学習通信081015
◎活動を限定していたらどうなる……

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 皆が「糞壺」に降りて来た。
「元気ねえな」芝浦だった。
「こら、足ば見てけれや。ガク、ガクッて、段ば降りれなくなったで」
「気の毒だ。それでもまだ一生懸命働いてやろうッてんだから」
「誰が! ――仕方ねんだべよ」
 芝浦が笑った。「殺される時も、仕方がねえか」
「…………」
「まあ、このまま行けば、お前ここ四、五日だな」

 相手は拍手に、イヤな顔をして、黄色ッぽくムクンだ片方の頬(ほお)と眼蓋(まぶた)をゆがめた。そして、だまって自分の棚(たな)のところへ行くと、端へ膝(ひざ)から下の足をブラ下げて、関節を掌刀(てがたな)でたたいた。

 ――下で、芝浦が手を振りながら、しゃべっていた。吃(ども)りが、身体をゆすりながら、相槌(あいづち)を打った。

「……いいか、まア仮りに金持が金を出して作ったから、船があるとしてもいいさ。水夫と火夫がいなかったら動くか。蟹が海の底に何億っているさ。仮りにだ、色々な仕度(したく)をして、此処まで出掛けてくるのに、金持が金をだせたからとしてもいいさ。俺達が働かなかったら、一匹の蟹だって、金持の懐(ふところ)に入って行くか。いいか、俺達がこの一夏ここで働いて、それで一体どの位金が入ってくる。ところが、金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。
――さあ、んだら、その金の出所だ。無から有は生ぜじだ。
――分るか。なア、皆んな俺達の力さ。
――んだから、そう今にもお陀仏するような不景気な面(つら)してるなって云うんだ。うんと威張るんだ。底の底のことになれば、うそでない、あっちの方が俺達をおッかながってるんだ。ビクビクすんな。

 水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。――労働者が働かねば、ビタ一文だって、金持の懐にゃ入らないんだ。さっき云った船を買ったり、道具を用意したり、仕度をする金も、やっぱり他の労働者が血をしぼって、儲けさせてやった――俺達からしぼり取って行きやがった金なんだ。――金持と俺達とは親と子なんだ……」
 監督が入ってきた。
 皆ドマついた恰好(かっこう)で、ゴソゴソし出した。
(小林多喜二「蟹工船」新潮文庫 p118-120)

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より高い次元への要求とたたかいへ

 職場を基礎にした活動と要求実現ということを、職場での賃金、労働条件、労働環境など、労働者の直接の要求だけに限定してはなりません。はじめは、自然発生的なナマの要求から出発しても、その実現のたたがいをつうじて、産業別の統一要求と統一闘争の必要性などを知り、より高い次元の要求と、それを実現するためのたたかいを組織するようになるのです。

 こんにちのわが国は、資本主義が高度に発達し、国家と独占資本のそれぞれの巨大な力が一つにむすびついた国家独占資本主義体制の社会です。この国家独占資本主義の支配体制のもとでは、自民党政府と独占資本によって、大企業奉仕、軍備拡張、戦争とファシズムの政策がおこなわれ、年金、医療などの福祉や教育が切り捨てられようとしています。憲法改悪や警察拘禁二法など、くらしと平和、民主主義を根本からおびやかす動きがすすんでいます。

これにたいして、職場で直接におこる問題だけに労働組合の活動を限定していたらどうなるでしょうか。

わたしたちの生活を守っていけないのはもちろんのこと、わたしたちが団結している民主的権利そのものが根こそぎ奪われ、要求を提出すること自体が認められないような社会になりかねないのです。また、国家独占資本主義のもとでは、独占資本が意識的に労働貴族、労働官僚の育成をはかり、労働者・労働組合にたいして分裂、分断の攻撃がくわえられます。一九八二年一二月に結成させた「全民労協」にみられ労働戦線の右翼的再編は、大規模な分裂策動にほかなりません。

 これと対決した統一と団結への意識的な努力や学習活動なしには、労働組合を守り、発展させることもできないのです。労働組合の要求実現のためのたたかいは、職場を基礎に、全国的課題とむすびつき、地域・産業別の共同闘争を発展させなければ解決できないのです。

