学習通信081002
◎任務の首尾一貫した遂行を保障する……

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三 労働組合の基本任務

 では、このような階級的大衆組織としての労働組合の基本的な任務は何であろうか。

1 経済闘争

 資本の侵害にたいして労働者の日常的諸利益をまもる経済闘争が、労働組合にとって、初歩的で具体的な任務の一つであることは、さきにのべた労働組合の生いたちからもあきらかである。

 はじめ労働者は資本の搾取にたいして、賃金や労働時間を中心とした労働条件を改善するために団結してたたかうことから労働組合をつくった。このような経済闘争は、資本主義がつづくかぎりやめることができないばかりか、必要であり、ますます重要となる。

 なぜなら、資本主義が発展するにしたがって、労働者の労働苦と生活苦はますます深刻に、かつひろがり、労働者はますます多面的な要求で団結するようになるから、経済闘争にはいっそう広範な労働者が参加し、ともにたたかうことによって団結の必要をさとり、労働者の組織化をうながすとともに、そのことが労働者の階級的な自覚をたかめる契機となるからである。さらに、こんにちの国家独占資本主義のもとでは、経済闘争も政治的性格をおびざるをえないからである。

 経済闘争を軽視したり、否定することは、労働組合の本来の任務をわすれ、そのもっとも広範な大衆的基盤をそこなうものである。

2 政治闘争との結合

 と同時に、労働組合は、その任務を経済闘争だけに限ることはできない。経済闘争は搾取の結果にたいするたたかいであって、けっして搾取そのものをなくするたたかいではない。したがって、労働組合がその任務を経済闘争だけに限るならば、資本主義のわくのなかでの部分的改良にとどまって、労働者階級を永久に賃金奴隷制の鎖につなぎとめることとなる。

 したがって、労働組合は労働者の直接的利益をまもる経済闘争だけではなく、民主主義の拡大と政治的地位の改善のためにもたたかい、さらに労働者階級の完全な解放、すなわち資本主義制度そのものを廃止して、社会主義社会の建設をめざす歴史的な事業に積極的な役割りを果たすことをめざさなければならない。

 とくに、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配の下で、日本の労働組合は、独占体と国家権力による全面的・体系的な搾取と収奪、民主主義の破壊、日米安保条約にもとづくアメリカ帝国主義の侵略と戦争の政策への協力・加担、アメリカに従属した下での軍国主義の復活、侵略戦争の脅威などにたいして政治闘争をつよめるとともに、さらにすすんで安保条約を廃棄し、日米軍事同盟と手をきり、経済的・政治的民主主義のてっていをめざして、当面、平和・中立・民主・生活向上の民主連合政府を樹立する統一戦線を結成する中心的な行動部隊とならなければならない。

 以上のような基本的任務をやりとげるために、労働組合は経済闘争と政治闘争を結合し、要求の実現をさまたげる資本家の思想攻撃うちくだく階級的教育をつよめ、組合員の政治的・階級的自覚をたかめて、労働組合の階級的任務をたえず発展させるとともに、この階級性と思想、信条、政党支持のちがいをこえて広範な労働者を結集するという大衆的、自主的な性格を統一しながら前進しなければならない。
(全国自動車運輸労働組合編集「労働組合員教科書」学習の友社 04-106)

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 最近では、ロシアの社会民主主義者の圧倒的多数が、工場内の状態の暴露を組織するこの仕事に、ほとんどまったく没頭していた。

この没頭がどんな程度に達していたか、またそのさい、この仕事がそれ自体では本質上まだ社会民主主義的な活動ではなく組合主義的な活動にすぎないことが、どんなに忘れられていたかを知るためには、『ラボーチャヤ・ムィスリ』を思いだせば十分である。

本質上、この暴露は、その当の職業の労働者と彼らの雇い主との関係をとらえただけで、それによってなしとげられたのは、労働力の売り手が、この「商品」をより有利な条件で売ることを、また純商業取引を基盤として買い手とたたかうことを、学びとったことだけであった。

こういう暴露は、(革命家の組織がそれを一定のやり方で利用するときには)社会民主主義的活動の端緒とも、構成部分ともなることのできるものであったが、しかしまた、「純労働組合的」闘争と非社会民主主義的な労働運動とにみちびくものともなりえた(そして自然発生性の前に拝跪するときには、そうなるほかはなかった)。

社会民主党は、労働力販売の有利な条件を獲得するための労働者階級の闘争を指導するだけでなく、また、無産者が金持に身売りしなければならないような社会制度をなくすための彼らの闘争をも指導する。

社会民主党は、ひとりその当該の企業家集団にたいしてではなしに、現代社会のすべての階級にたいして、組織された政治的暴力としての国家にたいして、労働者階級を代表するのである。

これからして明らかなことは、社会民主主義者は、経済闘争にとどまることができないばかりか、経済的暴露の組織が彼らの主要な活動であるような状態を許すこともできないということである。

われわれは、労働者階級の政治的教育に、その政治的意識を発達させることに、積極的にとりかからなければならない。

今日、『ザリャー』と『イスクラ』によって「経済主義」に第一撃がくわえられたあとでは、このことには「みなが同意している」(もっとも、じきに見るように、一部の人々はただ口さきで同意しているにすぎないのだが)。

 そこで問題になるのは、この政治的教育はいったいどういうものでなければならないか、ということである。

労働者階級は専制にたいして敵対的な関係にあるという思想を宣伝するだけにとどまることができるだろうか? もちろん、できない。

労働者にたいする政治的抑圧を説明するだけでは足りない(労働者に、彼らの利害が雇い主の利害と対立することを説明するだけでは足りなかったのと同じように)。

さらに、この抑圧の一つひとつの具体的な現われをとらえて扇動することが必要なのだ(われわれが経済的圧制の具体的な現われをとらえて扇動しはじめたのと同じように)。

ところで、この抑圧は、種々さまざまな社会階級にのしかかっており、職業的、一般市民的、個人的、家庭的、宗教的、学問的、等々の、生活と活動の種々さまざまな分野に現われているのだから、専制の全面的な政治的暴露を組織する仕事を取りあげないかぎり、われわれは労働者の政治的意識を発達させるという自分の任務を果たしえないであろうことは、明らかではないだろうか? 

