学習通信081114
◎着用者の皮膚に、ゾクゾクと感じさせる……

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《潮流》

十一月。霜月の訪れとともに、東京に木枯らし一号がふきました。「十方にこがらし女身錐揉(さけも)みに」(三橋鷹女)

▼街ゆく人々の装いも、しだいに秋から冬へ。なかにはすでに、コートをはおる勤め人らしい男性や、マフラーをまく若い女性も目につきます。木々が彩りを変え、やがて葉を散らして裸になってゆくにつれ、人の装いは厚みをまします

▼戦前の哲学者、戸坂潤は、服装や風俗にも関心をよせた人です。ある逸話を『思想と風俗』に記しています。知人の高校教師がアメリカヘ行き、教え子とならんで撮った写真を向こうの学生にみせたところ、聞かれたそうです。「あなたの学校は士官学校ですか」

▼生徒の制服姿が不思議だったらしい。戸坂はさらに、制服の魅力≠論じます。たとえば、国家のもとで仕事する人が身につけると、自分が権力者に仲間入りしたかのように皮膚で感じる魅力

▼戸坂が書いたのは、日中戦争の前です。当局は勤労者にも制服を着せることに熱心で、社会を軍隊調に組織しようとしていました。やがて戸坂自身、その犠牲者となります。治安維持法で捕らえられた彼は、終戦間近の一九四五年八月九日、獄死しました

▼「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣」という自衛隊の空幕長は、どんな気持ちで制服を着ているのでしょう。六十二年前のきょう公布された新憲法は、侵略にあけくれ、戸坂らの命を奪った軍国日本を否定しました。たんに衣替えでなく、生まれ変わりを願って。
(「赤旗」20081103)

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衣裳と文化

 和服と洋服について──ある地方大新聞の社長は自分の工夫をした和洋折衷の服装を宣伝している。大体に於いてツツッボにモンペという姿であるが、私が貰った写真で判断する限り、決して見っともいいものではないのである。私がもしあの服装でもしなければならぬとすれば、私の思想は一遍に涸渇し、私の舌は忽ち硬ばって了うだろうと思われる。単に異様だというだけではない。異様なだけなら自分自身が気に入っている限りは、却って気勢が揚がるるので、オスカー・ワイルド式なやり方もあるし、ラッパ・ズボンをはいたモダーン娘のような場合もある。困るのは何としても自分自身に審美的に満足を与えないということであり、自分自身に風俗上の不安を与えるということなのである。

 和服を人工的に洋服と折衷しようとする企ては、右の例に限らず、殆んど凡て失敗のようだ。最近ではもう改良服の運動の類は屏息して了った。婦人の和服の揚合特にそうだ。従来の和服か、それとも洋服かということになっている。而も不思議なことには、或る社会層の或るジェネレーションの婦人の服装を見ると、和服と洋服の区別こそあれ、それによって得られる風俗上の効果はその本質を殆んど同じくしているのである。インテリ・モダーン娘の場合には、和服を着ても洋服を着ても、殆んど変る処のない或る風俗上の常数が見出される。こうなると和服と洋服との区別は根本的には殆んど無意味になってしまうのだ。

 之は和服というものが元来の約束であった和装という条件から離れて、和服である点では少しも変らぬに拘らず、いつの間にか洋装の条件に嵌って了った場合であって、和服と洋服との結合はこうした意味な形で、現にごく審美的に成功しているわけだ。──だがこんな場合は、有閑層の而も若い女に限る特別の場合で、一般には和服と洋服とは恐らく永久に相交らない二つの文化を象徴している。

 男の場合、官吏やサラリーマンは殆んど例外なしに洋服で出勤する。洋服は都市を中心として男の普通の服装となっている。処が女は決してそうではない。モダーン・ガールの約半数と職業婦人の一部分が洋服であるにすぎない。ではなぜ男の洋服が成功して女の洋服はまだ充分に成功しないか。女は和服の色彩と図案との方を、洋服の形態よりも尊重するからだろうか。少なくとも洋服に就いてよりも和服に就いての方が、知識と見識に自信があるからだろうか。又結局に於て今日では和服の外出着の方が経済的だろうか。そのどれでもあるだろう。だが之は本当の原因ではない。女の洋服の流行が成功さえしていたら、今日ではもはや解決済みだろう間題ばかりだからだ。

