学習通信081010
◎私は、悪あがきをする人が好きだ……

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1 悪人礼賛!

いまどきの悪人、
ほんとうの悪人

 低音の声が魅力の姜尚中さんと仕事で一緒になった。
 隣に座っていると、姜さんが「六ヵ国協議が」と言おうが、「お腹がすいた」と言おうが、話の中身には関係なく、なんだか懺悔室で神父さまのお言葉を聞いているような、ありがたい気持ちになってくる。

 「姜さんの声を聞いていると、神さま、仏さま、ごめんなさい、もう悪いことはしません、許してください、と深ーく反省したい気持ちになるんですよねえ」
 そう言ったら、「え、そんなにいつも悪いことしてるの?」とあの低音で返ってきた。
 もちろんです。
 悪いことをしないで生きられるほど、私は悪党ではありません。

 私は、「現代の悪」とは、ちょっとした手抜きとか、見て見ぬフリをすることだと思っている。

 たとえば、アスベスト。米国では三〇年も前からこれが「死の製品」であると警告されていたのに、日本では役人や企業が見て見ぬフリをして放置してきた結果、現場で働いていた人たちばかりか、その家族や工場周辺に住んでいた人たちまでが中皮腫などで亡くなった。

 悲劇は今なお続いている。
 その構造は、まさに薬害エイズのときと同じだ。このときも、官僚の手抜きと見て見ぬフリが大量の被害者を出し、多くの人たちを死に追いやった。

 人が、意識して人を殺すことは簡単ではない。しかし、官僚システムや巨大メディアの中では、個人のちょっとした手抜きを組織が放置することによって被害が拡大し、ときに多くの人が殺される。それこそが、私が考える「現代の悪」なのだ。

 しかし、いま日本社会で「悪」と呼ばれているものは、これとは違う。

 「フェミナチ」「反日」「サヨク」「人権派」というレッテルが貼られるものが、いまどきの「悪」なのだ。

 男女平等、ジェンダーフリーは、専業主婦を侮蔑しフリーセックスを唱える「フェミナチ」。養護施設で現場の必要に沿った保健教育の教材を作っても、「フェミナチ」。女性への暴言に抗議をしたり、非嫡出子への人権侵害に声を上げたり、夫婦別姓を求めたりしても、やはり「フェミナチ」。

 反戦のビラを配っただけで逮捕され、「サヨク」扱い。靖国参拝を非難する者は、愛国心のない「サヨク」で「反日」。戦後補償を求める者は、日本の税金を奪おうとする「反日」。民族名を使う在日朝鮮人やいろいろと主張する中国人も、歴史認識問題を口にする日本人も、みんなひっくるめて「反日」。

 自衛隊の海外派兵に反対するのは、お国のためにがんばる者を侮蔑する「サヨク」。死刑廃止を唱えるのは、殺された人の気持ちがわからない「人権派」。在日への暴力事件に抗議をすれば、「サヨク」で「反日」で「人権派」。「美しい日本」を批判する者は、「反日」「サヨク」となる。そして、「君が代」を伴奏しなかったり斉唱しない教師は、「サヨク」だとして職場を追われる……。これらはみな「悪」とされるのだ。

 ここ数年、こんなふうにレッテルを貼って断罪するやり方が増えている。

 夫に殴られた妻には「あんたの口のきき方が悪かったんじゃないの?」と言い、イラクで人質にされた人たちの家族には「自己責任」という言葉を投げつけ、ハンセン病回復者が差別に抗議すれば「権利ばかり主張して」とくる。そうやって人権をふみにじっている輩にかぎってアメリカの尻馬に乗り、「人権のため」と称して爆弾を落とし人を殺すことには疑問をもたない。

 こうして「悪」の根元としてもっとも悪しざまにののしられ、価値を剥奪されている存在とはなにか。結局のところ、それは「弱いということ」ではないだろうか。

 ジャーナリズムはもともと「弱きを助け、強きを挫く」を本分としている、と私は教わってきた。しかし、日本ではバブルがはじけたころあたりから、世界ではグローバル経済がその姿を現わしはじめたころから、「弱いこと」は「悪」とみなされ、非難の対象とされるようになっている。

