学習通信081006
◎煽動と宣伝と教育……

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 ──一九七〇年代初頭におけるこの定式化は、基本的な理念としては、今日もなお、大衆的学習教育運動内部にひきつがれている。

 ただし、理念と現実との間には一定の落差がある。いちばん大きな問題は、まず『友』の読者に、それから初級労働学校へ、というのではなくて、この順序が逆転するということが、その後むしろ一般化してきたということである。そして、それにはそれなりの根拠があるように思われる。

 これについて考える手がかりを、一九六九年一一月にひらかれた第一回労働者教育研究集会の基調講演「労働者教育の現状と問題点」において堀江正規氏が行なった煽動と宣伝と教育の区別と関連についての定式化に求めたい。──先に紹介した一九七〇年度の協会運動方針における問題提起も、あきらかにこの堀江氏の発言とかかわりをもっていると思われる。

 「煽動とは一つのことで労働者階級をたちあがらせること」、「宣伝とはもっとたくさんのことでたちあがらせること」、「教育はもっと組織的・体系的にやること」というのが、そこでの氏の定式化であった。

「もっと乱暴ないい方でいえば、煽動とはロでやるものだ、宣伝とは字を使ってやることで、教育は本でやると考えればわかりやすい」とも氏はつけ加わえている。これは、カウツキーならびにレーニンの古典的な規定をふまえながら、さらに、それをゆたかにし、かつ簡潔に定式化したものといえるだろう。

 もちろん、この定式化では、煽動、宜伝、教育の区別の側面がもっぱら前面におしだされ、統一の側面は後景に退けられている。

そして、今日においては、煽動と宣伝との区別はかつての時代以上に相対的なものとならざるをえない事情にあり、煽動・宣伝と教育との区別もまた同様だということを忘れてはならない。

それは、@煽動が宣伝の要素を、宜伝が教育の要素を多分にそなえなければならないという意味においても、A逆に、教育が宣伝の要素を、宣伝が煽動の要素をあわせそなえなければならないという意味においても、強調されるべきことである。

ここに詳論するゆとりはないが、@は、客観的な情勢ならびに反動的思想攻撃の複雑多様化に応じるものであり、Aは、理性と感性とをきりはなす今日の支配的思想の特徴、その影響下に私たちの教育対象がおかれているという事柄に対応するものである。

 そうしたことを念頭においたうえで、しかし、煽動・教育の相対的な区別を問題にすることは、なおけっして無意味ではないであろう。この観点からみたとき、大衆的学習教育運動の三つの主要形態のそれぞれについて、どういうことがうかびあがるだろうか。

 まず第一に、『友』についていえば、それは大衆的学習教育運動のもっとも初歩的、基本的形態として位置づけられてきた。この位置づけは、将来とも基本的に変わらないだろう。でなければ、十数万、二〇万、三〇万の『友』という目標をかかげることは不可能である。しかし、『友』は雑誌であり、字を使ってやるという基本的性格をいわば「宿命的」にもっている。この性格がらはずれることはできない。まず『友』の読者に、という基本的理念がなかなか現実のものとなりにくい原因のひとつは、あきらかにここにあるだろう。いいかえれば、大衆的学習教育運動のもっとも初歩的な形態たることをめざすというその基本的な任務と、字を使ってやるというその基本的性格と、この両者の統一をどう実現するか、させるかというところで『友』の編集部はつねに悩み、模索し、努力しているといえるだろう。

 「字を使ってやる」仕事であるかぎり、それは、その意味では、先に述べられた「宣伝」の仕事に相当するもの──それを主要な側面とするもの、ということにならざるをえない。しかし、その『友』について、「字が多すぎる」という批判が多数寄せられてくる。「あれもこれもと書きすぎる」という批判もある。みな『友』の普及・活用のために努力している現場からの意見である。これらの意見は、『友』の役割が「宣伝」にあることは当然ながら、その比重をもっと「煽動」の方に近づけることを求めているもの、ということになろう。「学習誌」としての基本的性格を堅持しつつ、同時に多少の冒険をあえてしても、試行錯誤をふくむ、この方向への努力を追求することが『友』の今後の課題だといえるだろう。

