかで、欠陥が出てくる、誤りをおかすということは、ある意味では避けられないのです。いつの場合にも、完全無欠に正確に活動し、指導している人がいるかと言えば、そんな人は、「めったにいない」と言ってもいいほどです。

 私たちの活動のなかではたえず欠陥や失敗は避けがたいということを、お互いに認めることが必要です。そうした欠陥や誤りについて、率直に誠意を持って批判しあうということです。
(浜野忠夫著「時代を開く党づくり」新日本出版社 p209)

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──いうまでもなく、われわれは、こういう訓練の不足のかどで当時の活動家を責めようとは夢にも思わない。しかし、運動の経験を利用し、この経験から実践的教訓を引きだすためには、あれこれの欠陥の原因や意義を完全に理解することが必要である。

そこで、一八九五〜一八九八年に活動していた社会民主主義者の一部が(おそらくはその大多数さえもが)、「自然発生的」運動が始まったばかりのその当時でも、最も広範な綱領と戦闘的戦術とを提出することが可能であると、まったく正当に考えていたということを確認することが、きわめて重要になるのである。

大多数の革命家が訓練を欠いていたことはまったく当然な現象であったから、なにも特別の懸念をおこさせるものではありえなかった。

任務が正しく提起されさえすれば、またこの任務の実現を繰りかえし試みるだけの精力がありさえすれば、一時の失敗はなかばの不幸でしかなかった。

革命的練達と組織者としての手腕は、おいおいに獲得できるものである。

ただ、必要な資質を自分のうちにやしなおうという意欲がありさえすればよいのだ! 欠陥が意識されていさえすればよいのだ! 革命の事業では、欠陥を意識することは、それをなかば以上訂正したにひとしいのである。

 しかし、この意識がくもりはじめて(ところで、前記のいろいろなグループの活動家たちにあっては、この意識はまことに生きいきとしていた)、欠陥を美徳にまつりあげるのをはばからず、自分たちの自然発生性への屈従と拝跪を理論的に基礎づけようとさえ試みる人々が──いや、社会民主主義的機関紙さえが──現われてきたとき、このなかばの不幸はほんとうの不幸になった。

この潮流の内容は「経済主義」という概念ではそれを表現するのに狭すぎて、きわめて不正確にしか特徴づけられないのだが、いまやこの潮流に決算をあたえるべき時がきている。
(レーニン「なにをなすべきか?」レニン八巻選集A p36-37)

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失敗とあやまちにたいする態度

 これまでにいろんな人がやったことをくりかえすだけであれば、失敗ということはたいして問題にならない。つけられた道をあゆんでいって、行きつくところに行きつくだけである。失敗しても、そこには責任の意識は生じない。

 しかし、活動家にあたえられている課題は、つねに、新しい道をきりひらくことである。まだつけられていない道をつけること、まだなしとげられていないことをなしとげることである。その過程では、大小の失敗が自分の責任としてでてくることをさけることはできない。

 しかし、そうであってこそ、かれは活動家といえるのだ。失敗をおそれ、ことが面倒になることをおそれて、「無難」な活動に終始しているかぎりは、なんら活動家としての責任をはたすことはできないであろう。

 活動の成功を保障するものは、ただしい認識である。しかし、ただしい認識のかくとくということは、実践とむすびついた不断の過程である。若いマルクスがかつていったように上をむいてポカンと口をあけていれば、「ただしい認識」の焼鳥が口のなかにとびこんでくるわけのものではない。

 「新しい諸側面、諸関係、等々を開いていく無限の過程。
 事物、現象、過程、等々にかんする人間の認識を、現象から本質へ、それほど深くない本 質からいっそう深い本質へと深くしていく無限の過程」(レーニン『哲学ノート』)。

 この過程は、大小の失敗を不可避的にともなう、矛盾にみちた実践の過程と一体のものである。

 「認識とは、思考が客観に、不断に、無限に接近してゆくととである。人間の思想における自然の反映は、死んだ∞抽象的≠ネ、運動を欠いた、矛盾のないものとして理解してはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程のうちにあるものとして理解しなければならない」(前掲書)。

 失敗をおかさないものは、なにもしないものだけである。なにもしないものは、たしかに失敗することはない。しかし、成功することもない。その見本は墓場のなかの死人だ。

 生きた活動にとって、失敗はさけられないものであり、それをおそれてはならない。「失敗することが悲しいのではなく、失敗の原因がわからないことが悲しいのだ」とマリー・キユリーはいった。これこそ、私たち活動家の態度であるべきだ。

 失敗をおそれず創造的な活動にとりくむものだけが、失敗から学んでこれを成功にかえる能力をもつ。ものごとについての生きた認識をもちうるのも、そのような人だけである。

 失敗はしばしば、あやまちとも呼ばれる。しかし、ここでとくにあやまちというのは、活動家の思想上の欠陥に由来するもののことである。

 どのような活動家も、大なり小なり思想上の弱点をもっている。どんな弱点ももたない活動家など、この世には存在しない。だから、活動するなかで、その弱点が表面にでてきて、大なり小なりのあやまちをおかすことはさけがたい。

 あやまちをおかさぬものは活動しないものだけである。

 だから、あやまちをおかすことをおそれてはならない。そのあやまちから学んで、自分の思想をただせばよいのである。

 必要なことは、できるだけはやくそれに気づいてあらためることだ。そのためには、つねに、できるだけおおく、仲間の意見、批判をきくことがたいせつである。

 このことは、生きかたや愛情の問題についても同様である。この種の問題は、私たちの思想性がもっともあからさまにでやすい問題だ。

しかも、えてして一人だけで考えこみがちである。すると、自分の思想上の弱点が表面にでてきて、ものごとのせまい一面しか見えなくなる。そして、そこだけがすべてであるかのような錯覚がおき、主観的にはまじめに考えているつもりでいて、じつはとんでもない方向にふみまよってしまう。

だから、なにごとも、できるだけ自分一人だけで考えてしまわないようにするという注意が必要だ。仲間にうちあけ、相談する度合におうじて、あやまちをおかす度合もあさくてすみ、おかしたとしても、そこからたちなおることが容易になる。

仲間からはなれて一人になったときは、私たちは「その起源において〔労働者的な意識よりも〕ずっと古く、いっそう細部にわたってしあげられ、はかりしれないほどおおくの普及手段をもっている」ブルジヨア思想(レーニン『なにをなすべきか』)の包囲のもとに、素手でたっているのだと思わねばならない。そうしたとき、私たちは、たやすく自分で自分をいつわり、敵の思想のとりこになってしまうものだ。

 コチコチになる必要もないし、クョクョする必要もない。労働者的な楽天性、集団性、戦闘性でいけばいいのである。

 一度あやまちをおかしたら、おなじ種類のあやまちを二度くりかえさないようにすることだ。

おなじあやまちを二度おかしたとしたら、それはたんに偶然のものではないと考えて、よくよく検討し、厳重に自戒することだ。

二度ならず三度おかしたとすれば、それはたんに部分的な問題ではなく、自分の思想性の全体、本質にかかわる問題として、仲間の援助のもとに、特別な対策を考慮しなければならない。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p87-91)

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◎「あやまちをおかさぬものは活動しないものだけである」と。