学習通信080917
◎資本主義によって「きたえられる」……

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 すこし説明が長くなったが、かんじんなのは、ここからあとである。
 いまのべたように、このロシアの労働者たちは、誰にも強制されないで、「自由な自覚した規律」にしたがって生産や建設にとりくみはじめたのであるが、それではいったいぜんたい、この「新しい規律」は、社会主義革命が勝利したのちに、いいかえれば社会が資本主義から社会主義に移ったのちに、とつぜん「天から降ってくる」ように労働者たちのあいだに生まれてきたものなのだろうか。

 たしかに、資本主義から社会主義へと社会が変わり、生産や労働が資本家のもうけのためにではなく、働く人びとの利益のために行なわれるようになったならば、そうした自由な白覚した規律が、広範な労働者のあいだにひろがってゆく条件ができるにはちがいない。だが、規律とか道徳とかいったものは、人間のあいだの長いあいだの習慣と結びついたものであって、そう簡単に、とつぜん生まれ、ひろがってゆくものでないことも確かである。

 そうだとすると、社会主義社会になってモスクワ=カザン鉄道の労働者たちのあいだにあらわれ、ついで広範な働く人びとのあいだにひろがっていった、新しい、自由な、自覚した規律は、すでに、それ以前になんらかの形で芽ばえていたのでなければならないことになる。

 事実は、そのとおりである。そうした規律は、実は資本主義の諸条件のもとで、労働者階級のあいだに、それも、団結してたたかう労働者階級のうちに、必然的にそだってくるものであったし、革命をやりとげたロシアの労働者階級のうち少なくとも先進的部分のなかには、実際にそうしたものがそだっていたのである。

 そして、資本主義の諸条件のもとで抑圧され、搾取される労働者階級のうちにこそ、こうした来たるべき新しい社会の軸になる自由な自覚した規律が芽ばえ、そだってくるという事実のうちに、労働者階級とはどういうものかという問いにたいする答えも、実はふくまれているのであるが、話をいそがないで、まず、レーニンに聞こう。レーニンは、この問題について、「偉大な創意」のなかでこうのべている。

 「この新しい規律は天から降ってくるのでもなく、善意の願望から生まれるものでもない。それは大規模な資本主義的生産の物質的諸条件のなかから、もっぱらそのなかから成長してくるのである」。

しかも「これらの物質的諸条件の担い手、あるいは先導者は、大規模な資本主義によってつくりだされ、組織され、結集され、教育され、啓蒙され、きたえられた特定の歴史的階級」である労働者階級なのだ、と。

 このレーニンの言葉を、私なりに解釈してみると、それはつぎのようなことであろう。

 こんにちの工場制度のような、資本主義的な大規模生産がこの世にあらわれてくるまでは、人びとはどこの国でも、農民や手工業者として個々ばらばらに、分散して働いていた。

 ところが、資本主義の発展は、こうした人びとを没落させ、賃金労働者に変えた。そしてとりわけ座業革命で工場制度が発達すると、賃金労働者の数がいちじるしくふえ、労働者は一つの階級を形成するようになった。まさしく、労働者階級は「大規模な資本主義によってつくりだされ」たのであった。

 こうして資本主義によってつくりだされた労働者階級は、また資本主義によって「組織され、結集され」ることになった。というのは、工場制工業以前には、個々ばらばらに、分散して働いていた貧民や手工業者が、いまや賃金労働者として工場制工業に代表される大規模生産のなかにひきいれられ、一つの屋根の下、一つの工場構内に幾百人、幾干人、幾万人と集められて、協同作業に従事させられたからであり、まだ、そこで、分散して働く農民や手工業者にはみられない、規律ある組織的な生産労働に従わせられたからである。

そしてその結果、この新しい賃金労働者は、多数団結して資本にたいする組織的な抵抗闘争にたちあがるための条件を身につけてゆき、また実際にそのような組織的行動にたちあがっていったからである。

 この労働者階級は、また資本主義によって「教育され、啓蒙され」ることになった。というのは、工場制工業のもとで働く近代的労備者階級は、まず第一に、近代科学と技術の最新の成果が応用された大規模機械制生産にたずさわることから、古くさい手工的方法で働く公民や手工業界には考えられないような高い水準の科学的知識を、いやおうなしに身につけさせられたからである。そして第二に、労働者が都市に集中して住まわせられることから、経済、社会、政治の問題に目を向けさせられ、これらの問題について、科学的に考えさせられ、目を開かされていったからである。