職場を基礎とした労働組合の活動は、一人ひとりの組合員の直接的な、切実な要求から出発しながら、その実現のたたかいをつうじて、高い次元の要求とたたかいに発展していきます。そのためには、労働者をきびしい状態におとしいれている根本原因についての討論、要求実現をはばんでいる現状をかえていくための政策提起、資本主義社会のしくみや運動法則などについての学習教育活動が必要です。

 この組織にあたるのは、幹部・活動家です。幹部・活動家はつねに要求を高め、高めた要求の実現のために組合員の軸となって活動しなければなりません。
(全日本運輸一般労働組合編「労働組合員教科書 実務編」学習の友社 p44-45)

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──ところが、労働者に真の、全面的な、生きた政治的知識を供給するためには、いたるところに、あらゆる社会層のなかに、わが国の国家機構の内面的ばねを知る便宜のあるあらゆる部署に、「仲間」が、社会民主主義者がいることが必要である。そして、このような人々は、宣伝と扇動の部面だけでなく、それ以上にまた組織の部面でも必要なのである。

 住民のすべての階級のなかで活動するための基盤はあるだろうか? この基盤が見えない人も、やはりその意識性が大衆の自然発生的高揚に立ちおくれている人である。

労働運動は、ある人々の心には不満を、別の人々の心には反政府運動への支持の期待を、さらに別の人々の心には、専制はとうてい耐えられないもので、その崩壊は避けられないという意識を呼びおこしたし、またひきつづき呼びおこしている。

もしわれわれが、ありとあらゆる不満の現われを利用し、たとえ萌芽的なものでも抗議のあらゆる種子を寄せ集めてそだてあげることが、自分の任務であることを自覚しないなら、われわれは口さきだけの「政治家」、社会民主主義者にすぎないだろう(じじつ、そういう場合をきわめて頻繁に見かけるが)。

このほか、いくらかでも巧みな社会民主主義者が伝道するなら、勤労農民、家内工業者、小手工業者などの幾千万にのぼる全大衆が、つねにむさぼるように傾聴するであろうことは、いまさら言わないことにしよう。

だが、無権利や専横に不満をいだいており、したがってまた最も焦眉の一般民主主義的な必要の表明者である社会民主主義者の伝道を容易に受けいれることのできる人々やグループやサークルが存在しないような住民階級を、ただひとつでもあげることができるだろうか? そして、住民のすべての階級や層のなかで社会民主主義者がおこなうこの政治的扇動がどんなものか、具体的に把握したいと思う人々には、われわれは、広い意味での政治的暴露こそそのような扇動の主要な手段(だが、もちろん、唯一の手段ではない)であることを指摘しよう。

 私は、論文『なにから始めるべきか?』──この論文については、のちにくわしく語るおりがあるだろう──のなかで次のように書いた。

 「われわれは、いくらかでも自覚したあらゆる人民層のなかに、政治的暴露の熱情を呼びさまさなけれぱならない。政治的暴露の声が現在このように弱々しく、まれであり、おずおずしているからといって、心をなやませるにはおよばない。そうなっている原因は、だれもかれもが警察の専横にあまんじているからではけっしてない。

 それは、暴露をおこなう能力と覚悟をもっている人々に、ものを言うことのできる演壇がなく、弁士のことばに熱情をもって耳を傾け激励をおくる聴衆がいないからであり、また彼らが、『全能の』ロシア政府にたいする苦情を訴えかける骨おりに値する勢力を、人民のなかのどこにも見ていないからである。……いまではわれわれは、ツアーリ政府の全人民的暴露をおこなうための演壇をつくりだすことができるし、またつくりだす義務がある。
 ──社会民主主義的新聞こそ、そのような演壇でなければならない。」

 政治的暴露のためのこのような理想的な聴衆は、ほかならぬ労働者階級である。

労働者階級は、全面的な、生きた政治的知識を、なによりもさきに、またなによりも第一に必要としており、──この知識を積極的な闘争──たとえその闘争が「目に見える成果」をなにひとつ約東しなくとも──に転化する能力を最も多くもっている。

