学習通信081120
◎理論は、人間の実践から……

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理論はどうして生まれてきたか

 さて、いままでのところで、理論とは何かということについて、かなりわかっていただけたと思いますが、こんどはさらにもう一歩すすめて、理論の発生と発展について考えてみましょう。

 「数十万年まえに、地質学者が第三紀と呼んでいる地質時代のなかの、まだはっきり確定できない時期に、おそらくはその終わりごろに、熱帯のどこかに──たぶんいまはインド洋の底に沈んでしまっている大陸のうえに──とくべつ高度に進化した類人猿の一種が住んでいた。ダーウィンがわれわれのために、われわれのこの祖先についておおよそのところを記述してくれている。

 彼らは全身毛でおおわれ、ひげをはやし、とがった耳をもち、樹上に群棲していた」──これは、エンゲルスの有名な『猿が人間になるについての労働の役割』という論文の、はじめのほうにある一節です。たいへんよく知られていますから、読んだ人も多いことかと思いますが、たとえ、エンゲルスのこの論文を読んだことがなくても、人間の祖先は猿であった、ということは知っている人が多いと思います。このことは、今日ではほとんど疑いをさしはさむ余地のないほど、明白な、科学的常識となっています。

 いったい、ここでいわれているような、類人猿を人間に変えた原動力は、何だったというのでしょうか? エンゲルスは、それは労働だ、といっています。そのあたりのくわしい事情については、ここではあまり重要ではありませんから、エンゲルスの古典から直接学んでいただくことにして、かんたんに三つのことだけを述べておきます。それは、猿の人間への第一歩は、直立歩行にあったということ、その直立歩行の原因は、樹上生活のなかで、前肢と後肢との役割が変化し、しだいに前肢が手となり、後肢が足として発達していったということ、そして直立歩行の結果として、大きな脳髄をささえることができるようになったということの三つです。そこで、労働と人間の知識との関係をみていきましょう。

 まず労働とは、人間が自然にはたらきかけて、自然をつくりかえ、自分に役立つものをつくりだすための、目的にかなった行動のことです。

 ところが、自然をつくりかえるためには、自然にたいする知識が必要です。一般に、あらゆる動物や植物が、自分のおかれている環境にたいして、さまざまな反応を示すことは、よく知られています。ある種の花は、夜になるとしぼみ、朝日がのぼるとひらきます。また今日、生存しているチンパンジーやオランウータンなどの高等動物は、自分たちをとりまいている状況の変化に、おどろくほど敏感に反応します。

しかし、もし生物が、そういう能力、つまり自分のおかれている条件をとらえる能力を失ったら、彼らをまっているのは死滅だけです。そして生物学は、このように環境に自身をあわせることができなかったために、おびただしい生物が、この地上から姿を消したことを証明しています。いってみれば、自然のさまざまな変化にたいして、いろいろな生物がそれなりの反応を示すことには生活がかかっている≠けです。

 この点では、人間もけっして例外ではありません。けれども、人間とそれ以外の生物とでは、それが、たとえ動物のなかでひじょうに発達した頭脳をもつ類人猿のようなものであっても、つぎの点で決定的にちがっています。

 人間以外の動物は、ほとんどの場合、ただ受身で自分の環境をとらえるだけですが、人間の場合には、自然を受身でとらえるだけでなく、自然にはたらきかけて、能動的、積極的に自分自身にとって役立つものをつくりだすことができます。こういうと、つぎのように反論するかもしれません。「そりゃおかしい、猿だって、木の実をとって食べるじゃないか、自然にはたらきかけていると思うがなあ──」と。

なるほど、そのとおり、猿は木の実をとって食べます。しかし、猿は木の実をつくること、つまり果実を栽培したことがあるでしょうか? 猿がねじりハチマキをして畑をたがやしたら、私たちはそれを、世界中でもっともめずらしいものとして、ふしぎそうにながめるでしょう。なぜなら、そんなことはかつて見たことも聞いたこともないのですから──。

 それだけではありません。人間は、その生産活動を行なうために、道具や機械などの用具をつくりだしました。それがどんなに初歩的なものであったとしても、猿が労働用具をつくりだした、という事実もありません。

 以上のような事実のうえに立って、私たちは、猿と人間、あらゆる動物と人間との根本的な区別は、労働をするかしないかにある、と考えているのです。ところで、労働をしない猿であっても、その長いあいだの経験によって自分自身の環境をするどくとらえることができます。ましてや、人間のように、その環境を目的意識的につくりかえようというのであれば、なおさら自然を深くとらえることが必要です。

