学習通信081008
◎多喜二が命がけで執筆した小説……
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朝の風
「蟹工船」、時代を超えた共感
「蟹工船」ブームに関連して、最近ではその火付け役を論ずるものまで現れている。ここまでくると、「蟹工船」ブームのとらえ方という面でも首を傾げさせる。そんな中で、「朝日」五日付文化欄、作家の帚木蓬生(ははきぎほうせい)の言葉が真っ当に思える。
「小林多喜二が読まれているのは現代作家の怠慢。読んだ人の人生が変わるくらいの小説を書かないと、作家の存在意義はない」
帚木は作品「蟹工船」に「読んだ人の人生が変わるくらいの」力量を率直に認め、そうした作品が見られない現状にこそブームの根拠を読み取っているのである。そう言えば、戦前も「蟹工船」は同じ読まれ方をしていた。その意味で、「蟹工船」ブームは今に始まったものでないことが分かる。経済学者の故都留里人が若き日に作品に出合った時の回想を見てみよう。
「『一九二八・三・一五』や『蟹工船』は、単に私の眼をそれまで未知の現実にたいしてひらいてくれただけでなく、文学そのものにたいする私の態度までも変えてしまった。」(「文学と私」 一九五三年八月)都留はこの後学生運動に加わり、捕まる。時代に挑んでその先端をリアルに切り取ってきた文学が、時代を超えて共感をもたらすのは何とも壮観である。(乾)
(「赤旗」20081008)
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多喜二が息づく北の大地
北の大地がいま、熱く燃えている。「弱い者は食われても仕方がない」とする弱肉強食の「構造改革」路線のもとで貧困と格差が広がり、北海道で学び、働き、活動した戦前のプロレタリア作家、小林多喜二の『蟹工船』がブームを巻き起こしている。
多喜二が「資本主義は人間を人間扱いしない」と書いたように、人を人とも思わず、部品のように使い捨てる働かせ方が横行している。六月に実施した日本共産党の青年学生キャラバンで、ボロボロになるまで働かされている青年の実態が明らかになった。参加したメンバーは、各地で出会った青年の告発に憤激した。
多くの青年が初めてマイクを握った。苫小牧市で清掃の仕事をしているTさん(二四歳)は、「時給は七〇〇円。最近、父を亡くし、母を支えたいけど、できません。こんな社会を変えたい」と語った。
小樽では、二年前から日雇い派遣をしているUさん(三六歳)が実態を打ち明けると、道ゆく若者が足を止めて聞き入った。「『自己責任』だと自分を責めていましたが、大本には一九九九年に労働者派遣法が改悪され、派遣が原則自由化されたことがあると知りました。二〇〇四年には製造業にまで拡大されました。『苦しんでいるのはあなただけではない』と励まし、派遣法改悪に反対を貫いたのは日本共産党だけでした」。訴えに、街頭から拍手がわきあがり、声援が飛んだ。
多喜二が命がけで執筆した小説とそっくりの野蛮な資本主義に対し、それを変えようとする青年の「団結」が息づいている。(名)
(「経済」2008年8月号 新日本出版社 p5)
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羅針盤ある人生を
正しい理論がなければ正しい実践もありえない
たしかに私たちの人生には天気晴朗の日もあれば、嵐の日もあります。それは社会の歩みが亀の歩みのようにのろのろとすすむ時期があるかと思えば、「二十年を一つに」つめこんだかのような激動の時期、これが交互にやってくるというのとよく似たところがあります。それはとくに、社会変革をめざしてその実践に明け暮れする人たちにとってはどうしてもさけることのできない宿命的なものともいえるでしょう。
私たちの場合もけっして例外ではありませんでした。この本の手紙や日記のなかにも、そうした波らんの大小をかいまみることができるように思います。
問題はそうした起伏と波らんの瞬間にあって、いつでも目標を見失なうことのないように、変革の思想と行動を堅持することができるかどうかです。堅持できなければ挫折があるだけです。
そもそも社会変革の実践者たるものの特徴というのはどこにあるのでしょうか。
それはかんたんな話で、いつも理想の灯をかかげて、それに向かって生きている、ということです。ところがこの理想の灯というのはやっかいなもので、一度点火すればもうあとはいつまでも燃えつづける、というようなものではありません。嵐に吹かれて消えてしまうこともあれば、まただんだん小さく弱くなっていって、やがて消えてしまう場合だってあるのです。