 つぎに、初級労働学校についていえば、ここでももちろん字は使われる。初級労働学校には最低レジメが必要であり、レジメは字で書かれる。テキストが使われる場合さえもある。テキストは本である。また、黒板に宇も書く。このように、字を使いもするけれども、どちらかといえば、それは補助手段であって、口でやることが主要な比重を占めるというのが、初級労働学校の特徴である。

そこでなされるのがあくまで教育だということは当然ながら、同時にそれがもっぱら口でなされるものだという点からすれば、それは「煽動的教育」とでもいうべき性格をもたざるをえないだろうし、またそこでの教育内容にあまり多くのことをつめこむことはできず、それほど「組織的・体系的」にやるというわけにもいかないという点からすれば、「宣伝的教育」とでもいうべき性格をもたざるをえないことになるだろ。

 すなわち、一言でいえば、「口でやる」という基本的性格と、しかも一つより多くのことを教えなければならないという基本的任務と、この両者を統一させるということが初級労働学校の課題である。今日、全国各地の初級労働学校は、こうした課題をどう実現するかということをめぐって、さまざまな試行錯誤をくりかえしながら、模索をつづけているように思われる。

すなわち、そのカリキュラムの組み方やテーマの設定、表現の仕方などをめぐる論議は、おおまかにいって、その「教育」としての本質を強調する意見と、その方法における「煽動」的・「宣伝」的要素を強調する意見との討論というかたちをとりながら、この両者の統一のうえになりたつ適切な運動形態を模索しつつあるように思われる。

 いずれにせよ、初級労働学校の方が、むしろ『友』に先行するという現実が生じてくるゆえんは、『友』が字でやるという基本的な性格をもち、労働学校は口でやるという基本的な性格をもつということと深くかかわっているであろう。

 ところで、『友』と初級労働学校について右にみてきたことは、大衆的学習教育運動の仕事がこの二つによってだけではつくしえない、ということをも物語っているであろう。右にみてきたような、特徴をもつ初級労働学校や『友』をつうじての教育は、それだけ広はんな労働者を対象としうるという大きなプラスとともに、また必然的な制約をもっている。それだけではどうしても「ひとつ覚えの学習」の域を脱しえないという制約である。

かつて協会の第八回総会(一九六五年)は、「ひとつ覚えの学習ではなしに、実際のなかに法則をみつけだすことができるようにする」ことの重要性を強調し、そのためには「独習によって理論を学ぶこと」が不可欠であると強調していた。この「独習によって理論を学ぶこと」を助けるものとして──そういう学習=教育の形態として生みだされてきたものが勤通大であったということができよう。それは、初級労働学校や『友』だけではつくしえない本来の教育の任務、すなわち「本で」「もっと組織的・体系的にやる」という任務をうけもつものとして歴史的に生みだされてきたものであった。
(「労働者教育論集」学習の友社 p219-223)

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……そして──やっぱり理解できなかったのだ! おそらくこれもまた、社会民主党は、「人類と同じように」、つねに自分で解決できる任務だけを自分に提起するからであろうか? しかし、ロモノーソフ連の特徴は、知らないことがたくさんあるという点だけでなく(それだけだったら、まだなかばの不幸であったろうが! )、また自分の無知を自覚しないという点にある。こうなると、もうほんとうの不幸であって、この不幸が彼らを駆って、いきなりプレハーノフを「深めること」にとりかからせるのである。

 ロモノーソフ=マルトィノフは語る。
 「プレハーノフが前述の小著」(『ロシアの飢饉との闘争における社会主義者の任務について』)「を書いてから、多くの歳月が流れさった。社会民主主義者は、一〇年にわたって労働者階級の経済闘争を指導してきたが、……党の戦術に広範な理論的基礎づけをあたえるいとまはまだなかった。いまでは、この問題は機が熟している。そして、もしこのような理論的基礎づけをあたえたければ、われわれは、疑いもなく、かつてプレハーノフが展開した戦術の諸原則をいちじるしく深めなければならないであろう。……いまやわれわれは、宣伝と扇動の差異を、プレハーノフとは違ったふうに規定しなければならないであろう。」

