学習通信081104
◎ミイラとりがミイラに……

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 しかし、専門化かきわめて必要なことを、あれほどみごとに描きだしたベーヴェ自身が、右に引用した所論の後半部では、われわれの見るところでは、この必要を十分に評価していない。労働者出身の革命家の数が足りない、と彼は言う。

これはまったく正しい。

そして、われわれは、この「現地観察者の貴重な報告」が、社会民主党の今日の危機の原因、したがってまたこの危機を克服する手段についてのわれわれの見解を完全に確証していることを、あらためて強調する。

総じて革命家が大衆の自然発生的高揚に立ちおくれているだけでなく、労働者革命家さえ、労働者大衆の自然発生的高揚に立ちおくれているのである。

そして、この事実がまったく一目瞭然に確証していることは、労働者にたいするわれわれの義務の問題を論じるさいにしょっちゆうもちだされてくるあの「教育学」が、「実践」の見地からみてさえばかげているばかりか、政治的に反動的だということである。

この事実は、党活動の面でインテリゲンツィア革命家と水準を同じくする労働者革命家の養成を助けることが、われわれの第一の最も緊急な義務であることを、証明している(われわれが、党活動の面でという句に傍点をつけるのは、これ以外の方面で労働者が同じ水準に到達することは、必要ではあっても、けっしてこれほどたやすくはなく、これほど緊急でもないからである)。

だから、労働者を革命家に引き上げることを主要な眼目とすべきであって、けっして、「経済主義者」がやりたがっているように、自分のほうからぜひとも「労働者大衆」のところにおりていったり、『スヴォボーダ』がやりたがっているように、ぜひとも「中程度の労働者」のところにおりてゆく(この点で、『スヴォボーダ』は「経済主義的」「教育学」の二年生に進級しているわけだ)ことを主眼としてはならないのである。

労働者のためにわかりやすい文献が必要であり、とくべつ遅れた労働者のためにはとくべつわかりやすい(ただし、もちろん、道化たものではなく)文献が必要だということを、私は否定しようとはさらさら思わない。

しかし、私を憤慨させるのは、こういうふうに政治の問題や組織の間題にたえず教育学を引きこんでくるやり方である。

「中程度の労働者」のために心をくばっている諸君、君たちが労働者の政治や労働者の組織について語りだすまえに、きまって身をかがめたがるのは、実質上、むしろ労働者を侮辱するものではないか。

でも、重大な事柄について語るときには、背をまっすぐにのばして語りたまえ、そして教育学のことは、政治家や組織者にではなく、教育者にまかせたまえ! インテリゲンツィアのなかにだって、やはり先進分子と「中程度の人々」と「大衆」とがいるではないか? インテリゲンツィアのためにも同様にわかりやすい文献が必要であることは、みなが認めており、また現にそういう文献が書かれているではないか? しかし、大学生や中学生の組織化を論じる論文のなかで、その筆者が、なにか一大発見でもしたかのように、「中程度の学生」を組織することが第一に必要であると、くどくど繰りかえして述べはじめる場合を、まあ考えてみたまえ。

そのような筆者は嘲笑されるにきまっているし、またそうされても自業自得というものである。

人々は彼にむかってこう言うだろう。

もし君が祖織上の考えをもちあわせているなら、それをわれわれに告げたまえ。そうすれば、われわれは、われわれのなかのだれが「中程度の人人」で、だれがそれ以上で、まただれがそれ以下かを、自分で吟味しよう。だが、もし君が自分自身の組織上の考えをもちあわせていないのだったら、君が「大衆」や「中程度の人々」やについてどんなにまくしたてても、退屈なだけであろう。

「政治」や「組織」の問題は、問題そのものがすでにきわめて重大なので、まったく真剣なやり方でなければそれについて語ってはならないことを、理解したまえ。

これらの問題について彼らと会話を始めることができるように、労働者を(そしてまた大学生や中学生を)訓練することはできるし、また訓練しなければならないが、いったんこれらの問題について語りはじめたら、ほんとうの答をあたえたまえ。「中程度の人々」やら「大衆」やらのところまであともどりしてはならない。だじゃれや空文句でお茶をにごしてはならない。

