学習通信081028
◎集まれば一つの力になるということに気づく……

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 ――何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼んで「模範青年」を連れてくる。労働組合などに関心のない、云いなりになる労働者を選ぶ。「抜け目なく」万事好都合に!

 然し、蟹工船の「仕事」は、今では丁度逆に、それ等の労働者を団結――組織させようとしていた。いくら「抜け目のない」資本家でも、この不思議な行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、未組織の労働者、手のつけられない「飲んだくれ」労働者をワザワザ集めて、団結することを教えてくれているようなものだった。
(小林多喜二「蟹工船」新潮社 p113)

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──もう一人の、完全なブルジョアで反穀物法同盟のお気にいりの男、アンドリュー・ユーア博士は、別の側面をもらしている。彼は、大都市における生活は労働者のあいだの陰謀を容易にし、大衆に力を与えている、とのべている。

こういうところで、労働者が教育をうけない(つまり、ブルジョアジーにたいする服従を教えこまれない)ならば、彼らは物事を一面的に、悪意のこもった利己心の視点から見て、抜け目のない煽動家にすぐ誘惑される──いや、彼らは、自分たちの最大の恩人であり、質素で企業心にとむ有能な資本家を、ねたみ深い敵意をこめた目で見ることもあるであろう。ここではよい教育だけが助けになるのだが、それがなければ、国民的破産や、そのほかの恐ろしい事態がつづくに違いない。

なぜなら、よい教育がなければ労働者の革命が不可避だからである。そしてわがブルジョアが恐ろしがっているのも、まったく当然なのだ。

人口の集中は有産階級に刺激を与え、発展させるという作用をするが、それは同様に労働者の発展をもさらにいっそう急速にすすめる。労働者は自分たち全体を階級として自覚しはじめ、一人ひとりでは弱いけれども、集まれば一つの力になるということに気づく。

ブルジョアジーに頼らず、労働者とその社会的地位に固有の見方や観念がつくりあげられるようになり、抑圧されているという意識が生まれ、労働者は社会的、政治的重要性を獲得する。

大都市は労働運動の発生地であり、そこで労働者は、はじめて自分たちの状態についてふかく考えるようになり、その状態とたたかいはじめたのである。

大都市においてプロレタリアートとブルジョアジーとの対立がはじめてあらわれ、そこから労働者の団結、チャーティズム、社会主義が出発したのである。

大都市は、農村では慢性的な形であらわれていた社会という身体の病気を、急性のものに変え、それによってこの病気に固有の本質と、それとともに、それを治療する正しい方法とを、あきらかにした。

大都市と、社会全体の知性の発展をおしすすめる大都市の影響がなければ、労働者は今日の状態まで、なかなか到達しなかったであろう。

さらに大都市は労働者と雇用主とのあいだの家父長的関係の最後の痕跡をも破壊し、また大工業は、ただ一人のブルジョアに頼っている労働者の数を何倍にもふやして、その破壊を助けた。

ブルジョアジーは、もちろん、このことを嘆いている。それは当然のことである──なぜなら、こういう家父長的関係のもとでは、ブルジョアは労働者の反抗をうける心配はまずなかったからである。

彼は労働者を思う存分搾取し、支配することができたし、また彼らに賃金のほかに、なにも費用のかからないいくらかの親切と、おそらく若干のわずかな利益を与えてやれば、おろかな民衆から服従と感謝と愛着とを、おまけとしてうけとることができた──これらはすべて、純粋な、必要以上の、犠牲的な温情からでているように見えるけれども、じつはブルジョアの義務の十分の一にもはるかにおよばないのである。

ブルジョアは個人としては、自分でつくりだしたのではない関係のなかにおかれているのだから、その義務の少なくとも一部をはたしたことになるのだが、しかし支配階級の一員としては、支配をしているということだけによっても全国民の状態に責任を負い、みんなの利益の保護をひきうけているにもかかわらず、その地位とともにひきうけたことをまったくおこなわず、そのうえさらに自分自身の個人的利益のために全国民を搾取しているのである。

家父長制的な関係は労働者の奴隷状態を偽善によって隠しており、そこでは労働者は精神的には死んでおり、自分自身の利益についてはなにも知らず、たんなる一個人にとどまっていなければならなかった。

彼が自分の雇主から距離をおいたときにはじめて、彼が雇主とは私的な利益によってのみ、金もうけによってのみ、結びついているのだということがあきらかになったとき、ほんのわずかないざこざでもあればくずれてしまうような見かけだけの愛着が完全になくなってしまったとき、そのときはじめて、労働者は自分の地位と自分の利益について認識し、自主的に発展しはじめるのである。

そのときはじめて、労働者はその考え方、感情、意思表示においてブルジョアジーの奴隷ではなくなるのだ。そしてこれらの点では、大規模な工業と大都市の影響が大きいのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p186-188)

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 イギリスでは、団結は、議会が定めた法令によって許可されている。しかも、議会を強制して、法律の名によりこの許可を与えさせたのは、経済制度である。一八二五年、大臣ハスキソンのもとで、議会が、自由競争の結果として生じた事態に法制をいっそう適応させるために、それを改正しなければならなかったとき、議会は必然的に、労働者の団結を禁止していたすべての法律を廃止しなければならなかった。

