学習通信081117
◎感覚能力と思考力を総動員して……

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益川さんの嘆き

 ノーベル賞受賞の弁で益川敏英さんが「教育汚染」を嘆いた。大学人試は採点が早く出来るように選択式で、教師は「知らない問題はパスしろ」と指導し、考えない人を育てている、と。

 約三〇年前、日本はコンピューター採点の共通一次(現、センター試験)を導人した。受験者は膨大な問題を器用にこなさなければならぬ。分からなくとも正答をあてる術もあるという。これに対してヨーロッパは記述式である。たとえば「ドストエフスキーの人間観について述べよ」で二時間。採点者は知っている。手書きの答案を読むには時間はかかるが、それ自体が何ものかをうむことを。その労をヨーロッパは大切にし、日本は節約の対象とした。

 さて、節約されたものは実は、問と答の問にある、迷ったり行き詰まったりする時間だ。それこそが人間の認識活動の特質であるにもかかわらずである。

 問題の根はふかい。少なくとも明治以来、わが国の教育制度は人材登用の機構そのものであり、決められた尺度への到達レベルに応じて人間を社会の各部署にふりわけてきた。このシステムは点数至上で、人間的な本質を育てることに配慮しない。

 この秋、日本の教育に学べと全国テストを導入したイギリスは、現場のブーイングの中で中止を決断した。

 考える人を育てる。この当たり前のことを手にするために、私たちのなすべきことは少なくない。(渓)
(「経済」2008年12月号 新日本出版社 p5)

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記者の目
2年目を終えた全国学力テスト=加藤隆寛

 全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を巡り、大阪府や秋田、鳥取県などで市町村別や学校別の成績を一律公表しようとする動きが出てきた。地域や学校間の格差を一目で分かるようにし、危機感や競争心をあおることで学力を底上げしようという思惑が見てとれる。しかし、こうした流れが拡大すれば、結果至上主義を助長して教育をゆがめるとともに、児童・生徒の学習意欲を減退させかねない。テスト導入から2年。学力の課題を浮き彫りにした役目は、もう果たした。弊害の多い現行テストは廃止すべきだ。

 文部科学省の学力テスト実施要領は、市町村や学校別成績の一律公表を認めていない。理由は「過度の競争や序列化につながる」から。しかし一方で、市町村教委や学校が自ら公表することは認めている。矛盾する二つの考えを並立させている文科省を取材していると「本気で競争を防ごうとはしていないのではないか」との印象を受ける。

 テストとはそもそも競争原理に根差した存在だ。昨年、43年ぶりに全員参加方式のテストが復活した背景にあったのは、学力低下への懸念。「ゆとり教育」を敵視し「競争原理を導入して、過度なゆとりと『押しつけを排除して好きなことをすればいい』という利己主義を駆逐せよ」と主張する声が、与党議員らを中心に広がった。04年秋に中山成彬(なりあき)文科相(当時)がテスト導入を表明した際には「もう少し競い合う心が必要」と発言している。

 一方で、義務教育費国庫負担金の削減が論じられた時期でもあった。与党議員の思い描く「教育の引き締め」と、予算確保の裏付けとなる教育現場への関与強化という文科省の思惑が一致。その施策の象徴が新たな学力テストだった。

 1961年に始まった最初の学力テストは「教育内容の国家統制につながる」と日教組の激しい反発を招いた。テストの予行演習をしたり成績の悪い子供を欠席させる学校も現れるなど競争が過熱。弊害が目立ったため文部省(当時)は64年を最後に全員参加方式を取りやめた。その苦い記憶があるからこそ、文科省は復活に当たって「競争をあおる目的ではない」とのメッセージを強調する必要性に迫られたのだ。

 だが、「ゆとり敵視」の導入経緯を考えれば、まるでアクセルとブレーキを同時に踏むようなものだ。文科省自身が自己矛盾に陥っているからこそ、自治体の動きに毅然(きぜん)とした対応ができない。戸惑うのは現場の教師や子供たちだ。

 もし、私が小中学生のころにこのテストを受けたらどう考えただろうか。尻をたたかれている感覚に嫌気が差したのではないかと思う。隣の学級や学校との競争に躍起になっている教師の姿を見たら、なおのこと反発しただろう。

