学習通信081105
◎活動家が組織能力……
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仲間の気分・感情・不満に敏感な反応を
職場の労働者は、石や機械のような無機物の集まりではありません。気分・感情・不満・欲求をもった生きている人間の集まりです。だから、労働者を労働組合に組織し、また、組織の団結をつよめるためには、すでに組織され、また組織化の対象とされている労働者の気分・感情・不満・欲求を尊重することが大前提となります。労働者のもっている気分・感情・不満・欲求を重視せず、もし組合幹部・活動家が自分の主観や都合で要求をつくり職場におしつけるなら、組織化はすすまないだけでなく、組織の団結を弱める結果になるでしょう。
労働者の気分・感情・不満・欲求はそのまま、労働組合の要求となるものではなく、幹部・活動家は、これらを基礎に圧倒的多数の労働者の共通性と、不満・欲求の本質は何かという見地から、労働組合の要求としてまとめなければなりません。
しかし、労働者のもつ気分・感情・不満・欲求の内容は多彩です。そこには、経済的なもの、政治的なもの、文化的なものなどがあり、これらを総合的にまとめあげないかぎり、その要求は圧倒的多数の労働者の気分・感情を反映しているとはいえませんし、それは、組織化と組織の団結をかためる前提とはならないということです。
組合の幹部・活動家が組織能力を身につけるうえで、もう一つ大切なことは、労働者の不満・欲求、要求は、労働者の自覚のたかまりに応じてたえず発展します。労働者の階級自覚がまだ低い段階では、彼らの気分・感情・不満・欲求は身近かな利害に根ざしたものが、圧倒的に多いのです。したがって、幹部・活動家は大衆の低いレベルの不満・欲求をもとにして要求をまとめあげることを、組織化と組織の団結強化の前提としなければなりません。
しかし、労働者はどんな低いレベルの要求でも、その要求で団結し、行動にたち上がることができたなら、労働者はその団結と行動を通じて、団結すべき仲間と、要求の実現をはばんでいる相手を正確に知るようになります。
敵・味方の区別を知り、団結する仲間を自覚するということは階級的自覚のはじまりです。労働者の階級的自覚がたかまれば、彼らのもつ不満・欲求、要求のレベルもたかまります。このたたかいの過程で、幹部・活動家が宣伝・煽動と教育をたくみに結合することができれば、要求にもとづくたたかいと労働者の階級的自覚は発展し、やがて労働者は、労働者階級の歴史的使命を自覚するまでになります。
しかし、この過程は、ジグザグのコースをとり、けっして単調ではありません。労働者の階級的自覚のたかまりと労働組合運動の発展過程は、それは一直線にまた、なだらかなカーブをえがいて前進するものではなく、ピークと横ばい──時には後退──をくりかえしながら前進していくものです。
組合幹部・活動家が、この運動の弁証法的な発展過程を法則的にとらえることができれば、個々の現象に一喜一憂せず、労働組合運動をすすめることができます。そして、この岩をもつらぬく労働者流こそ、労働組合運動の最大の魅力であり、はげましとなり、組織化と組織の団結強化に大切なシンボルになるものです。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p27-29)
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仲間とともに
仲間とともにそして何時も仲間の半歩前を
たたかいの人生をささえる生きがい、それは学習と連帯にあるというのは、私たちの体験にもとづく一つの結論でした。私たちは一人ぼっちではたたかえません。組織ぎらいなどというぜいたくなものとは無縁の存在です。
私たちは、そもそもの時期からほんとうにすぐれた友人、仲間たちに恵まれてきました。何十年たって互いに白髪をいただくようになったいまでもツーといえばカーと通じあえる、そういう友をもっていることはほんとうに幸せなことだと思います。と同時に共通の理想に結ばれる新しい仲間をつくっていく、この仕事ほどやりがいのある仕事はないといえるでしょう。私たちもそういうふうにして前進してきました。
そして、そのなかから、仲間をつくり仲間とともに、しかもその半歩ほど前を歩むことの大切さを学びつづけたのです。
