学習通信080908
◎地しばり……

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燦然と輝く革命の花
伊藤千代子
 松本善明

土屋文明を感動
させた人生を今

 こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ

 これは土屋文明が一九三五年(昭和十年)秋、日本の中国全土への本格的侵略の準備期、治安維持法が荒れ狂っているときに、東京杉並にある、伊藤千代子の学んだ東京女子大の講演のあとで、彼女について歌ったものだ。長野県諏訪にある伊藤千代子顕彰碑にも刻まれている。いま、小林多喜二や「蟹工船」がブームの時代、いうなれば「新しい光」が燦燦(さんさん)と輝いているときに伊藤千代子について深く考察することは大きな現代的意義がある。

獄中からの手紙
「地しばりの花」

 伊藤千代子の人生の真価は四通の「獄中最後の手紙」にあらわれている。私は苫小牧市中央図書館で実物を見て感動を深くした。内容はその公開記念誌『地しばりの花』に全文収められている。

 最初の一通は市谷の刑務所から、中野野方に住む義妹浅野淑子に宛てた手紙である。中心部分を現代仮名遣いにするなど読みやすくして紹介する。

 「ここではね。いま地しばりの花ざかりです。高い赤煉瓦の塀に沿ってまるい黄色な頭を春の風にユラユラゆすぶっています。淑ちゃんは地しばりをご存知ですか、強情な大変力のある面白い草ですよ、ダリアの畑へでも菊の畑へでもおかまいなしにずんずん押し込んでいって肥料を横取りしてしまいます。田舎では野菜や桑を荒らすのでお百姓は眼の敵にしていじめています。……命のあるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね。生きようとするからこそその大事な命を投げ出すのですね」

 多喜二が小説にした一九二八年三月十五日、日本共産党中央委員会事務の中心的仕事をしていた彼女は格闘の末、特高に逮捕される。男性に対するのとは違った、凄まじい拷問がおこなわれたことは想像に難くない。しかし、彼女はそれに耐え抜き、元気に生き生きとたたかっていたのだ。これは翌二九年五月八日付、彼女が身柄を拘束されてから約一年二ヶ月月後のものだ。

問題の核心とは
どこが別れ道か

 問題の核心は、その二ヶ月後、義母浅野すて宛の七月二十六日付二通と七月二十九日付の一通だ。二十六日付の二通は、夫だった浅野晃などの公判闘争にたいする感動を伝えるもの。その三日後に書いた文字どおり最後の手紙は、夫の裏切りを知らされた後のものだ。「次便で詳しくと、申し上げましたが、もうその必要がなくなってしまいました。理屈がいやになりました」。この短い文章は明確な夫への決別だ。そのあと夫の家族に対する優しい思いやりがつづられている。

 浅野晃が彼女の直接の上司だった水野成夫とともに裏切った理由は「主権者天皇のもとでの社会主義」ということだ。これは「国民主権」という日本共産党の尊い旗印を捨てることを意味する。彼女は「国民主権」が科学的社会主義の根幹にあることをはっきりと認識していたから、毅然とした態度をとった。私は彼女が学んだ東京女子大と、仙台の尚絅(しょうけい)女学校に残されている当時の状況を見て、彼女が最高の女性高等教育を受けた俊秀だったことを実感した。

大輪の花・人生
そのものが芸術

 それから二ヶ月後が、松沢病院での獄死だ。わずか二十四歳。多喜二のように特別の業績は残さなかったが、彼女の清冽な人生そのものが限りなく美しい芸術である。まさに革命の花、それは時代とともにますます大輪になるだろう。
(まつもと・ぜんめい 日本共産党元衆院議員)
(「赤旗」20080908)

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共産主義運動の弾圧

 だが、普選の実施に合わせるようにして、一九二八年三月一五日に、三・一五事件、翌年には四・六事件が引き起こされる。三・一五事件では、治安維持法違反容疑で共産党員などの活動家を検挙したのに加え、労農党、日本労働組合評議会(評議会)、無産青年同盟の三団体に結社禁止を出す。普選の大枠をつくりあげ、議会制のなかに社会運動を取り込むかたわら、そこに包摂されない左派の運動を排除・弾圧した。

 三・一五事件は、一ヵ月後の四月一一日に「記事一部解禁」がなされたが、『大阪朝日新聞』(四月一一日)は、「「日本共産党」の大検挙」「全国にわたって一千余名 秘密結社の一大陰謀暴露す」との大見出しを掲げた。連座した学生や河上肇(京都帝大)、大森義太郎(東京帝大)ら「左傾教授」の処分をめぐり、文部省と大学当局とのあいだで悶着が見られた。多くの検挙者を出した新人会は、大学当局の勧告を受け一九二九年一一月に解散した。

