学習通信080919
◎対照的なある結婚衣装……

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ある結婚式

 ドライヤーの中で何ともすごいグラビアを見ました。特別のデザイナーがこしらえた豪華けんらんたるウエディングドレスの写真です。ドレス全体にダイヤモンドだの真珠だのが縫いつけられていて、いやもうそのきらきらしいと言うかギンギラギンというか、まばゆいようなドレスです。値段も気の遠くなるようなものでした。

 たちどころに私は対照的なある結婚衣装を思い出していました。ごく最近、私の教え子が結婚式をあげたのですが、そのシンプルなことと言ったら。大阪の衛星都市の小さな小さな教会(よくこれまた若い人憧れの、たとえば軽井沢あたりの、あんなロマンティックなものではない、ふつうの家のちょっと広い目のへやという趣きの、かなり風変わりな教会でした)の二階で、牧師さんの司式でとても簡素におこなわれました。二十人ちょっとだけのお客。私が前もって、いくら何でもあとで紅茶とケーキくらい出るのでしょうと言い、彼も、ええ、それくらいはと言っていたのに、教会の都合で、それさえもとりやめとなり、私たちは日本茶を一ぱいのんで、かえりにケーキ一きれ箱に入ったのを貰っただけというウルトラシンプル式でした。

 彼は、聞こえぬ女性を愛していました。それが、御両親の気に入らなくて、十年、必死に説得しつづけたのですが、ついに親の同意を得られぬままに挙式しました。お父さんだけがどうにか式には来て下さったのですが、私たちがあまりワイワイ楽しげなので、複雑きわまる表情も少しずつゆるんできたようでした。

 かわいい顔の花嫁さんは、手作りのドレスでした。とても質素でありましたが、裾をひき、チュールをつけ、けっこう豪華でした。ダイヤやパールは縫いつけてなくても、まるい直径ニセンチくらいの木綿のきれがところどころにつけられていて十分効果を発していました。お嫁さんは障害者ですが、ちゃんと職を持つ人です。久々の胸のすくような式でした。
(寿岳章子著「はんなり ほっこり」新日本出版社 p34-35)

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言葉の現場から@
赤旗校閲部

 「しんぶん赤旗」の校閲部では、「この言葉遣いは正しいのか」「間違った字ではないのか」など毎日、悪戦苦闘しています。読者から質問もきます。言葉について、いろいろな角度からみていきます。

「入籍」

 テレビやスポーツ新聞などではよく使われている言葉ですが、新聞を注意深く読んでいるとあまり出てこない言葉があります。

 芸能人などの結婚報道で使われる「入籍」という言葉です。婚姻届を出すことを「入籍」としているようですが、新聞では基本的に「入籍」は使いません。

 この言葉は、戦前の民法や戸籍法にもとづいての使い方で、相手方の家の戸籍(家長=戸主が統率する「家」制度)に入ることから「入籍」とされていました。

 戦後の新しい憲法のもとで改正された民法・戸籍法では、結婚の場合「入籍」という手続きはありません。現・戸籍法では「婚姻の届出があったときは、夫婦について新戸籍を編製する」(第一六条)としています(ただし養子縁組などの場合は「入籍」になります)。このため「赤旗」でも、結婚の場合「入籍」とはせず、「婚姻届を出した」「結婚した」などと表記するようにしています。

 このように、戦前の制度に伴う言葉が、戦後の民主的な憲法のもとでも無批判に使われている場合があります。

「市会」

 たとえば世間でよく使われる「市会議員」。「赤旗」では「市議会議員」または「市議」と直しています。

 「市会」を国語辞書で調べると「@旧制で、市制に基づく市の議決機関A市議会の通称」(「広辞苑』)となっています。「市制」とは、一八八八年(明治二十一年)に制定された法律で、市の構成・機能などを定めたもの。戦後、地方自治法の制定により廃止されました。「市会」の呼び方はこの法律にもとづいたものです。「赤旗」では、戦後の地方自治法にもとづいて「市議会」とするのが妥当だと考えています。(かわむら てつや)
(「月刊学習」08年4月号 日本共産党中央委員会 p74)

