学習通信080916
◎古墳は王や豪族たちの……

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初期の古墳はなぜ
 前方後円型だつたのか

 古墳は王や豪族たちの墓である。日本の各地に古墳がつくられた時代は、日本の古代国家が誕生した時代だ。古墳は、三世紀後半から七世紀にかけてつくられているが、大きさを比べてみると、大阪府にある「仁徳陵」と伝えられる大山(だいせん)古墳が、長さ四八六メートルで最も大きい。長さ三〇〇メートルをこえる古墳は日本に七つあるが、このような巨大古墳をつくったのはどうしてだろうか。また、この時期、前方後円の古墳が日本の各地につくられているが、なぜ前が方形(四角形)、後ろが円形という形になっているのだろうか。

●前方部は葬儀が行われた場所

 古墳には、前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳などの形がある。三世紀後半から四世紀にかけて、今の奈良県大和(奈良盆地)を中心に、前方後円墳という大きな古墳が出現しはじめた。奈良県桜井市にある箸墓古墳は、長さ二七八メートルで、前方後円墳のうちで最も古いものの一つだ。

 箸墓古墳の前方部は葬儀が行われた場所で、後円部の墳丘の下に古墳の主が埋葬されているはずである。この古墳の後円部の頂には、それまでの大和地方の墓では使われていなかった円筒埴輪と壷形埴輪が残されていた。これらの埴輪は、すでに、瀬戸内地方の豪族の墓に供えられていた大型の壷や器台に似ている。『日本書紀』という日本の古い記録に箸墓古墳のことと思われる記事があり、墓は「昼は人がつくり、夜は神がつくる」といい、大坂山から古墳までたくさんの人を並ばせて石を手送りで運んだ、とある。こうしたことから、古墳づくりには、瀬戸内地方の豪族や技術者も加わり、各地から多くの人びとが集められ、大規模な工事が行われたと考えられている。箸墓古墳の主は、大和地方を中心にかなりの地域を支配していた王で、女王卑弥呼という説もある。

 古墳は、初めはさまざまな形で、墓としても大きいものではなかった。古墳の大型化は、王や豪族など有力な人物が登場してきたことを物語っている。また、初期の前方後円墳からは、竪穴式石室に、銅鏡や勾玉、刀剣などの副葬品があることから、埋葬された王は神に仕える宗教的な支配者だったといえよう。古墳の後円部は死者を葬るため、前方部は儀式を営むため形が整えられ、その儀式は生きている者が後継者としての権威を受け継ぐ場であった。

 前方後円の古墳は、まず大和地方と瀬戸内地方を中心につくられた。そして、四世紀後半になってから、東は今の福島県会津若松市は宮崎県まで、日本の各地でみられるようになる。これはなぜなのだろうか。

●前方後円墳は大和政権とのつながりの表れ

 前方後円墳の大きさを比べると、大規模なものは大和地方に集まっている。五世紀は巨大古墳が盛んにつくられた時代だが、大きな古墳は大和に近い河内(今の大阪府)に集中している。そして、古墳の数においても他の地域を圧倒している。各地の古墳の竪穴式石室の中にある、大木を二つに割ってくり抜いた棺や副葬品の種類は、大和地方のものと似ている。こうしたことから、古墳の巨大化と前方後円という形の統一は、大和に成立した政(王)権が発展し、王の力が強まっていったことを示している。日本の各地にある前方後円墳は、地方の豪族が大和政権にしたがっていたことの表れであろう。

 巨大古墳がつくられた五世紀は、中国の歴史書『宗書』の「倭国伝」によれば、「倭の五王」の時代だ。この時期、中国へ使者を送り、すすんだ技術を取り入れている。朝鮮からの技術者の渡来もあった。五世紀の古墳には、副葬品に、鉄のかぶとやよろいも多く、大和政権は、宗教的な支配者から武力による支配者に変化してきたと考えられている。

 古墳は、やがて規模も小さくなり、方墳が増え、横穴式石室のものが多くなる。終末期には、装飾古墳もみられるようになった。大和政権によって秩序だったしくみがつくられ、統一国家がつくられるようになると、王の権威を示すような古墳は必要なくなっていったのだろう。
(AJB朝日ジュニアブック「日本の歴史」朝日新聞 p28-29)

