学習通信20081029
◎見る人をいつも「わくわく、どきどき」させる……

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社説

高橋選手引退
過酷な道走った先駆者

 やはり、笑顔の引退だった。日本女子陸上界初の五輪金メダルをもたらし、「女子マラソン王国」を築いた高橋尚子選手の足跡は、四二・一九五キロのコースだけには収まらない。お疲れさまでした。

 北京五輪へ最後の一枠を争った三月の名古屋国際女子マラソンで、高橋選手は二十七位の惨敗だった。

 九キロ手前で先頭集団から脱落し、前半で大差がついた。それでも「Qちゃん」の大合唱に迎えられ、いつもの笑顔でゴールした。観衆は高橋選手の「帰り」を待っていた。

 二〇〇〇年のシドニー五輪で女子で日本マラソン界初の金メダルを獲得し、国民栄誉賞に輝いた。野口みずき選手による〇四年アテネ五輪の日本勢連覇へ続く、「女子マラソン王国」を築いた功績は揺るぎない。

 メダルの輝きだけではない。高橋選手はアマチュアスポーツ界のムードを変えた。高橋以前のアスリートは、悲壮感漂う、無口な求道者というイメージが強かった。が、“Qちゃん”はそこへ「言葉」と「笑顔」を持ち込んだ。

 「(レース前)玉手箱を開ける前のどきどき、わくわくを今楽しんでいます」という印象に残るフレーズがマラソンファン以外の人の共感も呼んだ。

 笑顔を支えていたものは、強力な心肺機能と女子選手の常識をはるかに超える激しい練習だった。

 標高千六百メートルの高地を拠点に、破天荒ともいえる練習量を積み上げた。結果的にはその猛練習が選手寿命を縮めることにもなった。だが、エリート選手ではなくても「練習すれば強くなる」という可能性を身をもって示してくれたのが、“Qちゃん”だった。

 昨年八月、米国で右ひざを手術した。二人三脚を続けた小出義雄監督から独立し、コーチ不在のまま自らのチームを率い、本人も言うように完全燃焼したのだろう。

 北京五輪落選後、国内三大会連続挑戦を次の目標に掲げたため、「引き際を誤った」との指摘も受けた。だがそれも、「最後まであきらめない」心の表れだったと今は受け止めたい。

 高橋選手は、文字通り「先駆者」として長い過酷な道のりを駆け抜けた。傷ついた心身をいやした後は、指導者として再び走り始めてもらいたい。

 見る人をいつも「わくわく、どきどき」させる、玉手箱のような選手をはぐくむ存在であり続けてもらいたい。
(「東京」20081029)

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余録
高橋尚子さん引退

 シドニー五輪女子マラソンの35キロ手前だ。Qちゃんこと高橋尚子選手はサングラスを投げ捨てるや一気にスパートし、シモン選手を引き離した。「かっこいい」と日本中をわかせたシーンは、すでに時代の記憶となった

▲「スパートのつもりで投げたんじゃありません。もう要らないと思い、沿道に見つけた父に拾ってもらおうと投げた。その時シモンさんの妨害にならぬよう、2、3歩前に出た。落ちたサングラスを目で追うと、視界に入ったシモンさんが少し遅れている。で『あっ、今だ』と」

▲運命はサングラスの形をとることもあるらしい。そんな偶然の連なりに促されたとご当人のいうスパートは、結果として絶妙のタイミングだった。ゴールインして浴びた大歓声は、「陸上の神様」に抱かれたような不思議な感覚でQちゃんを包んだ

▲陸上の神様にそれほどまで愛された高橋尚子さんが現役引退を表明した。名古屋国際の27位完走の後、来月から来春にかけての東京、大阪、名古屋の女子マラソン3大会出場を目指して調整を続けてきたがうまくいかなかったようだ

▲「今は台風が過ぎてさわやかな風が吹いている感じ」とは会見で語った心境だ。引退は3大会に向けた練習で自らの納得できる走りができなかったことによる決断という。その間、何度も繰り返されたのは「完全燃焼」という言葉であった

▲シドニーでシモン選手と並走していた時、ふと「このままずっと走っていたい。風になっていたい」と思った高橋さんだ(「風になった日」幻冬舎刊)。栄光へのスパートを促した陸上の神様は、今度は人生の次のステージへそっと背中を押してくれたのだろう。
(「毎日」20081029)

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充実した自立の3年

 「プロとしての走り、自分の納得いく走りができなくなった」

 高橋尚子選手が、ついにシューズを脱ぐ決断をしました。

 世界の頂点を極めたシドニー五輪の金メダル、2001年には女子で初めて2時間20分の壁を破るなど、一時は世界の女子マラソン界を引っ張る存在でした。

 その走りには、それまで日本のマラソンランナーに感じられた、ひ弱なイメージを克服する、明るさ、たくましさがありました。

 当時指導していた小出義雄監督は、こう語ったことがあります。

 「高橋のよさは、ほーんとにかけっこが好きなところ。走ることが腹の底から好きでないと、決していい成績はでないんですよ」1回1回の練習を全力で走ってきた、と本人もいうように、好きな走りをとことん追求してきた日々が、彼女の「たくましさ」を支えていたように思います。

 「一番楽しいのは努力してきたことが形になってあらわれること。これが本当にうれしい」。彼女自身も走る魅力をこう語っていました。

 その高橋選手にとっての競技人生後半は、むしろ苦しさ、挫折、困難とのたたかいでした。アテネ五輪、北京五輪にも出られず、05年東京での復活優勝が最後のタイトルでした。

 しかし、その年に小出監督のもとを離れ「チームQ」を立ち上げたところに、もう一つの挑戦がありました。

 日本のマラソン界では、選手が監督のいうことに一方的に従うだけの関係が多くみられます。高橋選手は、ここに疑問を感じ、新たな道を模索したといえます。

 「自分の足で歩いた、充実した3年間でした」

 引退会見でさわやかな顔で語った彼女。この挑戦は自身の貴重な径験にとどまらない、大事な意味を持っている気がしてなりません。(和泉民部)
(「赤旗」20081029)

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◎「自分の足で歩いた、充実した3年間でした」