 労働者革命家も、自分の仕事について完全な作業をつむためには、やはり職業革命家にならなければならない。

だから、ベーヴエが、労働者は工場で日に一一時間半も働くので、残りの(扇動を除いた)革命的機能の「おもな負担は、やむをえず、ごく少数のインテリゲンツィア勢力に負わされている」と言っているのは、正しくない。

事態がそういうふうになっているのは、けっして「やむをえない」からでなく、われわれの立ちおくれによるものであり、すべて能力のすぐれた労働者を助けて職業的な扇動家、組織者、宣伝家、配布者などにならせることが自分の義務であるのを、われわれが自覚していないためである。

この点でわれわれは、とくにいたわってそだて、つちかわなければならないものを、たいせつにすることを知らないで、自分の勢力をまったく恥ずべきやり方で濫費(らんぴ=むやみの費やすこと)しているのである。

ドイツ人を見たまえ。彼らはわれわれの百倍も多くの人手をもっているが、しかし彼らは、「中程度の人々」からは、真に有能な扇動家等々はけっしてそんなに頻繁に生まれてこないことを、よく知っている。

だから、彼らは、有能な労働者と見れば、すぐさまその能力を十分に発揮し、十分にはたらかせることのできるような条件のもとに、彼をおこうとつとめる。

彼は職業的扇動家とされる。その活動舞台をひろげて、一つの工場からその職業全体へ、一つの地方から国全体へとおよぼしてゆくようにはげまされる。彼は、自分の職業について経験と手腕を獲得し、その視野と知識をひろげる。他の地方や他の党のすぐれた政治的指導者を身近に観察する。

自分でもこれと同じ水準に到達しようとつとめ、また、労働者社会についての知識と、社会主義的信念の清新さと、それなしにはブロレタリアートがその敵のみごとな訓練を経た隊列にたいして頑強な闘争をおこなうことのできないあの職業的修練とを、一身に結びつけようとつとめる。

こういうふうにして、そしてこういうふうにしてはじめて、べーベルやアウアーのような人々が労働者大衆のうちから送りだされてくるのである。

しかし、政治的に自由な国ではかなりの程度までひとりでにおこなわれることでも、わが国では、われわれの諸組織がこれを系統的に遂行しなければならない。

いくらかでも才能があって「前途有望な」労働者出身の扇動家を、工場で一日に一一時間も働かせてはならない。

われわれは、彼の生活を党の資金でまかない、適当なときに非合法状態に移れるようにしてやり、その活動場所を変えてやるように心がけなければならない。

というのは、そうしなければ、彼は多くの経験を身につけることができないし、その視野をひろげることも、憲兵との闘争にせめて数年もちこたえることも、できないだろうからである。

労働者大衆の自然発生的高揚がいっそう広くまた深くなればなるほど、労働者大衆は、才能ある扇動家だけでなく、才能ある組織者や宜伝家や、よい意味での「実践家」(これは、たいがいはいくらかロシア式にずぼらで、ぐずな、わが国のインテリゲンツィアのあいだには、非常に少ない)を、ますます大勢送りだしてくる。

われわれが、専門的訓練をうけ長年の修業を経た労働者革命家たち(そのうえ、もちろん「あらゆる兵種の」革命家たち)の部隊をもつときには、世界のどんな政治警察もこの部隊には歯がたたない。

なぜなら、全幅的に革命にささげた人々からなるこの部隊は、最も広範な労働者大衆の同じよりに全幅的な信頼をうけるだろうからである。

そして、われわれが、労働者にも「インテリゲンツィア」にも共通の、この職業革命家としての修業の道へ労働者を「駆りたてる」ことが少なすぎ、労働者大衆や「中程度の労働者」にはなにが「とりつきやすい」かなどという愚論によって労働者を引きもどしている場合が多すぎるのは、まさしくわれわれの罪である。