 そこでは、世界規模で繰り広げられる大競争を勝ち抜くためという大義名分が、大手を振っている。その大義名分の下、民族も国家も個人も、つねに強さを求め続けなければならない。至るところに「弱肉強食」の強迫観念が蔓延しているのだ。

 そして、その考えからすれば、「弱いこと」は、避けるべきこと、すなわち「悪」なのだ。

 しかし、どんな社会であれ、弱い者は助けるべきという徳目が存在している。どんな宗教も道徳も、弱い者をいじめることを奨励したりはしない。直接、弱い者を攻撃することは、倫理上できないのだ。

 そこで、倒錯した論理が生まれてくる。「あれはほんとうの弱者ではない。弱者のフリをしている強者だ」という論理だ。

 勝ち組の、強者の論理の信奉者であればあるほど、「自分は勝ち組だから正しい」などとは言わない。「自分は、弱者のフリをしている強者を、社会正義の立場から批判している」という論理を振りかざす。あるいは、「民族や国家を弱体化させようという陰謀に荷担している人権派やりベラル派と闘うのだ」と言う。

 こうして、「弱いこと、弱者に味方することは悪いことだ」、という言い方が流布してゆく。

 そんな例はごまんとある。たとえば、社会的に追い詰められた女性が権利を主張したり、矛盾を告発したりすると、「そんなに大声が出せるのなら弱者のはずがない、弱者のフリをしているだけだ」と攻撃される。そして、そうした女性の声を代弁したり、援助したりする言論や行動は、弱者のフリをする怠け者やずる賢い連中に偏されている愚か者、「フェミナチ」だと揶揄される。

 現在では、こういう本音がもてはやされている。「日本の国益を第一に考えろ。さもないと、人件費が安くて、経済力も軍事力も拡大中の中国に負けてしまうぞ。日本を守れ、民族を守れ。そのためにはリストラに耐えろ、賃上げは要求するな、派遣社員に甘んじろ。格差是正などというやつは敵を利する悪人だ」と。しかし、非正規労働を推進したり、格差社会を肯定したりしている人をよくみれば、彼らこそ、その人件費の安い中国に工場を移すなどして、ぼろ儲けしている勝ち組だったりするのだ。

 こうして、強者は善人のフリをし、弱者は悪人とされてゆく。

 「小さな政府」とか、「構造改革」とか、「美しい日本」とか、強者はつぎつぎと新しい大義名分を振りかぎしている。しかしその本質は、力こそが善だということ。つまり、勝ち組だけがいい思いをしたい、ということなのだ。

 まるで勝ち組のためだけの千年王国建設運動が進行中であるかのように、私には見える。

 その一方で、メディアは、「がんばる弱者」や「生き残りをかけて闘う弱者」を賞賛する。しかし、「がんばる弱者」を誉めることは、「がんばれない弱者」を見捨てるための言い訳に過ぎないのではないだろうか。「生き残りをかけて闘う弱者」を励ますことは、「自然淘汰される弱者」の大量生産に拍車をかけるだけだろう。

 勝ち組メディアから莫大なギャラをとって跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するカリスマ司会者や有名コメンテーターたちは、一見、弱者の味方のように装う。彼らはたとえば、財政破綻した夕張に東京から支後者ぶってやってきて、救世主のように振る舞う。しかし、そんな人に限って、援助を求める市民たちの前で平然と、「責任はお前たちにある、自分の力でなんとかしろ、国家に救いを求めるな」と突き放す物言いをするのだ。

