学習通信081021
◎愛の法則……

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 こんにちは。米原です。
 私が、「愛の法則」を研究しはじめたのは、中学生の後半ぐらいでした。すごく興味を持っていたんですね。セックスのことと異性のことばかり考えていました。当時、あまりテレビがなかったものだから、それらについての情報がいちばん集まるのは本だったんです。本をたくさん読んでいたので親は喜んでいましたけれども、私はそのところばかり興味を持って、『千夜一夜物語』は十三巻全部読んだし、文芸大作と言われるものはほとんど全部、読みました。

 『三銃士』は皆さん、子ども用の『三銃士』しか読んだことがないでしょう? でも、あれは原典を読むとすごいですよ。ダルタニアンとミレディの濡れ場ばっかり、ベッドシーンばっかりですから。それから、『レ・ミゼラブル』って『ああ無情』って訳されてるけれども、この作品も子ども用のしか、皆さんは読んでないでしょう? 大人用の原典のほうを読んでないでしょう? 原典を読むと、コゼットのお母さんが売春婦をしていた話などもちゃんと出てきますからね。

世界的名作の主人公はけしからん!

 そういうわけで、私は子どもの頃から文学少女というか、そういう本ばかり読んで育ちました。そしてそれを読めば読むほどだんだん腹が立ってくるんですよ。不愉快になってくる。なんでそんなに不愉快になったかと言うと、小説が全盛時代というのは十九世紀ですから、私が読んだのは大体十九世紀の小説なんですね。森鴎外とか夏目漱石とか永井荷風とか、あるいはツルゲーネフとかレールモントフとかバルザックとかヴィクトル・ユゴーとか、そういった作家の小説を読んでいて、なんで腹が立ったかと言うと、主人公は男で、ほとんど男の目で見た世の中のことが描かれているからです。主人公は醜男だったり、どうしようもない男だったり、いろいろなタイプの男が登場するんだけれども、男たちの恋愛対象となる、ロマンチックな感情の対象となる女というのは、みんな若い美女って決まっているんです。若いブスも若くない人も対象にならない。すごく狭いのです。

 私は当時、まだ中学生ぐらいで、若くはあったけれども美女ではなかったから、鏡を見て、ああ、私の一生は恋に恵まれないのだとずっと思い込んで、あきらめなくてはいけないんだなと感じていました。実際、その頃は恋の体験なんて片思いしかしていませんからね。恋の体験というのは全部、小説の中でしか体験していませんから。なぜ若くて美人なんていう、本人の意志ではどうにもならないところで男は選ぶんだって、けしからんって、そういうふうに思っていたわけです。

 では、小説の中の女はどんなふうに男を選んでいるかというと、これは結構、男の仕事ぶりとか、誠実なところとか、あるいはセックスがうまいとか下手とか、結構本人の努力の余地を残してあげているわけです。まだ救いがあるでしょう。小説も、十九世紀は大体そうなんだけれど、二十世紀も後半になってくるとようやく、美しくない女、あるいは若くもない女が案外恋愛をしていたりと、いろいろな可能性が出てくるんですが、それでも小説の本流は依然として十九世紀ですからね。

もてるタイプは時代や地域で異なる

 なぜそうなったのか、なぜこういう理不尽なことがまかり通るのかと考えてみました。当時、まだ若いから浅知恵で私が考えたのは、女は生活もセックスも男次第という時代が長かったから、男の仕事ぶりとかで女は選んだけれども、男のほうは女によって人生を左右される割合が低かったから──ほんとうはそうではないのですが──ある意味で、純粋に好みで選べたのではないかと考えたのです。

 ところが、この好みというのがかなり曲者なのね。私はこういうタイプがいいわとか、僕はこのタイプが好みだな、なんて言っているでしょう。みんな個々別々バラバラだと思っているけれども、ある時代のある社会の一定の階層に属する人々の好みには、かなりはっきりとした傾向が見られるのです。その中にいるとわからないけれども、違う時代から見たり、あるいは外国から、ほかの民族から見たり、違う身分の人から見ると、明らかに好みにはある集団的な傾向があるのです。