だから、いつも理想の灯を赤々とさせておくための何かが必要です。油を補給しなければランプは消えてしまうのと同じことです。実は、その油が科学的社会主義の理論で、その補給作業が学習のいとなみにほかならないということです。理論は経験の総括です。その理論を学び、理論を身につけることなしに、正しい実践もありえないのです。
私たちの青春時代といえば、あの敗戦直後のころのことで、当時は理論などという七めんどくさいものよりも、まず実践あるのみ、というような風潮がさかんでした。学問などというぜいたくなものは世の中が変わってからゆっくりやればよい、というわけです。
いまから考えてみると、これほど大きなまちがいはありません。第一、高い山をのぼるのに、正確な羅針盤もなしにどうして頂上をきわめることなどできるでしょうか。
それから、日本のような国の社会変革、それは国民多数の考え方を変えて統一戦線に結集しなければなりません。仲間たちを変え仲間をうんとふやす、このことなしに社会変革などやれるはずがない、ところが仲間を変えようと思えばまず自分自身を変えることが先決です。自分はじっとしていて、それで仲間だけを変える、そんな虫のよいことができるはずはありません。まず自分自身を変える、そうしていっそう前進する、そうして労働者階級としてのしっかりした立場に立つ、このことを階級性を身につけるといいます。
あのレーニンは、その階級性の徳目に「高い献身、忍耐、自己犠牲、英雄主義、そして必要とあればある程度大衆ととけあう能力(大衆性のこと……引用者)さらに指導の正しさ」などをあげました。が、こうしたものを身につけることは、けっしてたやすいことではありません。とはいえ、私たちもそこに近づくために最大限の努力をしたいものだと思います。
ところでこうした階級性を身につけるには、どうすればよいのでしょうか。私の考えでは二つの通路があるように思います。
その第一は、なんといっても階級的な変革の理論、つまり科学的社会主義の理論を学ぶことだと思います。生きるというのはたたかうことです。たたかうためには連帯が必要です。同時に、それを導く羅針盤、つまり正しい変革の理論がなければいけません。ただむやみやたらにやればよい、などというものでないことはあきらかなことです。
たしかに、理論を学ぶというのは根気のいることで、まるでさいの河原の石づみといっしょではないかと思えることもないではありません。しかし、理想の灯をいつも赤々と燃えたたせておくためには、たえることのない油(科学的社会主義)の補給作業、これが絶対に必要なのです。そういう点では学習というのは一生涯の仕事で、もうこれでよいということはありません。私たちも青春の時代からずっと今日にいたるまで、学習だけはたやすことなくつづけています。それは習慣の一部とさえいえるものになってきているように思います。
それから、労働者階級としての正しい立場、観点を確立するためのもう一つの通路、それは積極的に実践の経験をつむことです。「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、ほんとうにそうだと思います。もちろん私たちの活動はいつもいつもきまって成功するものとはかぎりません。いや、むしろ失敗することのほうが多いかもしれません。大きな失敗、小さな失敗、傷つくことだってある。だけどそういう体験をくりかえしながら反省をつみ重ね、だんだんに多くのものを身につけることができるようになるのです。
やっぱり泳ぎをおぼえようと思えば、いろいろと解説書を読むことも大切ですが、まず水のなかにとびこまなければだめということです。まず本を読んで──そのことも大切ですが──そうして泳ぎの法則を頭にいれていても、実際にとびこんでみると、はじめはどうしてもプクプクと沈んでしまうでしょう。
そのことを恐れてはなりません。恐れないで体験をどんどんつむ、そういう姿勢こそが階級性を身につけていくうえでは決定的に重要ではないかと思います。
これを要するに一口でいえば、理論と実践の統一ということにつきます。つまり科学的社会主義の理論をしっかり学習することと、それを羅針盤として実践をつみ重ねること、この両面を統一していく以外にはありません。
最初から名実そなわったものがあるわけはありません。階級性というものは、やはり自分で苦労しながらだんだんに身につけていく以外にないということ、どこかにできあいのものがころがっていて、いつでも手軽に手にいれられるなどというものでは絶対にないということです。
