学習通信081017
◎社会発展の法則……

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現代のことば
佐伯 敬思

マルクスの亡霊

 もう四十年近くも前のことだが、私が大学にはいったころは、マルクスは学生の必読書であった。大学にはいった途端に「無期限スト」で授業がなくなり、私も狭い下宿で、分厚い『資本論』を読んだ。その後、学生運動も退潮となり、やがてソ連社会主義が崩壊し、マルクスもほとんど忘れられた思想家になっていた。

 ところが、この一、二年、マルクスの亡霊が徘徊している。いうまでもなく、経済の変調が著しいからである。フリーターや派遣労働、所得格差の間題、さらには、世界的な金融市場の不安定性。これらは、確かに、「資本主義の危機」という様相を示している。

 マルクスは、資本主義の矛盾は、無政府的な(今日でいえばグローバルな)過度な競争のあげくに利潤率が低下するところかり顕在化する、と考えた。今日、先進国で製造業に長期的に投資をしても十分な利潤がえられない。だから、即席の利益を求めて資本は世界中の金融市場をめぐり、投機の機会をねらう。いたるところでバブルをつくりだし、投機的利益をうみだす。しかし、いずれそれは破たんする。その繰り返しである。

 最近も、アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズが破たんし、大手保険会社AIGは政府が救済し、メリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収された。サブプライムローンという住宅バブルが生み出した虚偽の富の帰結がこれである。一九八七年の「ブラック・マンデー」、一九九八年のアジア経済危機と、ほぼ十年ごとに大規模な経済の失調が襲ってくるのである。

 マルクスは、労働こそがすべてのモノの価値を決定すると考えた。だから、多くの労働を投入した生産物は、少ない労働による生産物よりも大きな価値を持つことになる。しかし、明らかにこの考え方は、間違っている。モノの価値は市場で決まってくるからであり、労働量とは特別な関係はないからである。

 確かに、マルクスの理論は間違っていた。市場で交換されるすべてのモノの価格はただ市場だけで決まる。資本主義の市場競争とは、すべての価値の決定を市場にゆだねるものなのである。だがそうすると、住宅のバブルも、株式のバブルも、すべて市場で決まった価値であり、それはそれでよい、ということになる。人々が懸命に労働して生み出した価値も、市場のバブルで得た価値も変わりはない。となれば、誰も、汗水たらして働こうなどとは思わない。バブルの投機でひと儲けしたほうがよいだろう。こうして、労働することの意味はますます見失われてゆくのである。

 かつてのマルクス主義者は、それでも資本主義の次に社会主義体制を夢想することができた。今日、もはや社会主義は夢想もできず、マルクスに帰ることもできない。この資本主義をうまく使ってゆくしかない。しかし、そのためには、資本主義の勝利をおごり、市場の自由競争を過信してはならない。労働することの意味づけを新たに模索しなければならないのである。(京郭大教授・社会経済学)
(「京都」20080930)

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日本共産党知りたい 聞きたい

●「社会発展の法則」とは?

〈問い〉総選挙政策に「一段一段いまの問題を解決しながらすすむのが社会発展の法則」という言葉がありますが、「社会発展の法則」とはなんですか? そもそも多様な考え方をもつ人間でなりたつ社会に法則が成り立つのでしょうか?

〈答え〉「社会発展の法則」といっても、ニュートンの万有引力の法則のように、一つの方程式で表せるような「法則」が社会にあるわけではありません。しかし、どんな社会でも社会が変わってゆくのには、一定の法則、すすみ方があります。とくに、国民主権と普通選挙権にもとづく議会制民主主義が根づいた現在の社会では、主権者である国民多数の意思にもとづいて社会発展の道をすすんでゆくのは当然のルールです。その場合、国民のあいだには、多様な考え、価値観があるのですから、当然、実際に社会が直面している問題について、国民多数の合意が得られるやり方で一つずつ解決をはかってゆくことになります。

 私たちが、「一段一段いまの問題を解決しながらすすむのが社会発展の法則」と言っているのは、そのような考えにもとづいているからです。
 エンゲルスは『フォイエルバッハ論』(一八八八年)のなかで、社会・歴史の発展について、次のように述べています。

 社会は、多様な考えをもつ人間でなりたっているからこそ、社会を大もとから動かす「本来の最終的な推進力」となりうるのは、「個々の人びとの動機」ではなく、「人間の大きな集団」=「諸階級全体を動かす動機」である。しかも瞬間的には大きく燃えあがってもすぐに消えてしまう「藁火(わらび)」のようなものではなく、「大きな歴史的変動をもたらす持続的な行動にみちびくような動機」だ、と(古典選書シリーズ、新日本出版社、83ページ)。

 こんにちの日本では、大企業優先、アメリカいいなりという「二つの政治悪」と国民の暮らし、願いとの矛盾こそが、社会を動かす「最終的な推進力」となっています。だからこそ、私たちは、この「二つの政治悪」をただす民主的政権と民主的改革こそが、いま求められる社会発展の第一歩だと考えています。(学)
(「赤旗」20081008)

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 そこで、歴史上で行動する人間の動機の背後に──意識されているかまたは意識されないで、実際には意識されない場合がきわめて多いが──あり、しかも歴史の本来の最終的な推進カをなしている動カを探求することになると、個々の人びとの動機、たとえそれがどんなにすぐれた人間の行動にかんしていようとも個々の人びとの動機ではなくて、問題になるのは、人間の大きな集団、民族全体、さらにそれぞれの民族のうちでの諸階級全体をうごかす動機であり、しかもこれも、瞬間的にかがやいて燃えあがるかと思うとたちまち消えてしまう藁火(わらび)のようなものではなくて、大きな歴史的変動をもたらす持続的な行動にみちびくような動機である。

人びとを駆りたてる原因を探求すること、つまり歴史において、行動する大衆とその指導者──いわゆる偉人たち──の頭脳のなかに、意識された動機として、明瞭にか不明瞭に、直接的にかイデオロギー的形態をとって、しかも天上にまつりあげられた形態をとってすら、反映されているところの、駆りたてる原因を探求すること──これが、全体としての歴史でも、また個々の時代や個々の国の歴史でも、そこに支配している法則をあとづけることのできる唯一の道である。

ところで、人間をうごかすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。

しかし、それがこの頭脳のなかでどういう形をとるかは、それぞれの事情に依存している。

労働者たちは、なお一八四八年にもライン河畔でやったようには、もはや機械を簡単に破壊するようなことはしなくなったからといって、けっして、資本主義の機械工業と妥協したのではない。
(エンゲルス著「フォエルバッハ論」新日本出版社 p83-84)

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◎「歴史の本来の最終的な推進カをなしている動カを探求する」……。