 例えば、世界最古の小説と言われている『源氏物語』の主人公、光源氏。当時としては理想的な男性なわけです。姿形も美しいと言われている。でも実際、どんなタイプだったかと言うと、色白の下膨れなのね。これ、現代では絶対もてないタイプですよ。それから、浮世絵の美人画というのがありますが、浮世絵の美人って目が糸みたいにすごく細いですよね。これももう流行らない。あの絵を見て発情する男って、今はあんまりいないと思います。

 作家の司馬遼太郎をご存じだと思いますが、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などの歴史小説や、『街道をゆく』シリーズというおもしろいエッセイを書いています。オランダ紀行とかモンゴル紀行や、日本のさまざまな地方の紀行文であると同時に、彼は博学博識なので、その中でいろいろな考えを展開していく、大変おもしろいシリーズです。私はこのシリーズが大好きでほとんど全部読みましたけど、このシリーズやほかのエッセイでも、司馬さんは、民族ごとに異性の好みが違うということにふれています。

 その中の一つを紹介すると、モンゴルのような遊牧狩猟民族ではどんなタイプの男がもてるかというと、浅黒くて精悍ですごく男臭い感じの男がもてるんですよ。同じモンゴロイドでも、ヴェトナムは水田稲作だから定住型です。そこではどういうタイプがもてるかというと、おしろいを塗ったような色白のやさ男タイプが理想的な男性と思われているんですね。三波春夫って覚えていますか? 日本も稲作民族ですから、皆さんのひいおばあさんぐらいの年齢だと、三波春夫みたいな色白のやさ男がいちばんもてるタイプだったんですよ。

 これだけ見ると好みはまったく違いますね。ところが、もう少し分析してみると、おそらく豊かな牧草を求めて部族ごとに移動しなくてはならない遊牧社会においては、俊敏で剛健な肉体を持っていて、決断力に富む精神を持つ男、こういう男に権力が集中していくんです。権力が集中するということは富も集中します。定住型の稲作民族では、ほかの農民を搾取することによって働かなくてもよくなった男、これが富と権力の象徴なんですよ。表面的にはまったく違うように見えながら、実は女って結構計算高いんですね。意識のうえではもうほんとうに惚れたはれたで恋しているだけ。でも、潜在意識の奥の深いところで、もしかしたら計算しているのかもしれないですね。

 光源氏の時代の色白の下膨れの男って、もう働かなくていい男の姿形ですよね。富の象徴ですね。だから、こういう男がもてたんです。

 私の書いた本に『ヒトのオスは飼わないの?』というのがあるんですけれども、私、実は今、犬三匹と猫五匹と同居しています。いつも猫に囲まれているので、人間のオスより猫のメスとオスを観察していることが多いのですが、このメス猫というのが非常に好みがうるさいんです。計算しているかどうかは別にして、非常にシビアですね。いろいろなオスが近寄ってきても、嫌いなタイプだと嫌悪感丸出しで、ぎゃあぎゃあ言って追い返してしまう。これは大変残酷なもので、私はもうオスがかわいそうで見ていられないほどです。ところが、好みのオスがやってくると、自分のほうからいちゃいちゃすり寄っていくんですね。大体このオス猫は、人間から見てもいい男なんですよ。

異性を本能的に三分類

 今、猫の話をしましたけれども、人間の女も、きわめて素直な天真爛漫な人は、この猫と同じような行動をとりますね。嫌な男には嫌悪感丸出しで、好みの男にはすり寄っていくというタイプ。普通の人は、やはり人間社会に生きている以上、それをあまり率直には出しません。ほんとうは心の中ではあれこれ思っていても、無難にだれとでも適当に対応します。適当にあいさつして、適当な人間関係をつくるんですけれども、率直に自分の心のほんとうの声を聞いてみると、私はあらゆる男を三種類に分けています。皆さんもたぶん、絶対そうだと思います。

 第一のAのカテゴリー。ぜひ寝てみたい男。第二のBは、まあ、寝てもいいかなってタイプ。そして第三のC、絶対寝たくない男。金をもらっても嫌だ。絶対嫌だ(笑)。皆さん、笑ったけど、ほんとうはそうでしょう。大体みんな、お見合いのときって、それを考えるみたいですね。