これから、その私どもの体験からする仲間づくりの秘けつのようなものについてお話してみたいと思います。
私たちは仲間づくりをすすめるにあたって、まず仲間は人間であるというまったくあたりまえの事実をふみしめてかかる必要があるということです。なにを馬鹿な! そんなことくらいあたりまえさ、などと言わないでください。私の経験では、実はこのあたりまえすぎるくらいあたりまえのことがとかく忘れられるので困ると思うからです。
問題の基本は、仲間たちは命令で行動するのではない、彼らは、自分自身の利害にもとづいて、しかもそのときに彼らが自分自身の利害を理解しうる程度に応じて行動するものだ、ということをちゃんとわきまえてかかることです。
仲間はけっして木や石ではない、機械でもない、ほかならない人間だということ。思想をもち意識をもち、そしてそれなりの生活経験をもち、それなりの社会経験をもち、社会環境のなかで生きている人間であるということです。ですから、命令さえすればかならず自分の希望したとおりに動くものだというようなものではありません。押しつけたり、引きまわしたりというような正しくないやりかたがでてくるのは、このまったく当然すぎるほど当然の事実を忘れるところからくるものです。これはごくあたり前のことであります。しかしあたりまえのことなんですが、えてして私たちが忘れがちになる非常に重要な点ではないかと思います。
だから、この木や石でなくて生きて動いている仲間どうしが一つにまとまってたたかおうという強固な意志統一をつくりだしていくことなしには、うまくいく道理がないわけです。そのためにはまず仲間自身が、自らこういう目的のために団結してたたかうことが必要なんだ、仲間たちと手をつないでいっしょにたたかわなければいけない、というように思いこませる(納得する)ような活動がまず必要になってきます。
この仲間自身の理解と期待のための活動を軽視して、こう進むべきだ、こうやるべきだ、というところから出発して、おしつけてみても、引きまわしてみても、それはうまくいくはずがありません。指導とは納得なのです。
第一、押しつけるにしても引きまわすにしても、もうそこには対等平等の立場がなくなっています。民主的な関係のないところに、ほんとうの仲間などできるはずがありません。真の連帯、それは自主的なもの、そして民主的なものでなければなりません。思想や意識をもたない木や石を組みたてたり、機械を組みたてたりするのとはわけがちがうということ、これを真底から理解してかかるかどうか、ここに仲間づくりの根本的なカギがあると私は信じています。
必要ならばある程度大衆ととけあう能力を身につける
仲間づくりの第一の条件、それはなんといっても仲問の信頼を得ることです。仲間の信頼を得るためには、仲間たちにわけへだてを感じさせないこと、つまり大衆性を身につけることが決定的に重要です。レーニンも「必要ならばある程度大衆ととけあう能力(非ブロレタリア大衆とも)」を強調したことがあります。ある程度というのは、さきほど私が仲間の半歩前を歩むといったことと同じ意味です。ところが、仲間の信頼を得ようと思えば、まず自分自身が大衆に対する全面的な信頼関係に立たなければなりません。
君が僕を愛してくれるなら、僕も君を愛してもよい、これでは恋愛はなりたたないのと同じように、君たちが僕を信頼してくれるなら僕も信頼しようでは、仲間の信頼を得ることはできません。まず仲間を信頼するという立場にたつ、これが基本です。ところが仲間を信頼するということは、何もイワシの頭も信心などという非科学的なことではありません。
私たちの信頼という言葉の中身には、次の三つのことが含まれていなければなりません。
まず第一に、私たちが仲間を信頼するというのは、要求をもたない人間は一人もいないということを理解することです。資本主義社会で生活し、そしてたたかっているすべての人びと、資本によるあくどい搾取と抑圧にさらされている労働者であれば、要求をもたない人間など一人もいないはずです。
ただ日常会話のなかで自分は要求なんかないという人もいますが、ほんとうはその人自身がまだその要求に気づいていないか、もしくはあきらめているだけで、どんな人でももっと賃金がほしいとか、もっと労働時間が短ければよいというような要求からはじまって、社会保障とか、子どもの教育とか、生活環境など生きているかぎり大きな要求、小さな要求、目に見える要求、見えない要求さまざまな要求をもっているはずです。