近代産業と競争とが発達すればするほど、団結を促進助長する要素がますます多く現われてくる。そして、団結が日一日と堅実さを増して一つの経済的事実となるやいなや、それは遠からず、合法的事実とならざるをえない。

 それゆえ、〔フランス〕刑法典のこの条文は、たかだか、憲法制定議会〔一七八九年六月成立〕時代と帝政〔一八○四──一五年のナポレオンー世の〕時代とには、近代産業と競争とがまだ十分に発達していなかった、ということの証左であるにすぎない。

 経済学者たちと社会主義者たちとはただ一つの点についてだけ一致する。すなわち、団結は不当と断罪する点がそれである。しかしながらただ彼らがその断罪状につけた理由が異なるのである。

 経済学者たちは労働者にむかってこう言う。団結してはならぬ。団結することによって、諸君は産業の規則正しい歩みを阻害し、工場主が注文に応ずるのを妨げ、商業を混乱させるのだ。そして、諸君の労働を一部分不用なものにし、以前より低減した賃金を諸君に受け取らせる機械の侵略を促進するのである。

そればかりか、諸君はどうやってもむだなのである、諸君の賃金は依然として需要される腕と供給される腕との関係によって決定されるだろう。だから、自分を経済学の永久的諸法則に反逆させるということは滑稽であるとともに危険な努力なのだ、と。

 社会主義者たちは労働者たちにむかってこう言う。団結してはならぬ。なぜなら、結局、団結によって諸君が得るものは何なのだ? 賃金の引上げか? うまくいった場合には、諸君はしばらくのあいだ二、三スーを獲得できるであろうが、その後には永続的な賃金低下がやってくるということを、経済学者たちが諸君に、明々白々と証明してくれるだろう。団結を組織し、維持するために諸君が支払わなければならなかった費用を、賃金の増額だけによって取りもどすには、数年を要するだろう、ということを、老練な計算家が諸君に証明してくれるだろう。

ではわれわれだが、われわれは社会主義者たるわれわれの資格において、諸君にこう言おう、こうした金銭問題は別としても、諸君が相変わらず労働者であり、主人が依然として主人であることには前にも後にも変わりがないであろう、と。だから、団結はいけない、政治はいけない。なぜなら、団結することは政治にかかわりあうことではないか、と。

 経済学者たちは、形成されているがままの、そして彼らが彼らの便覧のなかに書きこみ、封じこんでおくような社会のなかに労働者たちがとどまっていることを望むのである。

 社会主義者たちは、彼らが先見の明をもって労働者たちのために準備してやった新しい社会にもっとうまくはいれるように、労働者たちが古い社会をそっとそのままにしておくことを望むのである。

 両者〔経済学者と社会主義者〕の説に反して、諸種の便覧と諸種のユートーピアを無視して、〔労働者の〕団結は近代産業の発展拡大とともに進展拡大するのを一刻もやめなかった。現在では、一国における団結の到達した段階が世界市場における位階制においてその国の占める地位を明示する、という程度にまでなっている。産業が最高の発展段階に達しているイギリスには、もっとも広範囲な、もっともよく組織された団結が見られる。

 イギリスでは、当面のストライキのみを目的とし、そしてそのストライキとともに消滅する部分的団結だけに、とどまらなかった。労働者と企業家との闘争において労働者たちの城砦として役だつ恒久的団結が、労働組合が結成された。そして現在ではそれらの地方的労働組合のすべては全国労働組合連合協会に一つの結集点を見いだし、そして協会の中央委員会はロンドンにあり、協会所属員数はすでに八万に達している。それらのストライキ、団結、労働組合の形成は、チャーティストという名のもとにいまや一大政党を構成している労働者たちの政治闘争と時を同じくして進行した。

 相互に結集するための労働者たちの最初の試みは、つねに、団結という形でおこなわれる。

 大産業が、たがいに一面識もない多数の人間の群を一ヵ所によせあつめる。競争が、彼らの利害関係のことで彼らを分裂させるが、しかし賃金の維持が、雇い主たちに対抗して彼らのもつこの共通な利害関係が、抵抗という一個同一の思想において、彼らを結集させる、──それが団結である。だから団結は、つねに二重の目的を有している。

すなわち労働者間の競争を中止させ、そうすることによって、資本家にたいする労働者の全般的競争をなしとげうるようにするという目的をもつ。たとえ最初の抵抗目的が賃金の維持にすぎなかったにしても、次に資本家のほうが抑圧という思想で結集するにつれて、最初は孤立していた諸団結が集団を形成する。

そして、つねに結合している資本に対決するとき、彼らにとっては組合の維持のほうが賃金の維持よりも必要不可欠になる。

このことはまったく真実であって、イギリスの経済学者たちは、彼ら経済学者たちから見れば賃金のために設立されているにすぎない組合のために、労働者たちがその賃金のかなりの部分を犠牲にするのを見て、唖然としているほどなのである。

この闘争──これこそ正真正銘の内乱──においてこそ、来たるべき戦闘に必要なすべての要素が結合し発展する。ひとたびこの程度に達するやいなや、組合は政治的性格を帯びるようになる。
(マルクス著「哲学の貧困」マルクス・エンゲルス八巻選集@ 大月書店 p256-258)

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◎「近代産業と競争とが発達すればするほど、団結を促進助長する要素がますます多く現われてくる」と。