 そして最後に、資本主義によって「きたえられる」というのは、もう説明するまでもないことであろう。労働組合に、また労働者階級政党に、団結するようになった労働者階級が、経済、社会、政治の間題について目を開き、自らの解放と、すべての抑圧され押収されている人びとの解放のためにたたかいはじめたときに、労働者階級は、雇主と官憲や軍隊による妨害、弾圧、迫害にさらされ、そのことによって、たえず階級的に「きたえられ」た。

こうして労働者階級は、解放のための思想と、階級的戦術を身につけ、勝利を保障する不屈の運動をきずきあげていったのである。

 以上にみたとおり、労働者階級とは、ほかならぬ資本主義のもとで、自分自身と人民全休の解放をめざす団結──自由な自覚ある規律にもとづくたたかいを発展させてゆかずにはいない階級なのであるから、レーニンが、これにさらにつけ加えて、つぎのようにのべたとしても、不思議ではないだろう。

 「ただ特定の階級、すなわち都市の労働界、一般に工場労働者、工業労働者だけが、資本のくびきを打倒する闘争のなかで、その打倒の過程において、勝利を確保し強化するための闘争のなかで、新しい社会主公的な社会組織を創設する事業のなかで、階級を完全に廃絶するための闘争全休のなかで、勤労披搾取者の全大衆を指導することができる」。
(中林賢二郎著「労働組合入門」労旬新書 p13-17)

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 読者はこうおたずねであろう。では、なぜ自然発生的運動、最小抵抗線をすすむ運動は、ほかならぬブルジョア・イデオロギーの支配にむかってすすむのか、と。

それは、ブルジョア・イデオロギーが、社会主義的イデオロギーより、その起原においてずっと古く、いっそう全面的に仕上げられていて、はかりしれないほど多くの普及手段をもっているという、単純な理由による(注)。

だから、ある国の社会主義運動が若ければ若いほど、非社会主義的イデオロギーを強めようとするあらゆる試みにたいする闘争をいっそう精力的におこなわなければならず、「意識的要素の誇張」等々をやかましく攻撃する、よくない助言者たちにまどわされないよう、いっそう断固として労働者に警告する必要があるのである。

例の「経済主義的な」手紙の筆者たちは、『ラボ・チェエ・デーロ』に調子を合わせて、運動の幼年期につきものの偏狭さをさんざんに叱りつけている。われわれは、これにたいしてこう答えよう。いかにもわれわれの運動は、実際に幼年期にある。だから、できるだけ速く成人するために、それは、自然発生性へのおのれの拝脆によって運動の成長を妨げるような人々にたいしては、ほかならぬ偏狭の精神を身につけなければならないのだ。闘争のあらゆる決定的な局面をすでにとっくの昔に体験してきた老人を気どるくらい、こっけいで有害なものはない!と。

(注)
労働者階級は自然発生的に社会主義に引きつけられる、としばしば言われている。このことばは、次の意味ではまったく正しい。

すなわち、社会主義理論は、最も深く、また最も正しく労働者階級の困苦の原因を示しているので、もしこの理論自身が自然発生性に降伏さえしなければ、もしそれが自然発生性を自己に従属させさえすれば、労働者はこの理論をきわめて容易にわがものにする、という意味である。

普通ならこれは自明なことだが、『ラボーチェエ・デーロ』は、まさにこういう自明なことを忘れ、また歪曲するのである。労働者階級は自然発生的に社会主義に引きつけられるが、それにもかかわらず、労働者に自然発生的に最も多く押しつけられてくるものは、最も普及している(そして、たえず多種多様なかたちで復活されている)ブルジョア・イデオロギーである。
(レーニン「なにをなすべきか」レーニン10巻選集 A 大月書店 p45-46)

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◎「社会主義理論は、最も深く、また最も正しく労働者階級の困苦の原因を示しているので、もしこの理論自身が自然発生性に降伏さえしなければ、もしそれが自然発生性を自己に従属させさえすれば、労働者はこの理論をきわめて容易にわがものにする、という意味である」と。