 これらの点でも、ほかのいろいろな点でもそうであるように、組織活動の規模が狭いことは、われわれの理論やわれわれの政治的任務がせばめられていることと不可分の(たとえ大多数の「経済主義者」や駆けだしの実践家はそれを意識していないにしても)関係があることは、疑いをいれない。

自然発生性の前に拝跪していることが、大衆にとって「とりつきやすい事柄」から一歩でも離れることにたいするある種の恐怖、大衆の最も身近な直接の要求へのたんなる奉仕をこえて高くのぼりすぎることにたいする恐怖を、生みだすのだ。

諸君、恐れたもうな! われわれは組織の点ではきわめて低いところにいるので、高くのぼりすぎるかもしれないなどと考えること自体ばかげていることを、忘れないでくれたまえ!
(レーニン「なにをなすべきか」レーニン一〇巻選集A 大月書店 p128-131)

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大衆性を身につけよう

 組合幹部も職場の仲問と同じ労働者の一人です。ところが、職場には、「彼らはオレたちとちがう」という感情を、幹部たちに抱いている仲間がたくさんいます。もし労働組合幹部が、職場の仲間たちからそのように見られているとしたら、幹部と組合員のあいだに「断絶」があるあらわれであり、資本からの楔を打ちこまれやすい危険な状態にあるといえます。

 労働組合の幹部になるためには、そなえなければならないいくつかの条件がありますが、そのなかでも大切な条件の一つは、大衆性を身につけるということです。大衆性とは、職場の労働者から「彼はオレたちと同じ仲間だ」と思われることであり、組合幹部は「オレは職場の労働者からかけ離れた存在ではない」ことを日常的に意識することによって、身につけることができるものです。

 組合幹部の大衆性とは、けっして先天的なものでなく、努力すれば身につけることができるものです。大衆性を身につけるためには、労働者の生活と労働のなかに深くはいりこみ、そこに生まれている気分、感情、不満、欲求を敏感にとらえ、そのなかに自分もとけこめるようになることです。仲間たちのよろこびと悲しみを自分のものとすることができるようになって、はじめて、労働者は「あの人なら話してみようか」という気分になるのです。

 このためには、「存在は意識を決定する」といいますが、幹部の生活水準と職場労働者の生活水準とが、あまりかけ離れたものでないことが必要です。日本の場合、企業別組合ですから、幹部の賃金は職場からの延長が多いわけですが、それ以外の収入を関連団体の役員手当とか、政府委員手当などの名目でもらっていたりして、しだいに生活水準や生活感覚が職場の労働者から遊離していく場合があります。フランスでは、組合幹部の賃金は「熟練労働者の中位の上」のレベルと決められています。

 組合幹部の大衆性とは、職場労働者からみて「わけへだてを感じさせない」ことですから幹部は大衆と同じ生活をし、同じ言葉でしゃべり、同じ着物を着ることにつとめ、ことさらに、大衆よりも低い生活をしたり、劣る着物を着る必要もないしまた、むつかしい用語を乱発することもつつしまなければなりません。

 かつてわたしは、横浜の音楽堂へ講演に行ったとき、ジャンパーを着て行ったのですが、講演が終わって帰ろうとしたとき、一人の見ず知らずの労働者がやってきて、わたしに、「あなたは背広をもっていないのですか」というんです。わたしは「もっていますが」というと、「人の前に出るときは、背広を着た方がいいですよ」といってくれました。わたしは人の前に出る機会が多い仕事をしているので、それ以来、できるだけ背広を着るようにしています。ところがよく「今日は何があるの?」と仲間からきかれました。それまでのわたしには不自然さがあったのだと思います。

 組合幹部は大衆性をもたなければならないということから、もう一つ大切なことは、自分の個性までころし、ことさら仲間にペコペコしたり、愛嬌をふりまいたりする必要はないということです。仲間に不快を感じさせるような個性はなおさればなりませんが、個性のない人間は蒸溜水のようなもので、味がありません。大切なことは仲間の気分・感情・不満・欲求を、幹部が自分のものにすることができるか、その姿勢と決意をもっているかどうかということなのです。