空想的なものから科学的なものへの発展
みなさんは、あのメーデー歌の一節に
汝の部署を放棄せよ/汝の価値にめざむべし/全一日の休業は/社会の虚偽をうつものぞ」
というのがあるのをご存知でしょう。「汝の価値」というのは、労働者階級こそやがてくる新しい社会のにない手であり、そのためにたたかうすばらしい階級だという意味です。
そして「めざむべし」というのは、自覚しなさいということです。だから両方あわせて労働者階級として自覚しろ、という意味になります。ところがこの「めざめる」というのがなかなか簡単ではありません。まず労働者の階級的自覚とはいったいどんなことなのでしょうか。
レーニンは労働者の階級的自覚について三つの要素をあげています。
その一つは階級闘争の必要性を理解しているかどうか、二つめに社会階級の一員としての自覚があるかどうか、そして三つめには国政革新をめざす意欲と決意、わかりやすくいうと、こういうことになるでしょう。
もちろん、こうしたものは、ほおっておいても一人でにわかるようになる、などというものではありません。たとえば、いま日本の労働者階級は約四千二百万人(一九八三年)、しかも、自分はその四千二百万分の一なんだなどという意識、これは活動をやっていれば学習しなくても一人でにつかめるようになるなどということは絶対にありません。
そうです、労働者の自覚というのは、レーニンが強調したように「社会主義的意識はプロレタリアートの階級闘争のなかへ(外部から)もちこまれた或るものであって、この階級闘争のなかから(原生的に)生まれてきたものではない」のです。
労働者が階級的に自覚するには、自覚するだけの素地があるのですが、そこに何かのきっかけであるものを注ぎこむことによって「めざめ」がはじまるのです。
それは、現実にいろいろな場合を見聞きすることができるのではないでしょうか。たとえば、すばらしい先輩、友人、兄弟、あるいは先生とか、いろいろな人から、「おい、労働学校にいってみないか」とか、「おい、この新聞すごく面白いしためになるぞ、読んでみないか」とか、かならず何かのきっかけがあって、そのきっかけがもとで科学的社会主義に接近する、そういうさまざまなすじ道があるはずです。
私の場合もそうでした。当時まだ十代後半の私はある友人といっしょの下宿生活でした。ある日、近所の銭湯からの帰り道のこと、「おい! 唯物史観知ってるか?」と聞かれても、なんにも答えることができませんでした。そこで私はすぐに近所の本屋に行って、はじめて手にしたのが、住谷悦治著『社会科学の基礎理論──唯物史観の解説』という二百頁ほどの小さな本でした。いまでも私の本棚の一隅にあるこの赤線でいっぱいの小さな本こそ、私がはじめて手にした科学的社会主義の本だったのです。こうして私の科学的社会主義の理論とのつきあいがはじまりました。
それは低いものから次第に高いものへ、未熟なものからだんだんに熟したものへと前進発展していきました。
十九世紀の空想的社会主義は「資本主義のもとでの賃金奴隷制の本質を説明することも、資本主義の発展法則を発見することも、また新しい社会の創造者となる能力をそなえた社会勢力を見いだすこと」もできませんでした。そういう歴史的な限界をはじめからもっていたのです。
マルクス、エンゲルスの科学的社会主義の理論はこの限界をのりこえたところにあり、それは人類の認識の発展を意味するものでした。こういう人類的な認識発展は、個人の認識の歴史のうえでも、私たち一人ひとりの認識の発展という形でおこりうることです。空想から科学へ、それは私たち自身の体験でもあります。
私たちははじめから社会の発展についての科学的な見方を身につけているわけではありません。はじめはばく然とただよりよい政治や社会をもとめるという意識でしかありませんでした。が、こういう最初の出発点からでて、いろいろな経験や学習をへて、科学的なものの見方や考え方を身につけていくのです。
だから何もあせることはありません。どんな人でもはじめから立派な理論家だったわけではないのです。ねばり強く自分で努力するかどうかの違いです。その努力、そこにはかならず成長と発展があることでしょう。
(有田光男、有田和子「わが浅春の断章」あゆみ出版社 p237−243)
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◎「時代に挑んでその先端をリアルに切り取ってきた文学が、時代を超えて共感をもたらすのは何とも壮観である」と。