 徹底した競争主義でエリートを養成し、国家を担う人材を確保しようというビジョンがあるのなら、それを前面に出せばいい。しかし、日本が目指すのはそうした社会ではないはずだ。「成績下位層を減らす」という底上げの意図があるのなら、このテストはむしろ逆効果になる。国語や算数・数学という限定的な「物差し」で測られ、そこで自己肯定できなかった子供たちの他の才能の芽を摘むことになりかねないからだ。

 ノーベル物理学賞の受賞が決まった益川敏英氏は、塩谷(しおのや)立(りゅう)文科相との面談で「今の教育は考えない人間を作っている。親も教育熱心というより教育結果熱心だ」と、痛烈なメッセージを伝えた。一つのことをとことん考え抜き、究極の高みに到達した研究者の言葉だけに説得力がある。

 テスト実施の効果もあった。従来のように知識の習得や丸暗記、情報処理速度ばかり求められる問題ではなく、活用力や読解力を要する問題を多用し「そうした学力が求められている」というメッセージを全国の教育現場に伝えた点だ。日本が近年順位を落とした国際的な学力調査の出題傾向を模倣した面があるとはいえ、その意味は大きい。

 しかし、その目的ももう果たした。初年度と2年目で学力の課題に大差はなく都道府県別の成績もほぼ固定化していた。現行テストは廃止して、今後は定期的に抽出調査をやればいい。浮いた費用を教師増員や効果的な学習法の開発などに回した方が得策だろう。

 競争させたいという「本音」を隠しながらのテスト継続は不誠実だし、子供たちも現場の教師も信じてついていくことはできない。厳しい財政事情で国の教育予算の伸びも望めない中、次代を担う人材の育成はますます重要な課題だ。方針を改めるなら、できるだけ早いほうがいい。(東京社会部)
(「毎日」20081112)

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真理の客観性

 このように考えてくると私たちは自分たち人間の認識能力をもう少し信頼してもいいのではないでしょうか。

 もちろん人間の認識能力を過信することは間違いのもとです。つねに現在の知識は不完全であることを自覚していなくてはならないでしょう。そうでないと、現在の知識を絶対に正しいなどと思いこむとそれはひとり合点の独断論(教条主義)になりかねません。この点は十分に警戒しつつ、しかし人間の認識能力を信頼していくべきではないでしょうか。

 そこでいま述べた「独断論」におちいるのは警戒しつつ、「人間の認識能力を信頼する」というのはどういうことか具体的に考えてみましょう。

 第一に、私たちはものごとを認識(研究)するとき、現在もっている知識を固定化せず、ものごとをありのままに見る(感覚する)必要があります。このありのままに見るということは、いうのは易しいが実際にはなかなか困難なことですが、少なくとも、ありのままに見る努力をする必要があります。

 そのためには第二に、あくまで事実や現実(客観的実在)を尊重し、この事実や現実の示すデータに従って私たちの知識を補い豊かにすることが必要です。この努力によって私たちの知識はさらに正確になり、私たちは真理により接近することになります。このことは一度にあるいはたやすくできることではありません。先にも述べたように、感覚能力と思考力とを総動員して、うまずたゆまず努力する必要があるのはいうまでもありません。

 このような意味で努力するならば、私たち人間は一歩一歩と事実と現実の真の姿に接近していくことができるはずです。人間の認識史(科学史)の発展の経過がそのことを示してくれています。原始時代に不完全で表面的な知識しかもっていなかった人類は、長年かかって今日のような科学的知識や文明に到達しました。今日の到達点はまだまだ不十分で、科学や技術の歪みも重大ですが、今後とも人類はそのような不完全さを乗り越えて進んでいくでしょう。また私たち自身がそのために少しでも力を合わせることも必要でしょう。

 このようにみてくると、先にみた不可知論者や論理実証主義者のように、人間の感覚は不完全だから真理は認識できないとか、真理といえるようなものは論理法則しかないというように悲観的になることは何もないといえると思います。私たちは、一度に完全に真理を認識することはできないけれども、事実とか現実とかこれまでいってきた客観的実在の世界があるわけですから、これをしっかりと標的にして感覚能力と思考力を総動員して努力するならば、客観的真理に到達できるといえます。
(鰺坂真「哲学入門」学習の友社 p68-70)

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◎「問と答の問にある、迷ったり行き詰まったりする時間……それこそが人間の認識活動の特質である」と。