いったい人間は、どうしてそのような能力を身につけたのでしょうか? まずだれでも思い浮かべるのは、人間の自然へのはたらきかけのくりかえし、経験の蓄積が自然にたいしての人間の知識をつくりだした、ということです。そしてそれは、当然の結果として、人間の脳髄を発達させていきました。すでに述べたように、人間は発達した脳髄をささえることが、肉体的な条件のうえからも可能になっていたのです。

 しかしながら、労働と人間の知識の発達をみる場合、自然と人間との関係からだけみるのでは正しくありません。もうひとつの面、人間と人間との関係をみることがどうしても必要です。

第一に、のちに人間になった類人猿は、群居生活をしていました。つまり人間は、人間になるまえから社会的≠セったといえるわけです。

第二に、労働の出現は、その原始的な人間から群居生活をとりあげたでしょうか? いいえ、まったくその逆です。労働が協同作業として行なわれることが、自分たちにとってどれほど有益であるかは、彼らも経験から知っていたのです。ここに、労働=生産活動を中心とする人間と人間との関係、生産関係が出現し、人間社会が生まれたのです。

 ところで、このような協同の生活のためには、おたがいの意思を伝えあう伝達手段がどうしても必要です。もともとあらゆる動物は、その環境によって程度はちがっても、おたがいの意思を伝えあう伝達手段をもっています。ですから、人間の祖先も、最初はきっと「ワー」とか「ウー」とか「キャッキャッ」とかいうような伝達手段をもっていたことでしょう。けれども人間の労働は、さっきふれたように、自然についての人間の知識の枠を、どんどんひろげていきますから『ワー」や「ウー」だけではとても足りなくなってきます。

 労働が協同の作業としてやれること、そしてそれが、しだいに自然にたいする人間の知識を増しながら発達すること、そういう条件のもとで、言語が発達しました。そして言語の発生と発達は、三つのものに大きな影響をあたえました。それは、生産力と人間の脳髄と人間関係とです。まず生産力はいちじるしく高まりました。自然にたいするそれまでのバラバラな知識が、言語の助けによって、しだいに整理されるようになりました。そしてそれは、教えあい、学びあうことができるようになりました。こうして人間は、次つぎと自分をとりまく自然を正しくつかめるようになったのです。

 一般的ないい方をすれば、まずあるものにたいするさまざまな感覚的な認識、赤いとか、甘いとか、円いとか、ついでそれを集めて特徴点だけを抜きだして(抽象して)ひとまとめにすることによって概念、たとえば、「リンゴ」とか「ミカン」とか「自然」とか、そしてさらに概念を使って考えることによって、さまざまな事物と事物のあいだのいっそう深い関係(「法則」)というように整理されていくわけです。

 とくに言語が人間の抽象力を大きく発達させたことは重要です。これによって、人間の、見通しをもった(目的意識的)活動を、いっきょに数段も前進させました。もちろんこのためには、きわめて長期にわたる人類史が必要でした。リンゴという概念や、ミカンという概念を人間が得るために、数十万年、あるいはもっと長い時間が必要だったこと、そしてそれは、はげしい自然の脅威にさらされながら、一歩一歩と人間がかちとった知識だったということ、このことを私たちが、ときどきは思い返してみるのも、けっして無意味なことではないと思います。

 つぎに、言語の発生は、人間の知識をたくわえる脳髄の発展をますます強くうながしました。

 最後に言語の発生と発展は、人びとの生産活動における協力をいっそう堅いものにし、おたがいの意思の疎通を、ますます緊密にしていきました。そしてこれらのことは、すべて生産力の発展をうながし、言語の発展に反作用していくのです。

@猿が人間になったのは、労働の結果であること。

A労働は、人間の脳髄をいちじるしく発達させ、生産関係にもとづく人間社会を生みだし、言語を生みだしたこと。

B人間は、労働をつうじて自然にたいするさまざまな知識をえていったが、言語の発生とその発展は、人間の知識を総合整理して、より深い認識(事物にたいするまとまった知識)に引き上げていくのに重大な影響をおよぼしたこと。

 右のようなやり方で、、人間の認識が生まれてきたのですが、理論とは、このようにきわめて長い間かかって、人間が獲得してきた、いろいろな事物や現象にたいする認識を、さらに比較したり、関連させてみたり、分析したり、総合したりすることによって、いっそう体系的に整理したものです。ここには理論とは何か、という答えのもっとも中心的なことがらが述べられています。つまり理論というのは、人間の実践の総括のなかから生まれてきたのだということと、ほんらい実践に役立つものこそが理論であるということ、さらに、理論を発展させる力は何よりも人間の実践であるということです。

