学習通信081113
◎「報復でもしてやろうか」……

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阿倍 裕(ジャーナリスト)
岩崎貞明(「放送レポート」編集長)
金光 奎(ジャーナリスト)
宮坂一男(「しんぶん赤旗」論説委員会責任者)

……以上略

討論
■メディアの「立ち位置」

「社会の木鐸」としての役割は

宮坂……現状ということで一言補足させていただければ、阿部さんからもお話があったことですが、国内での政治報道と同時に、国際報道で日本のマスメディアの弱点があらわになっています。金光さんが使われた言葉でいえば、日米関係を「金科玉条」にして世界を見るということから、今の世界の変化が反映されない。しかも戦後長くアメリカあるいはヨーロッパ中心の取材報道体制をとってきているなかで、例えば中南米だとかアジア、アフリカの動きが一般紙を読んでいるだけでは分からないことが顕著になってきています。昨年で言えば中南米の大きな変化が伝えきれない。ベネズエラの事態について「反米」「独裁」というキーワ一ドでしか伝えないという弱点が出ました。昨年九月には、非同盟諸国の大きな会議がありましたが、そうした動きなどの報道も十分なされないなど、国際報道の面で、日本のマスメディアのもつ弱点があらわになっていると思います。この点、「しんぶん赤旗」は中南米や非同盟諸国の動きに注目し、報道してきました。

 先ほど岩崎さんが言われたジャーナリズムとしての「立ち位置」の問題は私も同感です。権力に与せず、国民の立場に徹する、あるいは国民主権や民主主義、基本的人権、平和主義という憲法の立場に徹するという戦後ジャーナリズムとしての立脚点が曖昧になっています。むしろそれを否定しようとする側の「産経」や「読売」は元気だが、戦後ジャーナリズムの立場に立ちきれない「朝日」や「毎日」などは弱々しいということにも表れています。

 憲法とのかかわりでは改憲に反対する全国紙がなくなりました。『世界』二月号で同誌の岡本編集長が、なぜ教育基本法が成立したのかの理由をいくつか挙げているのですが、その一つに「マスメディアの劣化」の問題を取り上げています。かつては「社会の木鐸(ぼくたく)」と言われたジャーナリズムがその役割を果たさなくなってきている、「だからこそ、伊吹文科相の『(政府案は)自民党の新憲法草案との整合性をチェックしている』(十一月二十七日)という仰天発言を、ほとんどの人が見逃してしまった」と言っています。まさに、憲法とのかかわりでジャーナリズムとしての足場が曖昧になっている現状への鋭い批判だと思います。

岩崎……昨年におこなわれたNHKへの命令放送の問題もこの「立ち位置」の問題と関連します。放送法のなかに規定がある放送実施命令というものに則ったという形で、総務大臣がNHKに短波ラジオの国際放送で拉致問題を重点的に放送する命令がなされました。具体的な報道の中身に踏み込んでの命令ではないから報道の自由の侵害にあたらないというのが政府の側の説明です。しかし、どういうテーマをニュースとして取り上げるかということ自体が、すでにジャーナリズムの編集機能の発揮です。だから政府がこの問題を取り上げろということ自体がすでに報道の自由の侵害だと思います。しかし、そうした批判がどうしてなされないのか。

 ジャーナリズムの世界の倫理だとか理屈についての主張ができない状況に陥っています。NHKにしてみれば法律で決められている以上、異を唱えてもしかたがないということだったかもしれませんが、問題は短波ラジオの国際放送でのニュースの扱い方だけにとどまらずに、結局地上波を含めNHKのほかの放送まで同じようなことがおこる結果になるわけです。政府にしてみれば短波ラジオに二十二億円程度出しているだけで、NHKのすべてのメディアににらみを効かすことができるという効率のいいメディア支配になる。そのことにNHK自身がどれだけ自覚的なのかは疑問です。

自己規制の背景にある弱点

阿部……今、放送の問題で、権力とメディアの関係に関する問題が出されました。新聞においても同じような質の問題がおきています。昨年、「朝日」が靖国神社の台所事情について相当困っていると書いたことをきっかけに、靖国神社が「朝日」の取材を拒否するということがおきました。「朝日」はそれに唯々諾々として、国民的争点であった八・一五の小泉参拝という決定的なシーンでロイターの写真を使いました。ここにも、権力やそれに類するところから圧力がかかっても、それを突破していくのが本来のジャーナリズムなのに、それを回避し、妥協を図るという姿勢が現れています。「朝日」は、NHKにたいする政治介入報道のときと同様の曖昧な対応を、そのまま引きずっている。

 同じ時期に共同通信が、かつて安倍晋三氏の選挙区の下関市長選で、彼の地元の筆頭秘書がからんで、右翼暴力団を使って相手候補の誹膀中傷ビラを大量にばらまかせたというスキャンダルがあったのを検証する取材を社全部がチームをつくって記事にしたものが、上から圧力がかかってボツになるという事件がありました。取材当初は社会部長も「よし、やれ」「これ、いけるぞ」と督励した企画記事だったのです。これについて、共同通信の編集局内部や労働組合などで議論を発展させることにならないで、結局、共同OBの魚住昭氏たちが『月刊現代』でそれを明るみに出す形になった。その裏には、同じ時期に共同が日本のメディアでは初の平壌支局開設があった──常駐支局ではなく北京との兼任だったのですが──これが、対北朝鮮強硬派の安倍首相誕生、そして拉致被害者の家族を必要以上に刺激して、こじらせたくない、との政治的・経営的思惑から、社長室筋の圧力でボツにしてしまった、との経過のようでした。

 このように、メディアの対応が政治的思惑や経営的なマインドによって行われてしまっていることが特徴です。ジャーナリズムに依拠して問題を解決していくのではなく、経営の論理を優先し、自己規制する行動が目立っている。