 水野錬太郎文部大臣は「国体観念涵養に関する訓令」を発し、「光輝あるわが国体に由来せる国民道徳」を「涵養」し「国民精神」を「作興」することは「文教の根幹」とした(『大阪毎日新聞』 一九二八年四月一七日)。

 さらに、第五五議会(一九二八年四月)に田中内閣は、治安維持法の改正案を提出する。審議未了となったため、改正は緊急勅令で出されたが(六月)、「国体変革」の罪には最高刑を死刑にし、対象範囲を「結社の目的遂行の為にする行為を為したる者」とした。罰則を厳しくし、目的遂行罪を新設し、恣意的に利用できる規定を付け加えた。旧労農党の山本宣治は「無産党議員としての戦闘が不充分であった」と述べている(『読売新聞」一九二八年五月八日)。

 一九二九年一月、緊急勅令の事後承諾を求める第五六議会では、山本宣治が議案に真っ向から反対し、予算委員会でも拷問について質問し政府と警察を追及した。また、水谷長三郎(旧労農党)、斎藤隆夫(民政党)、浅原健三(九州民権党)らも事後承諾案に反対したが、三月五日に賛成二四九、反対一七〇で可決される。反対演説に立つはずであった山本宣治(政権獲得同盟)には、機会が与えられず、その日の夜に、山本は右翼によって暗殺されてしまった。
(成田龍一「大正デモクラシー」岩波新書 p219-220)

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 一

 お恵には、それはそうなかなか慣れきることの出来ない事だった。何度も──何度やってきても、お恵は初めてのように驚かされたし、ビクビクしたし、周章(あわ)てた。そしてまたそのたびに夫の竜吉にいわれもした。しかし女には、それはどうしても強過ぎる打撃だった。

 ──組合の人たちが集って、議題を論議し合っているとき、お恵がお茶を持って階段を上って行くと、夫の声で、
「嬶の意識の訓練となると、手こずるッて……。」そういっているのを一度ならず聞いた。
「革命は台所から──これは動かせない公式だからなあ。小川さん、甘い、甘い。」
「実際、俺の嬶シャッポだ。」
「ワイフとの理論闘争になると。負けるんだなあ。」と、そして、皆にひやかされた。

 夫は声を出して、自分で自分の身体を抱えこむように、恐縮した。

 朝、竜吉が歯を磨いていた。側で、お恵が台所の流しに置いてある洗面器にお湯を入れてやっていた。
「ローザって知ってるか。」夫が楊子で、口をモグモグさせながら、フト思い出して訊(き)いた。
「ローザァ?」
「ローザさ。」
「レーニンなら知ってるけど……。」

 竜吉はひくく「お前は馬鹿だ。」といった。

 お恵はそういうことをちっとも知ろうと思い、またはそうするために努めた事さえ無かった。それらは覚えられもしないし、覚えたって、どうにもならない気がしていた。「レーニン」とか「マルクス」とか、それは子供の幸子から知らされたぐらいだった。一旦それを覚えると、自家にくる組合の工藤さんとか、阪西さんとか、鈴本さんとか、夫などが口ぐせのように「レーニン」とか「マルクス」とかいっているのに気付いた。何かの拍子に、だから、お恵が、「マルクスは労働者の神様みたいな人だんだッてね。」と、夫にいったとき、夫が、へえ!という顔付でお恵を見て、「何処から聞いてきた。」と賞められても、そう嬉しい気は別にしなかった。

 しかしお恵は、夫や組合の人たちや、またその人たちのする事に悪意は持っていなかった。初め、しかし、お恵は薄汚い、それに何処かに凄味をもった組合の人たちを見ると、おじけついた。その印象がそうすぐ近付けないものを、しばらくお恵の気持の中に残した。けれども変にニヤニヤしたり、馬鹿丁寧であったりする学校の先生(夫の同僚)などよりは、一緒に話し合っていて気持よかった。物事にそう拘(こだわ)りがなく、ネチネチしていなかった。かえって、子供らしくて、お恵などをキャッキャッと笑わせたり、初めモジモジしながら、御飯を御馳走になってゆくと、次ぎからは自分たちの方から「御飯」を催促したりした。風呂賃をねだったり、煙草銭をもらったりする。しかし、それが如何にも単純な、飾らない気持からされた。だんだんお恵は皆に好意を持ちだしていた。