 さて、いままでは人間の実践を自然との関係からみてきましたので、人間の認識の発展を語る場合、自然にたいするものを例としてあげてきました。けれども人間の実践は、自然を変革することだけではありません。まえにもすこしふれましたが、もともと人間は社会的な動物でした。しかし、この人間社会は他の動物の「社会」とはちがって、生産活動にその基礎をおいていましたから、生産活動(生産力)の発展とともに、当然発展していきます。

そこでその社会を、どう運営していくかということが、問題にならないわけにはいかなくなってきます。その場合、とくに問題となったのは、生産活動において、どのような人間関係をむすぶのかということ、つまり、より実りのある生産活動を行なうために、おたがいの任務の分担をどうしたらよいのかということ、生産活動の結果えた収獲物を、どう分配したらよいのかということです。

 この二つの問題は、生産力が低いために、やっと食べていくしか収獲物を手に入れることができなかった当時の人びとにとっては、どちらも直接生命にかかおる問題でした。そんなわけで、人間関係を、その自然の条件に合わせたり、部族の人数などを考えに入れながら、よりよいものにかえる努力がねばりづよく行なわれました。なにしろ、ひとたび自然の異変──今日から見れば、まったくたいしたことがないようなものであっても──でも起こるならば、たちまち飢えてしまうほどの生産力しかもたなかったのですから、その努力も実に真剣に行なわれたのです。

 こうして、生産にもとづく人間関係についての、人間社会をよりよく変革していく実践のなかから、自分たち自身の社会にたいする認識が生まれ、深まっていったのです。これもまた自然にたいする認識と同じように、やがて理論として体系づけられていきました。

 理論は、人間の実践から、人間の実践のために生まれたので、その受けもつ分野によって大きく二つに分けることができます。それは、自然を変革する人間の活動のための自然科学の理論と、人間関係をよりよくすることをめざす社会変革のための、社会科学の理論の二つです。そして哲学は、自然科学と社会科学の成果をとりいれて、自然と人間社会全体をふくむ世界とその発展、変化にたいする見方と考え方≠理論づけているのです。
(畑田重夫著「現代人の学習法」学習の友社 p30-37)

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 科学には、永遠に変らない理論はありません。

理論によって予期せられた事実のどれかが実験で否定されるのはいつも見られることです。

どの理論も最初にはそれが漸次に発展して凱歌を挙げますが、その後では急激な没落を経験するかも知れないのです。

熱の物質説が興ってまたそれが亡びたのは、既にここで述べましたが、これも有りがちな例の一つであります。

もっと深遠でかつ大切なものを後に述べるでしょう。

科学の上で大きな進歩の見られるのは、殆んどいつも理論に対していろいろな困難が起り、危機に出遇った際にこれを脱却しようとする努力を通じてなされるのであります。

私たちは、古い観念や、古い理論を検討してゆかなくてはなりません。

過去にはそれでよかったものの、同時にその検討によって新しいものの必要を理解し、かつ前のものの成立する限度を明らかに知ることが大切です。

 本書の初めに、私たちは研究者の役目を探偵の役目に比べました。

探偵は必要な事実を集めた後で、純粋な思考によって正しい解決を見つけ出すのです。しかし一つの大切な点で、この比較はよほど皮相的だと見られなくてはなりません。実生活でも探偵小説でも、犯罪が前提となっています。探偵は書類や、指紋や、弾丸や、銃などを調べる必要がありますが、少なくとも殺人が行なわれた事だけは知っております。

科学者では事情が異なっています。昔の人々は電気について何も知らないでも、十分幸福に生活していたのですから、電気などというものは全く知らない人があると考えても差支えはありますまい。この人が金属や、金箔や、瓶、固いゴムの棒、フランネルなど、つまり私たちが三つの実験を行なうために必要としたすべての材料を手にしたとします。彼が大いに教養のある人であったとしても、多分彼は瓶のなかに酒をつぎ、フランネルでふき掃除をなし、私たちの前に述べたような事柄をしようという考えには決して一度もならなかったかも知れません。

探偵にとっては、犯罪は既知の事実なのですから、誰がコックロビンを殺したかということが問題となるのです。ところが科学者は研究を行なうと共に、少なくとも一部分は彼自身で犯罪にかかり合わなくてはならないのです。その上に科学者の仕事はあたかもその一つの場合だけを説明したのでは足りないので、既に起った現象や、なお起るかも知れない現象をまでもすべて説明しなければならないのです。
(アインシュタイン/インフエルト著「物理学はいかに創られたか 上」岩波新書 p86-87)

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◎「科学の上で大きな進歩の見られるのは、殆んどいつも理論に対していろいろな困難が起り、危機に出遇った際にこれを脱却しようとする努力を通じてなされる」と。