「ある程度とけあう能力」を

 組合幹部は大衆性を身につけるためには、大衆の気分・感情・不満・欲求に流感に反応しなければならないことはすでにみてきましたが、敏感に反応するためには、大衆の生活、労働に深くはいりこまなければなりません。大衆の生活、労働に深くはいりこむためには、幹部は仲間と「ある程度とけあう能力」をもつことが大事です。

 丘へ上がったカッパは、水を与えれば多少生きのびることはできても、職場からうきあがった幹部・活動家は、どんなに有能で、エネルギッシュであっても、その影響をひろく労働者階級全体のものにすることはできません。わたしたちは、どのような活動をするにしても、職場の労働者から絶対にうき上がってはなりません。

 いま「技術革新」とはげしい「合理化」攻撃のもとで、職場は「砂漠」と化しています。そして労働者の気持ちにも、うるおいがなくなりかけています。こういうなかで、職場ではギャンブルがはやっています。マージャン、競馬、花札……。ギャンブルに夢中になっている労働者が多くなるということは、それだけ、組合運動にたいする労働者の関心がうすくなるということです。しかし、ギャンブルに夢中になっている労働者に、ギャンブルはけしからんといっても、ギャンブルをやめません。それでは、どうしたら、ギャンブルにこっているような労働者の関心をも、組合運動に向けることができるでしょうか。

 このことは、労働者の自覚をうながすためには、どうすればよいかということです。馬を水槽のところへむりやりつれていっても水を飲みはしません。幹部は労働者のギャンブルをこのようにやめさせようとしても、それはできませんし、かえって反感を買います。労働者はなぜギャンブルに夢中になるのか、その本当の気持ちを知り、その気持ちと幹部はどう結びつくか、そこが核心です。一般的にいって、ギャンブルに夢中になるのは、職場の暗さをふっとばそうとする気分と、ギャンブルの面白さ、実益がむすびついている点にあります。だから組合幹部は労働者の木当の気持ちをつかみ、それに結びつくためには、「ある程度」そのギャンブルの魅力を知ることも必要です。ギャンブルの内容を全然知らないでいて、ギャンブルにはこういう本質があるといっても、それはお説教になってしまいます。

 かつて、こういうことがありました。競馬場の近くにある労働組合へ行ったときですが、そこの書記長は、競馬の開催日には組合の催しをしてもほとんど集まってくれない、というんです。「どうすればいいか」とたずねられましたが、わたしにも名案はありません。そこで、「あなたは競馬へ行ったことがありますか?」とたずねると、ないというんです。わたくしは、「あなたも、みんなと一緒に行って、みんながどんな気持ちをもっているかをつかみ、そこで考えてみたらどうですか」といって帰りました。

 ここで大切なことは、「ある程度」とけあうということで、全面的にとけあっては、ミイラとりがミイラになってしまいます。あとで聞いたのですが、その書記長は組合員の気持ちをつかむために競馬場へ行ったが、そのままやみつきになってしまった、ということです。これは「ある程度」ではありません。とっぷりととけあってしまったわけです。組合幹部は、勉強しなければならない、活動もしなければならない、そして、職場の仲間の気持ちをつかむために、「ある程度」とけあわねばならないし、身体がいくつあっても足りないくらいです。しかし、さまざまな思想傾向の労働者とともに要求で団結し、たたかい、労働組合を統一戦線の主力部隊になるまでたかめ、個々の労働者を労働者階級の偉大な歴史的使命に目ざめさせるうえで、組合幹部の役割は大きいわけです。したがって、組合幹部には、役割をはたすうえで、苦労はつきものですが、この苦労を苦労と思わない情熱が必要です。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p22-27)

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◎「この点でわれわれは、とくにいたわってそだて、つちかわなければならないものを、たいせつにすることを知らないで、自分の勢力をまったく恥ずべきやり方で濫費している」と。