 男の人もたぶん、そうしていると思いますけれども、女の場合、厳しいんですね。Cがほとんど、私の場合も九〇%強。圧倒的多数の男とは寝たくないと思っています。おそらく、売春婦をしていたら破産します。大赤字ですね。
(米原万里著「米原万里の「愛の法則」」集英社新書 p16-23)

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 ところで、これが自然淘汰の働きであり、生物がいかにしてうまくできているのかを説明する理論です。しかし、どうでしょう? このプロセスが働いたとしても、たとえば、同じニホンジカという種に属している個体のうち、雄にだけ角があって、雌には角がないということを説明できるでしょうか? ニホンジカは、雄も雌も、同じ土地にすみ、同じ環境からの圧力にさらされて、同じ長さの進化的時間にわたって存在してきました。それなら、どうして、雄だけが角を持っていて雌にはないのでしょう? 雌が角を持っていなくてもうまく生きて繁殖できてきたということは、角なんていらないということでしょうか? では、どうして雄は、そんないらないものを持っているのでしょう?

 たしかに、自然淘汰の理論では、雄と雌の違いをうまく説明することが難しいようです。そのことは、まさに、自然淘汰の理論の提案者であるダーウィン自身が気づいていたことでした。一八五九年に、自然淘汰のプロセスについて詳細に記した『種の起源』を出版したときから、ダーウィンは、このことについて述べています。どうしたら、雄と雌の違いを説明できるのか、彼はずいぶん長い間にわたって悩んだようでした。一八六一年に、アメリカの生物学者のエイサ・グレイにあてた手紙の中で、「クジャクの雄の羽を見るたびに気分が悪くなります」と告白しています。

 しかし、ダーウィンが雄と雌の違いを説明しなければならない不思議な事柄だと認識したことは、たいへん重要なことでした。なぜなら、それ以前の科学者たちはみな、雄と雌とが違うのは当たり前であって、さして説明する必要のあることだとすら思わなかったからです。

グーウィンの性淘汰の考え

 グーウィンは、これは、どうやって環境に適応して生存していくかの話ではなく、どうやって配偶する相手を見つけるかということに関係しているのではないかと考えました。つまり、生き残っていくうえでのさまざまな事柄は、雄と雌とでたいして変わらないとしても、どうやって配偶相手を見つけるかという問題は、雄と雌とで、かなり異なるのではないかと考えたのです。そして、さまざまな動物をたくさん観察した結果、雄と雌の違いが生じるには、次の二つの過程が働いていると指摘しました。

 一つは、配偶者の獲得をめぐる競争が、雄どうしの間では非常に激しいけれども、雌どうしの間ではそれほど激しくない、ということです。たとえば、先のニホンジカですが、秋の交尾期になると、雄どうしが互いに角を突きあわせて闘っている姿が頻繁に見られます。こうして闘いに勝った雄は、雌に近づくことができて交尾しますが、負けてしまうと繁殖はできません。しかも、闘いに勝つと、一匹ではなくて複数の雌に接近することができます。そうすると、闘いは非常に激しくなります。なにしろ、勝てば何匹もの雌と交尾することができて多くの子を残すことができるでしょうが、負ければその可能性がまったくなくなるからです。

 一方で、雌どうしは、同じようにして、雄を獲得するために雌どうしで闘うことはありません。実際にそういう光景は見られませんし、雄が闘いに使っている角を、雌は持っていません。

 このことは、昆虫、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類と、あらゆる動物で見られます。さまざまな動物を通して、多くの種の雄たちは、角や牙で互いに闘い、勝った個体が雌を手に入れます。そこで、ダーウィンは、配偶相手の獲得をめぐる競争は、一般に雌よりも雄どうしの方が激しいのだと結論しました。そして、その競争が、角で突きあったり牙で噛みあったりという闘争である場合には、より大きな角やより鋭い牙を備えた雄の方が、そうでない雄よりも有利になり、あとは自然淘汰と同じような過程が働いて、雄の角や牙が大きくなったのだと考えました。そんな闘いがないのですから、雌は角や牙を持たなくても十分でしょう。そういうわけで、性差が生じることになります。