要求をもたない人間はいない。これはけっして主観的な判断ではなく、客観的な事実なんです。認めるとか、認めないとかの問題でなくて、現実の客観的な事実なんです。いくら現象的には反動的な言動をするような仲間であっても、彼が労働者階級の一員であり、搾取され支配されながら生きている以上、要求をもたないなどということはありえないことなのです。ここに共通の土台があるのであって、仲間と仲間の共通のふれあいの基盤というものを確認することが、決定的に重要です。これが出発点です。
仲間を信頼するということの二つ目は、階級的な利害が一致している、立場がいっしょだということを理解することです。
仲間は労働者階級の場合もあれば、農民、勤労市民の場合もあり、いずれにしても日本の独占資本とアメリカ帝国主義によって搾取され支配されているという点では、まったく共通の立場におかれています。
たとえ現在の瞬間にどんなに意見がするどく対立し食い違っていようとも、階級的な立場は同じなんです。意見が食い違うというのは避けがたい。それぞれがおかれている環境の違いや階級意識の発展段階の違いなどさまざまな違いがある以上、意見がまったくはじめから終わりまで一致している人間なんてあるはずがありません。
マルクスの「その時代の支配的な思想は支配階級のイデオロギーである」という有名な言葉があります。物質的な生産手段をにぎっている階級がイデオロギー、つまり社会的な思想や意識まで支配するというわけです。
それは広範な勤労者のおかれている生活の実際の姿を考えただけでも明らかです。きつい労働、きびしい生活環境のなかでは、なかなか学習することはできません。勉強は学校だけで十分だ、これからはのびのびやろう、ということで競馬場に通っている仲間もいれば競輪場に通っている仲間もいるなどと、いろいろあるでしょう。
しかし、その仲間たちを見る場合、「ああおくれたやつだ」「はしにも棒にもかからんやつだ」というふうに仲間を見ると、活動の意欲も何もなくなってしまうでしょう。これでは、自分自身の側にかこいをつくることになるわけです。そういう考えを克服する、そうして彼と私とは深いところでは階級的な立場が一致している、基盤が共通しているんだということを確認する、そうするとよしやって見ようという勇気がわいてくるはずです。
さて仲間を信頼するということの三つ目は、歴史をつくるのは誰かという問題を正しく理解することです。歴史をつくるのはすぐれた軍事科学者や英雄ではなくて、幾百千万の勤労大衆、「名もなく貧しく美しい」民衆だということです。もちろんこういうふうにいったからといっても、指導者の役割をないがしろにしてよいというわけではありません。指導者は時代の流れのなかから民衆自身が生みだしてきて、そして民衆を導くという重要な役割りを担うものです。
指導者が誤りをおかすかおかさないか、それによって歴史が大きく影響されるということは、世界の歴史が物語っているところです。ですから指導者の役割は非常に重要であります。しかし結局のところ、それをのりこえて時代の発展を導くのは、働く勤労人民大衆であるということは疑いようのない歴史の真実です。
つまり民衆自身が歴史をつくる、いいかえると、本来仲間というものは自分の力で自分の問題を解決する力をそなえているということ、その能力の発揮がいま妨げられているだけなのであって、どんなに中途半端な仲間であっても、ある条件のもとに導かれるならば、決然と立って、そして歴史の主人公として立派にふるまうものなのだというこの観点を理解することは非常に重要であります。
以上の三つのこと、これが大衆への無限の信頼とはなにか、その中身だといってもさしつかえないと思います。大衆を信頼するとか仲間を信頼するとかいうときの信頼というのは、このように科学的社会主義の理論によってきちんと裏づけられた科学的な考え方なのです。ですから、仲間づくりをめざすものは、理論と実践の両面からこの基本点を理解することが必要です。
(有田光雄、有田和子「わが青春の断章」あゆみ出版社 p247-253)
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◎「大衆を信頼するとか仲間を信頼するとかいうときの信頼というのは、このように科学的社会主義の理論によってきちんと裏づけられた科学的な考え方」と。