 「弱きを助け、強きを挫く」はずだったジャーナリズムは、いまや巨大情報ビジネスと化し、自ら優良勝ち組大企業として強者の代弁機関に成り下がっているのではないか。

 想像を働かせる力も、弱者の痛みに共感する力も欠落している、そんな時代がやってきた。

 息苦しく、窒息しそうな社会である。

 そんな世の中に抗って意志を貫き通そうとすれば、それは「悪人」がジタバタすることになる。
 そう、「悪あがき」になるのだ。

悪あがきとは
なんだろうか

 『広辞苑』をひいてみると、「あがく」とは、

 馬などが前足で地面を掻く。また、そのようにして進む。
 手足を動かしていらだつ。もがく。
 比喩的に、悪い状態から脱け出そうとして、どうにもならないのにいろいろやってみ  る。また、あくせくする。

 とある。「悪あがき」は、といえば、

 もうどうしようもないという境地にありながら、何とかしようといらだちあせって、
 むだなことをいろいろ試みること。

 だそうだ。
 つまり、周囲には理解できない願望や欲求を無理矢理かなえようとし、可能性がほとんどゼロであっても、願望を捨てきれずにしがみつく、ということだろう。

 しかしそれは、たとえ醜悪な姿をさらしたとしても、それでもかなえたい願望があるということでもある。それほど切実な希望や欲求を持っているということだ。

 金・コネ・権力を持っている者ならいとも簡単に実現できるのに、それを持たない者にとっては大それた願望となり、見果てぬ夢となる。そんなことがいかに多いか。

 たとえば、日本では、在留特別許可や国籍の付与は、法務大臣の裁量権の中にある。つまり、お上の胸三寸で許可を出すかどうか決められるといっていいのだ。

 ごくごく例外的な場合を除けば、一度許可しないという決定が出てしまったら、それを覆すのは不可能だろう。しかしその一方では、政治家の口利きのおかげで、わずか半年で日本国籍が取れた人もいた。弱者ほど、こうして金・コネ・権力の威力を見せ付けられるわけだ。

 金・コネ・権力を持たない者が、いまのこの国では夢でしかない「正義」や「平等」や「公正」を求めてなりふりかまわぬ行動をとれば、「世間を騒がせた」とか、「見苦しい」とか、それこそ「悪あがきだ」と言われて叩かれることになる。

 多くの場合、この「世間体が悪い」という心情が、人びとに「悪あがき」を躊躇させ、願望に挑戦する意志を挫いている。そしてその結果、「不正義」や「不平等」や「不公正」が温存されることになる。

 だから、「悪あがき」を蔑み、擲楡する「善人」たちが巷にあふれているような状況は、金・コネ・権力を持つ者にとって、きわめて都合のよい状況なのだ。

 人びとが「悪あがき」をやめ、おとなしく「身分相応」の願望や欲求だけで満足するなら、金・コネ・権力を持つ者たちは、いつまでも安泰で甘い汁を吸い続けられる。

 かつて親鸞は、「悪人」こそが極楽往生できると言った。

 『歎異抄』のなかの、「悪人正機」の思想である。
 親鸞の言う「悪人」とは、倫理的善悪における悪事を働く者という意味ではない。厳しい人生を生きている貧しい人びとや、悪あがきをせずには生きていけないカツコ悪い人たちを指していたのだ。

 親鸞が生きた中世では、農民は畑を耕すから虫を殺す、つまり殺生をする。だから極楽には行けない下等な人間、悪人であるとされた。貴族たちは、自分ではなんにもせず、汚くてカッコ悪い仕事はすべて下々の者にやらせる。だから虫を殺すなどということもなく、自分たちは善人だから極楽に行けるなどと言っていたのだ。

 これをひっくり返したのが親鸞だった。親鸞は、収奪する側の犯罪性を指摘しているのだ。

 「世間体が悪い」とか、「社会に波風立たせないため」とか、そうした表面的な「善」に配慮することによって、ほんとうの正義がそこなわれ、差別や不正が温存されるなら、それは、けっして本来の意味での「善」ではない。身内にだけいい顔をする「内向きの善」だ。