 しかし、たとえば、クジャクの美しい飾り羽はどうでしょう? クジャクの雄たちは、あの美しい羽で互いに闘っているでしょうか? そんなことはありません。クジャクの雄たちがなわばりをめぐって闘うときには、あの羽は大事にたたんで傷がつかないようにしています。あの美しい羽は、雌が自分のなわばりにやってきたときに、雌に向かって精いっぱい見せびらかすための舞台衣裳なのです。

 多くの鳥の雄たちは、美しい飾り羽や、ニワトリのとさかのような鮮やかな色をした肉垂れを持っており、また、美しい声でさえずります。これらの特徴の多くを、雌は持っていません。そして、このような美しいものは、みな、雌に対して見せびらかすものであって、雄どうしの闘いで使われる武器ではないのです。雄が雌に対してこうやって見せびらかすのならば、雌は何をしているのでしょう? それを見比べ、聞き比べて、どの雄が一番気に入るかを決めているのかもしれません。

 そこで、ダーウィンは、性差が生じる第二のブロセスとして、雌による選り好みということを指摘しました。つまり、雌の獲得をめぐって雄どうしが競争し、雌どうしにはそんな競争がないのならば、雌は、なみいる雄たちの中から、どの雄がよいかを選ぶことができるでしょう。たしかに、美しい羽を生やした雄たちは、雌がやってくるとその飾りを存分に見せびらかす求愛誇示をおこないます。雌はそれをじっと見ていますから、そこで、雌が、より美しい羽の雄、より鮮やかな色の雄を選んでいるのなら、雄の形質はますます美しく、誇張されたものになっていくでしょう。飾り羽やからだの色彩など、雄どうしの闘いに使う武器ではない形質は、ダーウィンは、このようにして雌の選り好みによって進化したのだと説明しました。

現代の性淘汰の理論

 ダーウィンの性淘汰の理論は、発表当時はあまり受け入れられませんでした。とくに雌による選り好みの考えは人気がなく、以後二〇〇年にわたって無視されてきました。その理由の一部は、ダーウィン自身が、動物の雌たちが本当に雄を見比べて選んでいるという証拠を示せなかったことにもありますが、おもな理由は、当時の学者たちの、雌に対する偏見にありました。彼らは、人間の女性が選り好みをするなどということさえ信じられなかった(信じたくなかった?)ので、ましてや、動物の雌たちがそんなことをするなどとは、まったく想像もつかなかったのです。

 しかしながら、ダーウィンの性淘汰の理論は、大筋において正しいことがわかりました。雄どうしが闘争する種においては、角や牙、大きなからだなどは、まさに闘争に勝つために重要な役割を果たしています。そして、ダーウィン自身は示すことのできなかった雌の選り好みは、一九八〇年代以降、多くの研究者たちによって立証されました。たしかに、雌たちは雄の飾りや色彩に注意をはらい、それをもとに配偶相手を選んでいます。

 さて、グーウィンが説明しなかったのは、そもそもなぜ、多くの動物においては、配偶者を獲得する競争が雄において激しいのかということです。事実はそのとおりなのですが、それはなぜなのでしょう? そして、一部の動物には、これが逆転していて、雄の獲得をめぐって雌どうしが競争するものもあります。ダーウィンもそのことには気づいていましたが、なぜそんな動物がいるのかということ自体は説明できませんでした。そこまで説明するのが、現代の性淘汰の理論です。

 一回の繁殖が終わってから次の繁殖にとりかかれるまでの最短時間を、「潜在的繁殖速度」と呼びます。これが短いほど個体は速い回転率で繁殖し、これが長いほど繁殖回数は減ります。もしも、同じ種に属していながら、雄と雌とで潜在的繁殖速度が異なっていたならばどうなるでしょう? もしも雄と雌の頭数が同じであれば、どちらか、潜在的繁殖速度の速い方の性の個体が余ってしまうことになります。そうすれば、余っている方の個体どうしは、足りない方の性の個体の獲得をめぐって競争することになるでしょう。