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文化の話題
仁徳天皇陵古墳の被葬者像

巨大古墳の造営に
民衆の庇護を見る

 大阪・堺市にある全長四百八十六b)の仁徳天皇陵古墳(以下、大仙陵)は世界最大級の墳墓として知られる。これを含む百舌鳥(もず)古墳群などが世界遺産登録を目指している。

 しかし、大仙陵はその被葬者が仁徳天皇かどうか、そもそも仁徳天皇は実在したのかどうか、記紀の研究によると疑わしいという。世界一大きな墓に埋められた人がわからないことは非常に奇異だ。

墓参りをした
痕跡みられず

 現在、大仙陵は前方部中央に参拝所がある。参拝所は古墳造営当初からあったわけではなく、幕未から明治に整えられた。これまで、全国で大小の古墳が発掘されているが、古墳に参拝施設はみつからない。つまり、墓参りをした痕跡がない。古墳造営にあれだけ執着した時代にもかかわらず、古墳が完成すると子孫や家来達は振り向かなくなった。

 古墳は、造営後まもなく周溝が埋没してゆく。また、急速に墳丘は草木に覆われていったようだ。土器や廃材など、生活ゴミが捨てられる場合もある。そして、埴輪(はにわ)や葺石(ふさいわ)が転落する。しかし、崩れても修復された痕跡はみつからない。後の時代の供え物も発見されない。このようにして被葬者像も急速に薄らいでいったのだろう。

未完成を示す
等高線の乱れ

 大仙陵の造営は、二千人が毎日十六年以上働く労働量が必要だったと試算されている。たった一人の王のための墓とすれぱ、それは仁徳というより、悪徳な王という負の印象が先行してしまう。実際、兵士の監視下で、汗まみれになって奴隷のように男たちが土や埴輪を運ぶ想像図が示される場合が多い。

 しかし、そうだったか。もし、巨大古墳造営が強権的に民衆を動員して行なったとすれば、古墳時代は四百年近くも続かず、民衆の反乱で崩れさっただろう。古墳時代は権力者が寺院や宮都造営に力を注ぐようになったから終わりを告げたとされる。

 巨大古墳の造営は、仕事のない農閑期、人々が集まってきたのではないか。古墳は完成させることに意義があるのではなく、集めた租税を還元すべく、農閑期の民衆を王が庇護するための「公共事業」だったと考える。

 そこで大仙陵をもう一度見直したい。墳丘の測量図は盛り土の等高線の乱れをはっきり示す。前方部正面だけ整っているのは明治政府の改修による。

 等高線の乱れは後世に墳丘が崩れたと考えられていた。しかし、よく見ると後円部の乱れには規則があり、中心軸から八等分する線上に稜線がある(図)。この八等分の区画は作業分担とされる。大阪府河南町の蔵塚古墳では墳丘全体が発掘され、八分割に土嚢が積み上げられ、その間を土砂で充てんしていく工法が明らかにされている。

 そうすると、大仙陵の等高線の乱れは土砂が充てんしきれていないことを示す。私はこの現象について、大仙陵が完成しなかったからだと考える。つまり、独りの王が治世できる最大限の時間を費やしても完成しなかった世界最大規模の公共事業である。それ以降、巨大古墳は縮小の一途をたどる。造営の限界を知ったからだ。

 大仙陵はこれまでにない巨大な設計図を描いたため、ついに完全な完成はなく、造営途中にして王の埋葬が終了してしまった。時間切れということだ。しかし、事業自体は次の王の墓をつくることで引き継がれた。その後も百舌鳥・古市古墳群では巨大古墳の造営が規模を縮小しながらも続けられたのである。

 巨大古墳は、王が自らの権力を民衆に誇示する目的でつくったものでも、後世の顕彰や墓参を願ったものでもない。そこにはいわば「日本型公共事業」の原点を見ることが出来ると考えられる。
 (にしかわ・としかつ 大阪府教育委員会文化財保護課技師)
(「赤旗」20080912)

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◎「古墳は完成させることに意義があるのではなく、集めた租税を還元すべく、農閑期の民衆を王が庇護するための「公共事業」だった」と。