 港一帯にゼネラル・ストライキがあった時、お恵は外で色々「恐ろしい噂」を聞いた。あの工藤さんや、鈴本さんなどの指導しているストライキが、その「恐ろしい」ストライキである事が、どうしても初め分らない、と思った。
「誰にとって、一体あのストライキが恐ろしいッていうんだ。金持にかい、貧乏人にかい。」

 夫にそういわれた。が、腹からその理窟が分りかねた。
「理窟でないよ。」

 新聞には、毎日のように大きな活宇で、ストライキの事が出た。O全市を真暗にして金持の家を焼打ちするだろうとか、警官と衝突して検束されたとか、(そういう中に渡や工藤がいたりした。)このストライキは全市の呪いであるとか……。お恵は夫の竜吉までが、殆んど組合の事務所に泊りっきりでストライキの中に入っている事を思い、思わず眉をひそめた。竜吉が、寝不足のはれぼったい青い、険をもった顔をして帰ってきたとき、「いいんですか?」ときいた。
「途中スパイに尾行られたのを、今うまくまいて来たんだ。」

 そして、すぐ蒲団にくるまった。「五時になったら起してくれ。」

 お恵はその枕もとに、しばらく坐っていた。お恵はこんな場合、何時でも夫のしていることを言葉に出してまでいった事がなかった。しかし、やっぱり、そんなに苦しんで何もかも犠牲にしてやって、それが一体どのぐらいの役に立つんだろう。皆が昂奮すると叫ぶような、そんな社会──プロレタリアの社会が、そうそう来そうにも思えない、お恵はひょいひょい考えた。幸子もいる、本当のところ、あんまり飛んでもない事をしてもらいたくなかった。夫のしている事が、ワザワザ食えなくなるようにする事であるとしか思えなく、女らしい不服が起きてくる事もあった。

 しかしお恵は組合の人たちの色々な話や労働者の悲惨な生活を知り、労働者たちは苦しい、苦しくてたまらないんだ、だから彼らは理窟なしに自分たちの生活を搾り上げている金持に「こん畜生!」という気になるのだ。組合の人たちはそれを指導し、その闘争を拡大してゆく、お恵にはそういう事も分ってきた。夫たちのしている事が、それがお恵には何時見込のつくことか分らない事だとしても、非常に「大きな」「偉い」事をしているのだ、という一種の「誇り」に似た気持さえ覚えてきた。

 竜吉は三度目の検束で、学校が首になり、小間物屋でどうにか暮して行かなければならなくなった。その時──何時か来る、その漠然とした気持は持っていたとしても、お恵は何かで不意になぐられたようなめまいを感じた。しかしそのことにこだわって、クドクドいわないほどになっていた。

 竜吉は勤めという引っかかわりが無くなると、運動の方へもっと積極的に入り込んで行った。それからスパイがよく家へやって来るようになった。お恵は店先をウロウロしている見なれない男を見ると、寒気を感じた。それだけなら、だが、まだよかった。そういう男が標札を見ながら家へ入ってくると、「ちょっと警察まで来てくれ。」そういって、竜吉を引張ってゆくことがあった。夫が二人ぐらいの私服に守られて家を出てゆく、それは見ておれない情景だった。行ってしまってからは、変に物淋しいガランドウな気持が何時までも残った。お恵は人より心臓が弱いのか、そういうことのあった時は、何時までもドキついた鼓動がとまらなかった。お恵は胸を押えたまま、紙のように白くなった顔をして、家の中をウロウロした。

 ──それは全くお恵には、そうなかなか慣れきれる事の出来ないことだった。何度も──何度やってきても、お恵は初めてのように驚かされたし、ビクビクしたし、周章てた。そしてまたそのたびに夫にいわれたりした。しかし女には、どうしても強過ぎる打撃だった。お恵にはそうだった。

 三月十五日の未明に、寝ているところを起され、家の中をすっかり捜索されて、お互にものもいわせないで、夫が五、六人の裁判所と警察の人に連れて行かれたとき、お恵はかえってぼんやりしてしまって、何時までも寝床の上に坐ったままでいた。思わず、ワッと泣きだしたのは、それからよっぽど経ってからだった。
(小林多喜二「一九二八・三・一五」岩波文庫 p139-144)

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◎「いま、小林多喜二や「蟹工船」がブームの時代、いうなれば「新しい光」が燦燦(さんさん)と輝いているときに伊藤千代子について深く考察することは大きな現代的意義がある」と。