また全人民的暴露のための演壇になれるのは、全国的な新聞だけである。

「現代のヨーロッパでは、政治的機関紙なしには、政治運動の名に値する運動は考えられない。」そして、どの点では、ロシアもまた疑いもなく現代ヨーロッパにふくまれている。出版物は、わが国ではすでにずっとまえから一勢力になっている。

──もしそうでなかったなら、政府は、何百万ルーブリもつかって出版物を買収したり、あらゆるカトコーフ、メシチェルスキーふうの人間に補助金をやったりはしなかったであろう。

また、非合法出版物が検閲の封鎖を突きやぶって、合法的な機関紙や保守的な機関紙がこの非合法出版物のことを公然と語らないわけにはいかないようになったのは、専制ロシアでも新しいことではない。七〇年代にもそういうふうだったし、五〇年代にさえそうであった。

しかし、非合法出版物を読み、『イスクラ』に手紙を寄せた一労働者のことばを借りて言えば、「いかに生き、そして死ぬべきか」をそれから学ぼうとする人民の層は、いまでは幾層倍広く、また深くなっていることか。

経済的暴露が工場主にたいする宣戦布告であるのとちょうど同じく、政治的暴露は政府にたいする宣戦布告である。

そして、この暴露カンパニアが広く、強力になればなるほど、また開戦するために宣戦を布告する社会階級が数多く、また断固としていればいるほど、この宣戦布告はますます大きな精神的意義をもつようになる。

だから、政治的暴露は、すでにそれ自体で、われわれに敵対的な制度を解体させる最も強力な手段、敵からその偶然の、もしくは一時的な同盟者を引き離す手段、専制権力の常時の参加者たちのあいだに敵意と不信をひろめる手段の一つなのである。

 現代では、真に全人民的な暴露を組織する党だけが、革命勢力の前衛となることができよう。

ところで、この「全人民的」ということばは非常に大きな内容をもっている。非労働者階級出身の暴露者たちの大多数は(そして、前衛となるためには、まさに他の諸階級を引きいれなければならない)、まじめな政治家であり、冷静な実務家である。

彼らは、「全能」のロシア政府はおろか、最下級の役人についてさえ「苦情を言う」ことがどんなに危険なことであるかを、よく知っている。

そして、彼らがその苦情をわれわれに訴えてくるのは、こういう苦情が実際にききめがあること、われわれが政治勢力であることを、彼らが見てとるときにかぎられるであろう。

われわれが第三者の目にそういう勢力として映るためには、われわれの意識性と創意性と精力を高めるために、大いに、またねばりづよく努力する必要がある。そのためには、後衛の理論と実践に「前衛」というレッテルを貼りつけるだけでは、不十分である。

 しかし、もしわれわれが政府の真に全人民的な暴露を組織する仕事を引きうけなければならないとすれば、その場合にはわが運動の階級性はどこに現われるのか?──「プロレタリア闘争との緊密な有機的結びつき」の法外に熱心な礼賛者は、こう言ってわれわれに質問するだろうし、また現に質問している。

──これらの全人民的暴露を組織する者がわれわれ社会民主主義者である点に、

──扇動によって提起されるいっさいの問題が、故意と故意でないとを間わず、マルクス主義のいささかの歪曲をも大目に見ない、一貫した社会民主主義的精神に立って解明される点に、

──この全面的な政治的扇動をおこなう者が、全人民の名による政府にたいする攻撃をも、プロレタリアートの政治的独自性を守りながらおこなわれるプロレタリアートの革命的教育をも、労働者階級の経済闘争の指導をも、つぎつぎにプロレタリアートの新しい層を立ちあがらせてわれわれの陣営に引きいれるような、労働者階級とその搾取者との自然発生的な衝突の利用をも、不可分の一体に結びつける党である点に、わが運動の階級性が現われるのである!
(レーニン「何をなすべきか」レーニン一〇巻選集 大月書店 p88-91)

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◎「もしわれわれが、ありとあらゆる不満の現われを利用し、たとえ萌芽的なものでも抗議のあらゆる種子を寄せ集めてそだてあげることが、自分の任務であることを自覚しないなら、われわれは口さきだけの「政治家」、社会民主主義者にすぎないだろう」と。