 原因は労働様式にあるのである。男は外出して電車に乗り椅子に腰かけ又歩き回らねばならぬ。男の洋服がこのための労働服として採用されて今日のような普及を得ることになったのは、人の云う通りである。女の洋服はそうではない。少なくともモダーン・ガールの洋服は労働服としてではなくて、主に消費生活用の服として評価されねばならぬ。消費生活用でも近代消費生活は裾さばきの安全な洋服を要求するのは勿論だからだ。だから職業婦人の多くのもの(ユニフォームを着る場合やモダーン・ガールに編入されるべき場合を除いて)は、洋服ではなしに却って和服の上に各種のエプロンを纏う。女の場合には洋服はまだ労働服としての価値を充分認められない内に、消費生活服の意味が勝って来た。で勤倹(きんけん)な多くの職業婦人は洋服に遠慮しているのだろう。

 婦人の洋服が決定的に流行しないのは、婦人の労働の大部分の場合が家庭内労働であり、而もこの労働職場が畳式に出来ているので、和服は或る程度まで労働服の役割りを果すのである。少なくとも外の近代的施設の下で働かないので、洋服を労働服として要求しないのだ。勿論畳式家庭内労働でも立居振舞にとって和服は理想的なものではないから、却って家の内では安価な洋服をつける主婦は少なくないが、之は家庭外の社会に出ると忽ち通用しなくなる。

男は街頭を勤労者として歩くが、女が街頭を歩く時は主に消費者として歩くからである(男は家庭に這入ると消費者となるので、大抵和服に着かえる)。とに角男の背広と女の和服の外出着とを較べると、一方が近代的労働服で他方は近代的消費服である。女は社会に於ける労働服についてまだ一定の制度を持っていない、その服装に迷っている。が、消費服については、和服は和服、洋服は洋服で、決して迷ってはいない。そして家庭内労働服についても殆んど迷わない。男は之に反して社会労働服としては立派な制度を持っている。が、家庭内消費服となると大分乱れて来る。まして家庭内労働服に至っては形をなすまい。

 日本の女の服装は社会的労働服としてはまだ混沌として低迷期にあると云わねばならぬが、併し消費生活服として制定確立された洋服も、和服さえも、実は風俗として安定を保っているものではないことを注意したい。和服が近代消費生活に於ける活動の様式にとっても不合理であることは、誰しも眼にしている処だ。それは袖(そで)と腕、裾と脛(すね)に関して明らかなことだ。そこに見られる奥深い腕や隠見(いんけん=みえかくれすること)するは、実は、家から気まぐれになげ出され、家庭内労働から迷い出た処の、日本家庭主義の残滓の象徴である。之は社会的公服を欠いた日陰者のものだ。

他方洋服の方は勤労社会からはみ出した過剰物としての、奢侈品としての、女の社会的特徴をよく云い表わしているのである。──私は日本の街頭で出会う女の服装を見て、殆んど絶望に近い性的過剰か性的陰影かを限にするのだ。日本の風俗はまだ社会的労働の風俗から極端に遠いのである。日本婦人の和服の美を無責任にはめたり奨励したがったりする外国の馬鹿者を私はいつも苦々しく思うものだ。

 ユニフォームに就いて──以上は併し、日本の社会の或る層だけに就いての話しで、勿論民衆の全部に就いてではない。衣服の上から云うと、ユニフォーム層とも云うべきものが存在するのである。云うまでもなく、背広にしても婦人の和服にしても、原理は固定していて、誰でも似たりよったりの物を着ているから、結局ユニフォームみたいなものではあるが、併(しか)しこの種の服装は自然と一定の社会層なり社会階級なりを示しているにも拘らず、借用者をば一定の群にぞくするものとして特に他の群から区別するという意味は持っていない。背広を借ている以上職人でも丁稚でもないことは明らかだが、併し別に自分はサラリーマンであって官吏ではないとか、自分は会社員であって銀行員ではないとかいうことは示していない。そこがユニフォームと異る処だ。

 私の知っている或る高等学校の先生が、アメリカに遊学した際、洋行に先立って記念に生徒と一緒に撮った写真をアメリカの学生に見せた処、あなたの学校は士官学校ですか、と聞かれたそうである。学生がユニフォームを着るということは、アメリカあたりでは不思議なことであるらしい。「制服の処女」という映画の題は、題だけで或る陰惨な印象を与える筈なのだろうが、吾々日本人には一向ピンとは来ないし、映画の内の娘たちの制風姿を見ても、別段残酷な感じもしない。それ程、学生の制服は常識となっている。