圧制の具体的な現われをとらえて扇動するためには、この現われを暴露することが必要ではないだろうか(経済的扇動をおこなうためには、工場内の濫用行為を暴露しなければならなかったのと同じように)?

 これは明瞭なことのように思われるだろう。しかし、まさにこの点で、政治的意識を全面的に発達させる必要があることに「みなが」同意しているというのが、口さきだけの詣であることが、たちまち明らかになる。

まさにこの点で、たとえば『ラボーチェエ・デーロ』にしても、全面的な政治的暴露を組織する(あるいはそれを組織する糸口をつける)という任務を自分で引きうけなかったばかりか、この任務に着手した『イスクラ』までもうしろへ引きもどそうとしかかったことが、たちまち明らかになるのである。

まあ、聞きたまえ。
「労働者階級の政治闘争は、経済闘争の最も発達した、広範な、効果的な形態にすぎない。」(まさに、それだけにとどまらないのだ)(『ラボーチェエ・デーロ』の綱領──『ラボーチェエ・デーロ』第一号、三ページ)。「いま社会民主主義者が当面している任務は、どうやって経済闘争そのものにできるだけ政治性をあたえるか、ということである。」(マルトイノフ、第一〇号、四二ページ)「経済闘争は、大衆を積極的な政治闘争に引きいれるために、最も広範に適用しうる手段である。」(同盟大会決議と「修正提案」−『二つの大会』、一一ページ、および一七ページ)。

読者の見られるとおり、これらの命題は、同誌創刊のはじめから最近の『編集局への指針』にいたるまで、『ラボーチェエ・デーロ』誌を一貫しているものであって、それらはみな、明らかに、政治的扇動と闘争とについての同一の見解を、あらわしている。

ところで、この見解を、政治的扇動は経済的扇動のあとに従わなければならないという、「経済主義者」全体のあいだにおこなわれている意見に照らして調べてみたまえ。

経済闘争が一般に大衆を政治闘争に引きいれるために「最も広範に適用しうる手段」であるというのは、正しいであろうか? 

まったくまちがっている。警察の圧制や専制の暴虐のありとあらゆる現われも、そういう「引きいれ」のために「広範に適用しうる」手段である点でいささかも劣るものではなく、経済闘争に関連のある現われだけがそういう手段なのではけっしてない。

農村司政長や、農民の体罰、役人の収賄や、都市「庶民」にたいする警察の扱い方、飢えた人々にたいする闘争や、知識と学問を求める人民の渇望にたいする迫害、税金のむごい取立てや、異宗派の迫害、兵士のきびしい訓練や、学生と自由主義的インテリゲンツィアの兵籍編入──「経済闘争」に直接関連のないこれらすべての圧制の現われや、その他幾千の同様な圧制の現われは、なぜ一般に政治的扇動のため、大衆を政治闘争へ引きいれるために、経済闘争ほど「広範に適用しうる」手段やきっかけでないのか? 

事実はまさにその反対である。労働者が(自分自身のことでなり、身寄りの人々のことでなり)日常生活で無権利や専横や暴力に苦しめられる場合全体のなかで、まさに労働組合闘争で警察の圧制をこうむる場合がほんの一小部分を占めるにすぎないことは、疑いがない。

では、社会民主主義者にとって、一般的にいって、同じくらい「広範に適用しうる」手段がほかにもいろいろあるにちがいないのに、いったいどういうわけでただひとつの手段だけを「最も広範に適用しうる」手段であると宣言して、あらかじめ政治的扇動の規模をせばめるようなことをするのか?

(注)
 われわれが「一般に」というのは、『ラボーチェエ・デーロ』が論じているのは、まさに全党の一般的諸原則や一般的諸任務のことだからである。実践においては、実際に政治が経済のあとに従わなければならない場合もたびたびあることは、疑いがない。

──しかし、全ロシアを対象とした決議のなかでこんなことを言うのは、「経済主義者」でなければやれないことである。

「はじめからもっぱら経済を基盤として」のみ政治的扇動をおこなうことのできる場合だってしばしばあるのだが、それでも『ラボーチェエ・デーロ』は、けっきょく、そういうふうにする「必要はまったくない」(「二つの大会』、一一ページ)という結論におちついたではないか。われわれは次の章で、「政治家」と革命家の戦術が社会民主党の労働組合的任務を無視するものでないばかりか反対に、この戦術だけがそういう任務の首尾一貫した遂行を保障することを示そう。
(レーニン著「なにをなすべきか」レーニン選集A 大月書店 p59-62)

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◎「労働組合の階級的任務をたえず発展させるとともに、この階級性と思想、信条、政党支持のちがいをこえて広範な労働者を結集するという大衆的、自主的な性格を統一しながら前進しなければならない」と。