(マルトィノフは、ついそのまえのところで、「宣伝家は一人または数人の人間に多くの思想をあたえるが、扇動家は、ただひとつの、または数個の思想をあたえるにすぎない。そのかわりに、扇動家はそれらを多数の人々にあたえる」というプレハーノフのことばを引用したのである。)

「われわれは、宣伝ということばを、個々の人間にとって理解しやすい形態でなされるか、広範な大衆にとって理解しやすい形態でなされるかにかかわりなく、現制度全体またはその部分的現われを革命的に解明することと解したい。また、扇動ということばを、厳密な意味では(原文のまま!)、大衆に一定の具体的行動を呼びかけること、社会生活へのプロレタリアートの直接の革命的介入をうながすことと解したい」。

 新しい、より厳密な、より深遠なマルトィノフ式用語が生まれたことについて、 ロシアの──そしてまた国際的な──社会民主党に祝意を述べよう。

いままでわれわれは(プレハーノフや、さらにまた国際労働運動のすべての指導者だちといっしょに)、宣伝家とは、たとえば同じ失業の問題をとりあげるにしても、恐慌の資本主義的な性質を説明し、今日の社会で失業が避けられない原因を示し、この社会が社会主義社会へ改造されてゆく必要性を描きだすなどのことを、しなければならないものと、考えていた。

一言でいえば、宣伝家は「多くの思想」を、しかも、それらすべての思想全体をいっぺんにわがものにすることは少数の(比較的にいって)人々にしかできないくらいに多くの思想を、あたえなければならない。

これに反して扇動家は、同じ問題を論じるにしても、自分の聞き手全部に最もよく知られた、最もいちじるしい実例──たとえば失業者の家族の餓死とか、乞食の増加などというような──をとりあげ、このだれでも知っている事実を利用して、ただ一つの思想──富の増大と貧困の増大との矛盾がばかげたものであるという思想──を「大衆に」あたえることに全力をつくし、大衆のなかにこのようなはなはだしい不公平にたいする不満と憤激をかきたてることにつとめるが、他方、この矛盾の完全な説明は、宣伝家にまかせるであろう。

だから、宣伝家は、主として、印刷されたことばによって、扇動家は生きたことばによって、活動する。

宣伝家に要求される資質は、扇動家に要求される資質と同じではない。たとえばわれわれは、カウツキーやラファルグを宣伝家とよび、ベーベルやゲードを扇動家とよぶであろう。

しかし、実践活動の第三の分野または第三の機能を別にとりだして、「大衆に一定の具体的行動を呼びかけること」をこの第三の機能にかぞえるのは、このうえなく不条理な話である。

なぜなら、単独の行為としての「呼びかけ」は、理論的小冊子であれ、宣伝パンフレットであれ、扇動演説であれ、そのどれにとっても自然の、なくてならない補足物であるか、それとも純然たる執行的機能をなすものであるか、どちらかであるからだ。

じじつ、今日ドイツの社会民主主義者が穀物関税に反対してやっている闘争を例にとってみよう。理論家は関税政策についての研究を書いて、たとえば、通商条約の締結と通商の自由のためにたたかうように「呼びかける」。宣伝家は雑誌のなかで、扇動家は公開演説のなかで、これと同じことをやる。

大衆の「具体的行動」とは、この場合には、穀物関税を引き上げるなという国会ヘの請願書に署名することである。この行動の呼びかけは、間接には、理論家、宣伝家および扇動家によってなされ、直接には、署名用紙を工場や各民家にくばる労働者たちによってなされる。「マルトィノフ式用語」によると、カウツキーもベーベルも宣伝家で、署名用紙のくばり手が扇動家だということになる。そうではないか?
(レーニン「何をなすべきか」レーニン一〇巻選集A大月書店 p68-70)

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◎「一言でいえば、「口でやる」という基本的性格と、しかも一つより多くのことを教えなければならないという基本的任務と、この両者を統一させるということが初級労働学校の課題」と。