 潜在的繁殖速度は、どんな要素で決まるのでしょうか?それは、「配偶子を生産するのに要する時間」と「配偶に要する時間」と「子育てに要する時間」の合計です。配偶子生産に関して、雄と雌とは同じではありません。定義上、雌の方が卵という大きな配偶子を作るのですから、卵を作る方が精子を作るより、時間もエネルギーもかかります。そこで、「配偶子を生産するのに要する時間」は、雌の方が長くなります。

 次の、「配偶に要する時間」は、雄でも雌でも同じなので、この項は無視してもよいでしょう。

 その次の「子育てに要する時間」ですが、雄も雌も子育てをしない種類では、ここはゼロになります。もしも、雌のみが子育てをして雄が何もしないならば、この項は、雄の方が速くなるでしょう。遂に、雄のみが子育てをして雌が何もしないならば、雌の方が速くなります。両親がそろって子育てをするならば、両性ともに同じになります。

 さて、それでは、これらそれぞれの場合において、全体としての潜在的繁殖速度は、どちらの性で遠くなるでしょうか? 表1-1はそれをまとめたものです。ごらんのとおり、たいていの場合、潜在的繁殖速度は雄の方が遠くなります。したがって、雄余り状態が生じることになりますから、雄間の競争が激しくなるということになるでしょう。

 問題は、雄のみが子育てをする場合で、雄が子育てに要する時間と、雌が次の卵を準備するのに要する時間とのどちらが長くなるかで、雄余りになるか雌余りになるかが決まります。たとえば、ヒレアシシギなどの鳥では、雄のみが子育てをします。雄が卵とヒナの世話を終わるまでに三三日かかりますが、雌は、およそ一〇日で次の卵の準備ができてしまいます。そうすると、雌の繁殖速度の方が速いので、雌は、自分の卵を引き受けて育ててくれる雄の獲得をめぐって雌どうしで競争することになります。

 一方、雄のみが子の世話をするアマガエルの一種では、雄の子育てはおよそ四日で終わってしまいますが、雌に次の卵の準備ができるまでには二三日ぐらいかかります。そこで、雄余り状態となり、競争は雄どうしで闘われます。

 こうして見ていくと、ダーウィンが観察したように、配偶者の獲得をめぐる競争は、雄間での方が雌間でよりも激しい場合の方が多いことが説明できます。そして、なぜ逆転している種類があるのかもわかります。しかし、究極要因ということなら、雄が子育てをするのか、雌が子育てをするのかということ自体は、何によって決まるのでしょうか? これはまた難しい問題です。簡単な答えはありません。それについては、第5章を参照してください。

 さて、配偶者の獲得をめぐる競争が、雌よりも雄の方が強いのならば、雄どうしが闘うことはよくわかります。勝った雄は、雌に近づくことができますが、負けた雄は、雌ぺの接近を阻まれてしまうからです。

 しかし、理解するのがもう少し難しいのは、雌による選り好みです。ダーウィンは、クジャクの美しい羽やナイチンゲールの美しいさえずりなどは、雌が、より美しい羽を持った雄、より美しいさえずりをする雄を選ぶことによって進化したのだと考えました。でも、より美しい羽を持った雄というのは、なぜ配偶相手として望ましいのでしょう? 雌は、なぜ飾り羽やら美しいさえずりやらを目安にして配偶者選びをするのでしょうか? これも難しい間題ですが、このことは、鳥のさえずりについて検討する第2章を参照してください。

性はそもそもなぜあるのか?

 それにしても、性などというものがなぜあるのでしょうか? これは、無性の生物もいるのに、なぜ有性が進化したのかという疑問です。有性であることには、どんな機能があるのか、どんな究極要因が有性性をもたらしたのか? 今度はそちらの疑問を検討してみましょう。
(長谷川眞理子著「生き物をめぐる4つの「なぜ」」集英社新書 p34-39)

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◎「もう少し分析してみると、おそらく豊かな牧草を求めて部族ごとに移動しなくてはならない遊牧社会においては、俊敏で剛健な肉体を持っていて、決断力に富む精神を持つ男、こういう男に権力が集中していく」と。