 本来の「善」とは、そのような内向的なものではなく、社会に、そして世界に向かって開かれたものでなければならないはずだ。

 そして、「開かれた善」「開かれた道理」の実現を一番渇望しているのは、差別され虐げられてきた弱者であり、親鸞が言うところの「悪人」なのだ。

 弱者はともすれば排撃的な言論の中で孤立し、また、手を携えるべき友を見誤りがちだ。

 孤立しがちな状況の中で、どうすれば、弱者は真の友人や味方を見つけることができるのだろうか。

 逆説的だが、弱者の友人や味方は、勝ち組メディアや言論人が叩く対象である「悪人」の中にいる。数百年前に親鸞が喝破したように、悪あがきする悪人たちの中にこそ、弱者の真の友人はその存在を輝かせているはずなのだ。

 手を携えるべき真の隣人探しの旅はこうしてはじまるのである。

 私は、悪あがきをする人が好きだ。

 世間からむちゃくちゃに叩かれても、それでもあきらめずに、あがいている人たちが大好きだ。

 たとえカッコ悪くても、やりかたがしつこくてスマートじゃなくても、「内向きの善」に執着する人たちからは醜態と見られようとも、自分は悪あがきをする「悪人」になる。

 そう心に決めるところから、「開かれた善」への一歩ははじまる。
(辛淑玉(シンスゴ)著「悪あがきのすすめ」岩波新書 p1-13)

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《潮流》

始まる前だというのに、「きょうの資料はすべてなくなりました」と、受付の男性。その声が、少し誇らしげです

▼五千人近い「全国青年大集会2008」。ある男性は、Tシャツの背に手書きで「TGJ」。一瞬、「?」。謎はすぐ解けました。下に「多喜ニグッドジョブ」と書いてあったから。小林多真二、いい仕事をしてくれたね≠ニいったところか

▼「蟹工船世代」とよばれるかもしれない青年たち。壇上で訴えた千葉県の女性は以前、常用の派遣でした。睡眠時間が三時間という激務で体を壊し、やむなく日雇い派遣に。三九度の発熱で仕事を休もうとしたときです

▼会社は「どうにかならないか」。困窮し追いつめられていた彼女も、医者にききます。「なんとか働けないものか……」。医者に叱られ、やっと目が覚めましだ。なんとおかしい毎日だったのか、と

▼「二十人に満たない組合で大きなキヤノンとたたかっていく」と、不当に解雇された期間工。「私は一人ではない。私たちに課せられていることがあるとすれば、つながること」。残業代の支払いなどを求めて会社を訴えた名ばかり店長≠ナす。ここに名前を記せませんが、みんなみんな、気高くみえました

▼徳島の日亜化学で偽装請負を告発し、雇用を打ち切られた人たちが、口々に語りました。「ふつうの平凡な生活をしたいだけ」「それがなぜ悪い」。青年たちのその思いが人とのつながりを広げ、社会を変え、『蟹工船』の労働者を乗り越えていくでしょう。
(「赤旗」20081005)

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なぜ銀行の資本を厚く
個人・企業への
貸し出し余力確保

 金融危機を封じる切り札は、米が公的資金を使って大手銀行の資本を増やすことだという声が広がっている。なぜ銀行の資本を厚くしないといけないのか。

 米国では住宅価格の下落で銀行が貸した住宅ローンが返ってこなくなったり、住宅ローンを証券化して投資家にさばく金融商品を買ったものの、価値が下がったりして、銀行は多額の損失を出している。大幅な赤字になれば資本を食いつぶすことになる。資本とは、安定した経営を担ううえで必要な資金で、しかも返済が不要で自らが自由に使える「元手」のことだ。

 資本が減ると、市場から経営の体力が弱いと見透かされて、その銀行株は売られてしまう。企業も同じだが、銀行はもっと大きな影響が生じる。収益の柱である貸し出しを十分できなくなってしまうためだ。

 貸し出しは銀行にとっての資産。健全な経営を続けるには、資産に対して資本の比率がある程度高くないとダメという国際的なルールがある。資本が減ると貸し出す余力に乏しくなり、銀行は貸し出しを抑えようとする。これが貸し渋りだ。貸し渋りになれば個人や企業がローンを借りたくても借りられず、経済活動が鈍る。米国の経済活動が鈍れば、米国で日本など他の国の製品も売れなくなり、世界の景気も悪くなる。