 放送においても比較的報道番組に力を入れているテレ朝とTBSに対する自民党筋からの圧力は、つねにモニターが行われていて、少しでも取材不足や舌足らずの報道がおこなわれると経営筋に圧力がかかり、それで現場は萎える≠ニいうことがおきています。こうしてメディア全体が「触らぬ神に祟りなし」という形で、執拗に事実を追い、核心に迫っていく現場の意欲を削いでいっているというのが最近の傾向だと思います。金光さんが言われた広報戦略とは、たんに誘導するだけではなく、さまざまな方法でたとえ直接圧力がかからなくても自己規制してしまう体質をメディアのなかで蔓延させているということもあると思います。自らの手で突破して権力の中枢への監視と批判をおこなうという本来のジャ一ナリズム精神は、ますます弱くなってきていると思いますね。

宮坂……メディアとしての存在意義にかかわるような問題をなぜ問題にしないのか。たとえば「構造改革」によって間題が生じていることは取り上げるが、「構造改革」そのものについて突き詰めない。内橋克人さんが『悪魔のサイクル』(文芸春秋刊)という本のなかで、「二〇〇六年に入って、新聞やテレビなどの各マスコミや書籍などで、『格差社会』の現状について、さまざまな報道がなされるようになりました。しかし、そのほとんどの報道、書籍が現状を報道するだけのものです」と批判しています。内橋さんの「むろん現状を報告することにも意味があります。しかし、人間はくりかえし『現実』を見せられると、その『現実』を所与のもの、つまり変えようのないものとして受容してしまうのです」という批判は重いものがあります。なぜそういう「現実」が起き、格差がいったいどこからきたものかを突き詰めてこそジャーナリズムの活動です。既存のメディアには、圧力や萎縮といった以前に弱点があるのではないでしょうか。

金光……「構造改革」の問題でいえば、その本質を突きつめない弱点とともに、国民生活の視点で問題をときおこす姿勢が弱いと感じています。たしかに「格差社会」の報道という点では、ていねいな調査報道もあったことは事実ですが、「改革」の名でおこなわれている政策を一つひとつ労働者、消費者という国民生活の視点で検証する努力は弱いというしかありませんね。

経営に影響ある問題を避ける

岩崎……先の共同通信のケースでは、現場レベルではかなりの抵抗があったと聞いています。しかし、最後は業務命令で、経営判断が優先したわけです。同じことは、タウン・ミーティングのやらせ問題≠ナも言えます。タウン・ミーティングの多くはイベントとして電通が請け負っているわけです。例のエレベーターのボタンを押すのに十万円というような話は、電通がそういう請求をしているから内閣府が払っているという関係だったはずです。しかし新聞もテレビも追及できない。電通は新聞広告の半分をうけもっていますし、テレビもゴールデン・タイムの時間の比率でいうと半分ぐらいのCM枠をおさえているからです。だから例えば電通の社員が麻薬や覚醒剤で逮捕されても、「電通の社員」とストレートに報道できなかったりするわけです。ある種経営判断が優先しているがゆえに、本来報道すべきことが報道できない。同じようなケースは電力会社など大スポンサーに対して起きています。明らかに経営に影響のある問題を避ける傾向は強まっています。

阿部……とくにテレビの場合は、サラ金広告の問題が典型的です。CM放送を自粛し、控えることにしたら、これまで依存した比率が高かったから、その分を別の業界で埋め合わせなければならないことになる。するとよりいっそう電通はじめ大広告会社だのみになる。経済界とメディアと政治が、いわば一蓮托生で同じ運命共同体のなかでお互いにある部分を受けもっているという関係になっています。そして、それにたいする批判勢力が弱くなり、労働組合のチェック機能も弱くなるなかで、どう日々をやり過ごすかという状況になっている。

 しかし、実際には、メディアをとりまく環境はそんなに安定した状況ではありません。どうやって現状を維持していくかに汲々としていて、あえて火中の栗を拾うようなリスキーな取材報道を避けるということが言わず語らずのうちに広がっている。そういうものが積み重なってジャーナリズム精神の喪失につながってしまっている。

……以下略

(「報告と討論 いまメディアは政治をどう報道しているか」前衛2007年3月号 日本共産党中央委員会 p40-44)

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トヨタ奥田氏「厚労省たたきは異常。マスコミに報復も」

 トヨタ自動車の奥田碩取締役相談役は12日、首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、テレビの厚労省に関する批判報道について、「あれだけ厚労省がたたかれるのは、ちょっと異常な話。正直言って、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。スポンサー引くとか」と発言した。

 同懇談会は、年金記録や薬害肝炎などの一連の不祥事を受け、福田政権時代に官邸に設置された有識者会議で、奥田氏は座長。この日は12月の中間報告に向けた論点整理をしていた。

 奥田氏の発言は、厚労行政の問題点について議論された中で出た。「私も個人的なことでいうと、腹立っているんですよ」と切り出し、「新聞もそうだけど、特にテレビがですね、朝から晩まで、名前言うとまずいから言わないけど、2、3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省に関する問題についてわんわんやっている」と指摘し、「報復でもしてやろうか」と発言。

 さらに「正直言って、ああいう番組のテレビに出さないですよ。特に大企業は。皆さんテレビを見て分かる通り、ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社じゃない。いわゆる地方の中小。流れとしてはそういうのがある」と話した。

 他の委員から「けなしたらスポンサーを降りるというのは言い過ぎ」と指摘されたが、奥田氏は「現実にそれは起こっている」と応じた。
(「朝日電子版」20081112)

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◎「経済界とメディアと政治が、いわば一蓮托生で同じ運命共同体のなかでお互いにある部分を受けもっているという関係」と。