学習通信080918
◎自然発生性への、この闘争の無意識性への拝脆……

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 なぜ、労働組合の闘争が、こんにちまでこの基木問題を解決できないでいるのだろうか?

 これは、日本の労働者階級が資本主義社会という大きな搾取のからくりの中におかれていて、まだそれから抜出していないからである。

前にものべたように、資本主義社会では工場も機械も原材料もすべて資本家のものであり、資本家が生産と分配の支配権をにぎっている。

労働者は生きるために、自分の労働力を資本家に売って生活しなければならない。

しかも、労働力の価格である賃金は、他の商品と同じように、その生産に要する労働の量、すなわち、生活費を基準にして需要供給の関係によってきめられる。

だから商品としての労働力の対価が価値どおり支払われたとしても、労働者か受けとる賃金は労働者が家族を養い、毎日の労働をつづけられるだけの金額にかぎられている。

資本主義か発達し、さまざまな生産部門に近代的な工業生産がひろがり、その製品が商品としてますます広く流通するにつれで、農民や手工業者の没落がはじまり、職をもとめて工場の門に集まる労働者の数は増大する。

だが仕事は全部の労働者にいきわたるほどにはない。だれかがアブレなければならない。アブレれば一日飢えなければならない。

資本家はこうした事情を利用して、労働力をできるだけ安く買いたたく。しかも資本家は一人だけではない。多くの資本家や資本家のグループが国内でも国際的にもより多くの利潤を手にいれるために、商品市場の争奪をめぐって競争しているので、労働者を一円でも安く、一分でも多く働かせようとする衝動にかられてますます労働力の買いたたきを強める。

 相手をうち負かし、より多くの利潤を得るために、資本家たちはより性能の高い機械や新しい技術を採用する。

その結果、機械、設備や技術は進歩するけれど、それをそなえつけるためにはますます多くの資本を必要とするようになる。

こんにちでは、最新式の工場を一つ建てるのに、五億、一〇億ぐらいの資本を要することはあたりまえになっている。最新式の製鉄所や発電所をつくるためには五〇〇億円から一〇〇〇億円という膨大な資本が必要になっている。

こうした巨額な資本は弱少の資本家ではくめんすることができない。大資本家でも個人の財産や会社の収益だけではとてもまかないきれない。

だから銀行や保険会社など金融機関から資本を借り入れるようになる。また、財政投融資といって、国民の税金や郵便貯金、簡易保険の積立金までがこのために動員される。

こうして巨大な資本を持ち、銀行と結びつき、政府を支配することのできるひとにぎりの大資本家が、多くの産業部門で生産を支配する地位をしめ、弱少資本を征服し、収奪してますます独占的な地位を強めている。

この反面、農民や手工業者、中小企業者は収奪され、没落して、これらの階層から多くの人口が労働者の仲間に流れこんでくる。

だが、機械化や自動化は生産を増大させるのに比例して労働者の数をぶやしはしない。むしろ、労働者を職場から追い出す。熟練工の役割をひくめ、不熟練工とおきかえる。失業者は増大し、労働条件は一般的に低下する。

神武いらいの好景気というのに失業者と半失業者が一〇〇〇万人もあるということ、生産が戦争の二倍以上に高まっているのに、労働者の賃金が戦前水準を下まわっているというのも、こうした事情によるのである。一方ではますます多くの富が少数の独占資本の手の中に蓄積され、他方では、労働者階級がますます貧困化されていく。

 これが、資本主義社会における労働者階級の一般的な運命である。

資本主義のワクを破り、搾取の鉄鎖をたち切らないかぎり、労働者の状態を根本的にかえることはできない。

世界でもっとも古い労働運動の歴史を持っているイギリスにおいても、労働者階級が資本主義をたおしていないために、こんにちなお労働者は失業の脅威と賃金切下げ、労働強化などに苦しんでいる。

そして、労働時間の短縮や賃金引上げのためにストライキをもってたたかっている。オートメーション化による失業に反対してたたかっている。アメリカの労働者も、日本の労働者にくらべれば一〇倍も高い賃金をとっているけれど、アメリカ社会の生活水準から見れば、労働者の生活は低いものであって、労働者は生活と職を守るために失業に反対し、賃金の引上げや労働時間の短縮のためにたたかいつづけている。西ドイツ、フランス、イタリアにおいても事情は同じである。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p125-126)

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『ラボーチャヤ・ムィスリ』は政治闘争をまったく否定しているわけではない。『ラボーチャヤ・ムィスリ』第一号にのった基金組合規約は、政府との闘争のことを述べている。

ただ『ラボーチャヤ・ムィスリ』は、「政治はつねに従順に経済のあとに従う」と考えているだけである(他方、『ラボーチャ・デーロ』はこの命題を言いかえて、その綱領のなかで、「ロシアでは、他のどの国にもまして、経済闘争は政治闘争と切り離しえない」と主張している)。

もし政治ということを社会民主主義的政治の意味に解するなら、『ラボーチャヤ・ムィスリ』と『ラボーチェエ・デーロ』のこれらの命題はまったく誤っている。

すでに見たように、労働者の経済闘争が、ブルジョアや坊主などの政治と結びついている(切り離しえないほどでないにしても)ことが、ごくしばしばある。

もしまた政治ということを組合主義的政治の意味に解するなら、すなわち、労働者の境遇につきものの困苦の克服を目的とするが、まだこの境遇そのものを廃止しない、すなわち資本への労働の隷属を廃絶しないあれこれの方策を、国家に実施させようとするすべての労働者の共通の志向という意味に解するなら、そのときには『ラボーチェエ・デーロ』の命題は正しい。

このような志向なら、社会主義に敵意をいだいているイギリスの組合主義者にも、カトリック系の労働者にも「ズバートフ系」の労働者その他にも、実際に共通している。

政治にもいろいろあるというものだ。

このように、『ラボーチャヤ・ムィスリ』は、政治闘争についても、この闘争の否定というよりは、むしろこの闘争の自然発生性への、この闘争の無意識性への拝脆を示していることがわかる。

同紙は、労働運動そのもののなかから自然発生的に成長してくる政治闘争(より正しく言えば、労働者の政治的願望と要求)を完全に承認するが、社会主義の一般的任務と今日のロシアの諸条件とにおうじた、特有の意味での社会民主主義的政治を自主的につくりあげることを、まったくやらないのである。
(レーニン著「なにをなすべきか」レーニン10巻選集A 大月書店 p46-47)

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──労働者階級はこれらの日常闘争の究極の効果を過大視してはならない。

彼らは、もろもろの結果とたたかっているだけであって、それらの結果の原因とたたかっているのではないということ、下向運動に抵抗しているだけであって、その運動の方向をかえているのではないということ、さらには、一時しのぎの緩和剤を用いているだけであって、病気を治しているのではないということ、これらを忘れてはならない。
(マルクス「賃金・価格および利潤」新日本出版社 p185)

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◎「社会主義の一般的任務と今日のロシアの諸条件とにおうじた、特有の意味での社会民主主義的政治を自主的につくりあげること」と。