 之は日本に於ける教育制度の単元的な画一という処から来るわけだが、それというのも近代日本に於ける被教育者の社会的位置が国家機構の上でチャンと決定されているからで、日本の資本主義の伸び伸びした発育期には、被教育者即ち学生生徒なるものは、ブルジョア社会の上級下級の公認の幹部候補生であったし、資本主義の停滞期以後は、彼等の大部分が生涯大してウダツの上らないような一つの社会層の予備軍になったわけで、いずれにしても社会的位置が支配者によって官僚的にチヤンと指定されたものなのである。ここに日本に於ける教育の普及(?)ということの根拠もあったわけだが、同時に之が学生に夫々のユニフォームを着せるという教育上のミリタリズムをも産んだわけだ。

 ユニフォームは事実上、家庭から云っても経済的だし、学生当人から云っても便利なことが多い。併しそれというのも却って、学生がユニフォームによって一人前の大人である社会人から区別されて、善かれ悪しかれ特別待遇を受けているからである。だから学生が将来の社会にとって必要らしく見えた時は、彼等はこのユニフォームで相当得をしたが、一旦学生というものが、就職難や思想運動関係で社会の荷厄介(にやっかい=邪魔や負担となってもてあますこと)となるや、彼等はこのユニフォームのおかげで社会から散々虐待される。その時は同時にユニフォームの道徳が学生に愈々絶対的な力で以て押しつけられる時期で、方々の学校に於ける断髪令の発布もこのユニフォーム主義の延長なのだ。

 頭髪を勝手な仕方で伸ばす(自由職業人は最も勝手な仕方で伸ばしている)ことは、勝手な服装をすると全く同じに、学生に不当な社会的自由を許すことを象徴する。この象徴を抑えることはやがて学生の本分を思い出す呪縛となるだろう、というわけだ。例は変だが、アメリカの囚人は仲々良い生活を送っているそうだが、ただ良くないのはかのグリグリ頭と妙な被服だということである。之によって囚人の社会的野心を抑えるに事足りるものらしい──つまりユニフォームは人間の階級性・社会秩序を最も露骨に意識的に云い表わすためのもので、学生のユニフォーム着用の事実から、日本に於ける学生層なるものの、階級的(?)意義を推論することも出来るのである。

 併し学生というものは職業の名ではない。それは社会秩序の一つの環は意味するが、生産勤労の様式を示す職業ではない。処が職業こそは社会秩序の最も公的な指徴だろう。職業とユニフォームとは、だから極めて密接な関係がある。丁稚番頭の角帯や大工棟梁の法被、芸者の左褄(ひだりつま)やヨイトマケの脚絆など、人工的ではなしにおのずから決った職業ユニフォームのようなものだ。併し学生の制服は兎に角上から制定されたものだ。職業ユニフォームで上から制定されたものは、第一に軍人であり、又之に準じる(職業ではないが)青年団・ボーイスカウト等であり、第二に警官・司法官・其の他の類であり、第三に或る種の工場労働者・運輸労働者・看護婦の類である。いずれも軍隊的組織を必要とする職業に特有であることを見ねばならぬ。

このミリタルなシステムは指揮する側からも指揮される側からも必要なのであって、事実軍隊的組織はこの両側面があって初めて組織となることが出来る。職業的ユニフォームは、ミリタリー・システムによって指揮したり指揮させたりする場合に、欠くことの出来ぬ服装である。──処が更に、職業でなくて単に臨時の共通な任務にすぎぬ場合でも、それがミリタリー・システムを必要とする場合にはユニフォーム制度となるのである。

 逆にユニフォームが強調される処には必ず何等かのミリタリー・システムが社会的に要求されているのであって、世界各国のファシスト党員のユニフォームは、近代風俗上特筆大書すべき現象と云わねばならぬ。黒・褐色・グリーン・其の他の色彩の統一は、看護婦の白衣などとは異って、政治的意味を有っているわけだがこの統一はファシストの軍隊的組織の上から自然と要求された処のものだ。フランスの人民戦線政府はだからファシストの軍事組織を解体する意味で、ユニフォームの着用を禁止しようと企てた。