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「女大学」のおしえ

 女は三界に「家」はなく、生まれたときは父の「家」、嫁しては夫の「家」、夫が死ねば息子の「家」で、いつも男に従属して生きねばならなかったのです。この現実から「三従・七去」の教えがでてきます。「三従」の教えとは、女性は父・夫・息子の三人の男に無条件で従うべきであるということです。「七去」は離婚の法律です。

・おしゃべり
・やきもち
・夫の父母にさからう
・悪い病気
・ぬすみ
・不貞
・子がない

 この七つに一つでもあてはまると、一方的に離婚されてしまいます。貝原益軒が書いたといわれる『女大学』という女性の道徳書に「女はべつに君主なし、夫を君主と思え」とあります。

 「女の子は七才もすぎれば、よろずやわらかに、たおたおしく、つねのあそびも、女のすべきわざをのみもてあつかい、日に照らされず、雨にぬれず、男の子をあそび相手にせず」と佐久間象山も『女子訓』のなかでのべています。このころの「良家」(公家や武家)の娘たちは、家にばかりとじこもり、雨にもぬれず、風にもあたらず、日にも照らされないで、もちろんそれでは労働もできません。働かなければお腹もすかないでしょうが、ラーメン三杯ペロリといった大食いは許されません。いつも小食でなければなりません。大口あけての大笑いも 「良家」の子女のすることではなく、いつも「オホホ……」と口に手をあて、きびしい礼儀作法に手足をのびのびさせることもできませんでした。

 このようなもとで育ちますと、喜びも悲しみも、憎愛さえ十分に理解できない、ただ美しい人形のような、人間性を失った女性になってしまいます。肉体も健全に発育するはずがありません。「良家」の子女は「良家」の息子の本妻になることはできても、そんな体ではその「家」をつぐ丈夫な男子を生むことはできません。徳川将軍の「あとつぎ」は、御台所といわれる本妻がうんだ例は少なく、ほとんど側室という妾がうんでいます。「良家」の娘はおそらく子宮発育不全だったのでしょう。けっきょく、「良家」ほど「良家」出身でない妾のうんだ男子が「家」をつぐ結果になっているのは、皮肉で面白いことです。

 それでは、圧倒的多数の農民の家庭では、どうしていたのでしょうか。権兵衛とはな、田五作とつる、といった夫婦は、「百姓は愚なるこそよけれ」といった政策のもとで殿様の土地にしばりつけられ、ここで二人で田畑をたがやし、共働きしなければ生きていけないような仕組になっていました。収穫の大半は年貢として召しあげられ、貧しい生活をしいられているとはいえ、共に労働していること、つぐべき財産のないことは、男性にとって、妻は誰よりもたよりになる人生の伴侶にならざるを得ませんでした。

 娘たちも、幼いときから両親を助けて労働していますから、大食もするし、大笑いもするし人を愛し、憎み、よろこび悲しみを理解する豊かな人間性が自然に身につきました。もちろん身体的にも健康に発育し、人間としても、女性としても魅力的に成長するわけです。働くということが、人間を美しく魅力的にし、堂々と強く生きる力を養うものであることは、人権無視の最もひどかった封建時代でさえ、はっきりとあらわれています。

 「畑の草より田の草を取り、水の中でも手をにぎる」と農民の青年男女は、労働の場で胸のときめく「恋」をし、仲間を作り集団を愛する生活を作っていきました。

 しかし、風が吹きあれ、日照りがつづき、大水が出る、そして年貢が納められなくなると、娘が身売りされ犠牲になるというふうに、女性はいつも最も社会的に圧迫され、無権利で低い地位の存在であったことは、かわりありません。

 女性は「蒼白い顔の月に」されてしまい、「太陽を、今やとりもどす」ことなど、思いもよらない時代であったのです。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社 p164-167)

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◎「久々の胸のすくような式」と。