 もし世界中で業務を手掛ける米国の大手銀行が資本不足で経営破綻したら、その銀行に融資している他国の銀行にも連鎖破綻の懸念が出てくる。銀行間で資金を融通し合う市場では疑心暗鬼が広がり、取引が止まり、必要な資金が取れない銀行は破綻する。株価が暴落すれば、企業年金など日本人の財産も大きく目減りする。
(「日経」20081010)

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米金融支援法案
反対した議員

ウォール街のつけ回すな
民間資金で回復法案要求

 【ワシントン=鎌塚由美】ブッシュ政権が早急な成立を促したにもかかわらず、金融支援法案は下院で九月二十九日に否決されました。反対した議員たちは同日、それぞれ反対理由を述べました。

 同法案の否決には、共和党議員の反対票が大きく寄与しました。有権者からの「怒りの声」を理由にあげたのは、ランディ・クール議員(ニューヨーク)。同議員の選挙区(同州北東部)から「千二百以上」の反対表明の電話やメールがあったとして、「一生懸命働く米国民の食費やガソリン代を、向こう見ずなウォール街に明け渡せと要求する法案」に反対したと表明しました。

 デビッド・ライヘルト議員(ワシントン州)は、「あわてた行動より、正しい法案がより重要」だとし、「民間資金で回復する包括的法案」を要求。米議会はすでに、住宅供給公社や大手保険会社に約三千億jもの公的資金を投入していると述べ、「今回の七千億jのギャンブルが、納税者の負担による別のギャンブルでないとの保障があるのか」と批判しました。

 政府による公的資金投入策は「市場による解決」を妨げると主張したトム・フィーニ議員(フロリダ)は、「ウォール街の経営責任者による投機のつけを支払うのは米国民ではない」と述べました。

 民主党の進歩派議員からは、ブッシュ政権の規制緩和路線を批判し、投機家の規制を求める声が出ました。バーバラ・リー議員(力リフォルニア)は、金融危機をもたらしたのはブッシュ政権の「向こう見ずな規制緩和路線」だと指摘。住宅口ーン破たんをもたらした貸し手のために一票を投じることはできないと表明しました。

 クシニチ議員(オハイオ)は、法案は「事実ではなく、不安をあおることで推進されている」とし、ばく大な金額がつぎ込まれる法案が、ほとんど審議もされないまま推し進められたと批判。米議会の役割は「問題を引き起こした投機家をストップさせる」新法案の作成だと語りました。

血税投入に怒り61%
世論調査

 【ワシントン=小林俊哉】国際的に波及した米金融危機をめぐり、米上院は九月三十日、下院で否決された金融機関救済法案を一日夜(日本時間二日午前)に採決することで合意しました。

 ただ、銀行救済に巨額資金を投入することへの米国民の厳しい視線は変わりません。同日発表された世論調査会社ピュー・リサーチ・センターの調査では、法案を支持すると答えた人は、この五日間で12ポイント減少して45%でした。血税投入に怒りを感じると答えた人は61%に上っています。

 これに対しブッシュ政権は、今回の措置が金融システムを守るものだと強調。三十日に記者会見したマコーマック財務次官も「(銀行)救済策ではないとはっきりいいたい」と繰り返し理解を求めました。しかし、七千億jもの税金を投入する根拠を聞かれると、「一連のいろいろの分析に基づくもの」と述べるだけでした。

 この事態に米メディアからは、金融危機に加え、「政治の信用の危機」(『タイム』誌電子版)、「リーダーシップの瓦解」(ニューヨーク・タイムズ紙)、「従う者なき指導者たち」(『ウィークリー・スタンダード』誌電子版)と米国政治の行き詰まりへの指摘がいっせいにあがっています。
(「赤旗」20081002)

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◎「青年たちのその思いが人とのつながりを広げ、社会を変え、『蟹工船』の労働者を乗り越えていく」と。