 日本の警察当局は、最近特に勤労大衆にユニフォームを着せることに熱心であるようだ。職工及び女工の制服(「労働服」)の普及奨励から始めて、円タクの運転手から女給、ダンサーに至るまで、制服を着せようという案さえあったと記憶する。云うまでもなく之は、彼等に軍事的な力を与えようというためではなくて、彼等を軍隊的に指揮し得るためなのだが。

 だがユニフォームの特有な魅力というものを見落すと、ユニフォームの本当の社会的役割を理解するに困難だろう。ユニフォームは誰にしろ夫を着る人間を、社会の一定秩序の内のレッキとした位置に据えるように感じさせるものだ。之はルンペンから区別して自分をシャンとさせるにはこの上ない魔法の衣だ。ユニフォーム・システムは而も、そのハイヤアルキーにも拘らず、他面に於て平等主義を有っている。馬鹿でも利巧でも二等兵なら二等兵だ。その間に人間的な比較などの必要もないから、そういう心配もない。上官は部下よりも絶対無条件に上位にあるのだから之を比較して見る必要も配慮もいらない。こうしてユニフォームはその着用者に分に安んじることと、自分自身を階級に応じて尊敬することとを、齎(もたら)す。彼と俺と芸術家としてどっちが優れているだろうかなどと云って、悲観したり空元気を出したりする必要は毛頭ないわけだ。

 特にユニフォームが国家的支持を受けた職業や任務を云い表わす時、その魅力は、小市民以下の凡庸な層にとっては絶大である。彼等は一挙にして政治的権力をその皮膚に感じる。「マンハイム教授」という劇で見ると、今まで博士の助手であった男が、急にナチの制服を着用に及んで現われる。見ていると何かの英雄とも考えられて来る。これがユニフォームの最後の魅力である。ユニフォームのこの政治的魅力は今日各国で、多数の小市民青年達を、ファシスト団へと吸収している動力の一つだとさえ云っていいかも知れない。制服は制服が象徴する階級の利害を、それまで何でもなかった一介の着用者の皮膚に、ゾクゾクと感じさせるものだ。彼等は興奮する。彼等は凡ゆることをなし能う。彼等はデマゴギーの溜池となる。

 だがユニフォームには又別に一つの秘密があることを忘れてはならぬ。余りに見すぼらしいユニフォームは着用者の道徳的自信を損う。他の民衆からの畏敬を損ずることも勿論だ。だから例えば警察官の修養向上のためにも民衆支配力の増大のためにも、警官の制服を或る程度まで立派にすることが必要だ(最近日本ではそうなった)。処がユニフォームは又あまり立派過ぎてはいけないのである。飛び切りに立派では之を支配する人間のユニフォームの方が成立しなくなるだろうし、又あまり分に過ぎた制服は彼等の社会的野心を不当に煽動するだろう。大衆的ユニフォームは、或る程度に醜く造られねばならぬ。丁度資本主義社会に於ては適度の貧困が常に必要なように。

 礼服と裸体に就いて──「裸体文化」(ナックテ・クルトゥア)には原始還元主義が勝っているように思う。現代文明の弊は、裸の代りに着物を着ているということにはなくて、その着物が身体にとって不衛生な性質を有っているということだ。身体にとって不合理な衣服が身体の正常な発育を妨げている。大体同じであるだろう身体に、いくつもの階級的に異った着物を着けなければならぬというのが、現代文明の衣裳のよくない処だ。衣裳が悪いのではなくて区別を強制された衣裳が悪いのである。

──而も同じ同一人が、時々異った衣裳をつけることを強制されることもあるのだ。礼服はその著しい場合だろう。冠婚葬祭から始めて、会談食事に至るまで礼装が要る。之がイギリス・ゼントルマン風の偽善というものだ。勿論儀式は人間を音無しくする。それは社会秩序の安寧に対する感謝の黙祷なのだが、処が現代はこの儀式が段々取り行ない難くなる。ドイツの小市民インテリゲンチャの決闘には依然として儀式があるが。──

 礼服が段々役に立たなくなる。又事実吾々は礼服を造っておくことは経済的に仲々出来にくいのである。──かくて間題は衣服の階級性に帰着するのである。
(「戸坂潤集」近代日本思想体系28 筑摩書房 p376-361)

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◎「六十二年前のきょう公布された新憲法は、侵略にあけくれ、戸坂らの命を奪った軍国日本を否定……たんに衣替えでなく、生まれ変わりを願って」と。