学習通信081126
◎レッド・パージ……

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吉岡吉典
レッド・パージと現代
日弁連の「名誉回復」勧告に寄せて

アメリカいいなりの
政治脱却のためにも

 六十年近く前のレッド・パージ問題が現代の問題としてうかびあがってきました。レッド・パージ犠牲者の救済申し立てをうけた日本弁護士連合会(以下日弁連)がさる十月二十四日、レッド・パージを憲法違反の人権蹂躙事件として、被害者の名誉回復と補償など救済措置をとるよう、政府と関係企業に勧告したからです。私も政府が日弁連の勧告を、速やかに実行することを強く求めます。

労働組合の弱体化策す

 レッド・パージは中国革命の前進と冷戦激化に対抗して、日本を「極東における反共の砦」にするため日米安保体制につながる日本の反動体制の強化に乗りだしたアメリカが、その最大の障害である日本共産党の非合法化と、たたかう労働組合の弱体化を策して、マッカーサーの指令によって強行され、四万人と推定される労働者が共産党員というだけの理由で解雇されました。GHQ(連合国軍総司令部)は、政府、企業に指令するだけでなく、司法にも介入しました。

ホイットニー民生局長が当時の田中耕太郎最高裁長官を呼びつけ、口頭で「裁判所は経営者による共産主義者の指名解雇に疑義をはさんではならない」「裁判所はその事件に関与してはならない」と指示しました。占領研究者竹前栄治氏が、元GHQ関係者の資料に基づいて明らかにしています。田中長官は、このGHQの口頭指示を□頭で、全国の下級裁判所に徹底させました(『戦後労働改革』東大出版会)。

占領軍指示絶対化して

 田中長官は記者会見でレッド・パージは、「マルクス主義が日本の憲法と相容れないということであ」る、日本に「裁判権があるかないかの問題もあ」るなどと語っています。(「朝日」一九五〇・七・三一)。最高裁長官がこういう調子ですから、まともな裁判などおこなわれません。裁判はおこなわれましたが、最高裁が、占領軍の指示に抵触する、「日本の法令はその適用を排除される」(共同通信の判決)などと、占領軍の指示を日本の法令の上において絶対化する判決を下し、内容的には、ホイットニーの指示にしたがったのです。レッド・パージは最も露骨な、アメリカいいなり政治のあらわれでした。

 専門家によれば、法律に基づかないこんな裁判は他にないだろうということです。司法権も放棄した裁判でレッド・パージは正当化されて、今日にいたりました。こうして、法治国日本国民でありながら、レッド・パージ被害者は、日本の法の保護を受けることなく、今日にいたったのです。「法治国としてこれでいいのか」との指摘が生まれていました。

 日弁連の「調査報告書」は基本的人権についてその歴史にまで立ち入って検討を加え、GHQの指示にも分析を加え、レッド・パージは、「思想・良心の自由、法の下の平等を侵害する指示は法的効力を有しない」と結論づけると共に、GHQ権力がなくなった講和後、現在にいたるまで「何らの人権回復措置を行っていないことの責任は重い」としていることが特に重視されます。日弁連の「勧告」が実行されることは、当事者の願いが実現するだけでなく、アメリカいいなり政治からの脱却にもつながると思います。

今も続く職場の憲法違反なくすためにも

 レッド・パージは二つの大きな目的を持っていました。一つは、日本共産党を非合法化し、壊滅すること、もう一つの目的は、戦闘的組合幹部のパージによって、反共労働組合幹部に日本の労働運動と労働組合の指導権を握らせ、国際自由労連につながる、たたかわない反共・労使協調の労働組合への、権力の手による再編です。

実行された「反共計画」

 戦後、急速に成長、前進し、階級的産別組合として発展する日本の労働運動を抑えたい占領軍は、2・1スト禁止後、労働運動敵視を強めてきましたが、対日政策の転換を機に資本家団体や反共労働組合幹部も総動員して共産党員と戦闘的労働者を、根こそぎ職場から追い出したのです。これを労働運動の指導権を手にするチャンスとする労働組合の反共右派幹部が、これに全面的に協力したことは、よく知られていることです。

 竹前栄治氏は前掲著書で、GHQ労働課がまとめた「日本労働運動における反共計画」という文書を資料として紹介しています。計画の立案には、日本政府職員、反共的労組役員の協力を得て、GHQ労働課がまとめた労働組合の総合的再編計画です。

 それは、まず「主要な戦略的局面」、ついで「戦略を遂行するに当たっての戦術」としてきわめて具体的な計画が書き並べられています。戦術の冒頭に、総評準備会を成功させ、正式に結成して、国際自由労連に加盟させるとしています。反共主義者が、共産主義者を追い払い、多くの組合を支配できるように労組法を改正することなど新制度をもうけることまで計画していました。レッド・パージは、GHQ、日本政府、反共労組の代表のこうした協議によって計画が具体化され、実行されたのです。

思想差別は克服されず

 レッド・パージを正当化するため、これが憲法・労働法規に適法であるとする見解を大橋法務総裁が国会答弁で示したことも重大でした。

 レッド・パージは戦後労働運動にとって特別に重要な意味をもちました。労働運動は紆余曲折をへて今日に至りましたが、いま、ワーキングプア、派遣問題など労働者が極めて厳しい状態に置かれながら、これと有効にたたかい得ない実態の背景には、こうした歴史的背景があります。たたかう労働運動を強めるためにもレッド・パージの教訓を生かす必要があります。

 それにしても、いまなぜレッド・パージか。日弁連の「調査報告書」は、「本件は今から60年近くも前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が克服されたわけではない。現在も形を変え類似の被害は繰り返されている。職場において思想・良心の自由、法の下の平等などが保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題である。現在及び将来にわたり、職場において思想差別が繰り返されないようにするためにも、過去の人権侵害に対してその侵害事実と責任を認め、救済をしていくことは極めて重要である」としています。四年余にわたる検討の結論だけに中身は重要です。
(よしおか・よしのり 日本共産党元参院議員)
(「赤旗」20081111-12)

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十月五日  光雄から和子ヘ

 予期はしていたものの、また覚悟しないわけにはいかなかったが、あまりにも早くやってきた。レッド・パージです。

 今日、本局に出頭命令で辞職勧告なるものを受けました。依願退職か首切りか、二つに一つの選択だけが僕にのこされた自由だった。理由は「学生時代の活動」ということのみです。

 今後のことについては何にも含まらない。両親のことを思うと断腸の痛苦です。オメオメと家には帰れないし、立往生の感あり。職場のみなさんはみんな僕を擁護していてくれていますが、なにしろ労働組合は反共「民同」支配下にあり、残念ながら見通しは絶望的です。

 だけど僕はけっして権力に膝を屈して生をむさぼるようなことはしないつもりです。ともかく生きねばならないのです。又便りします。

十月八日  和子から光雄ヘ

 今日はこの学校の運動会なので、外のふくらんだ空気と私の感情とがブツカリあって、何ともいえぬほどのイライラです。ペンをとっても一向文字になろうとしないで、長いあいだボンヤリしておりました。

 第一に、レッド・パージの理由が「学生時代の活動」のみであるなら、おそらく卑しい方法かもしれないけど、現在のあなたの発言のし方では又職場の人たちの擁護運動でなんとかなるのではないのでしょうか? という希望的な観測……。あなたにはとっても苦しいことでしょうが、もっとオンビンな行き方をえらぶわけにはいかないかしら?

 第二にそれがほんとうにのがれ得ない事実であった場合の今後の方針について……。

これを機として職業革命家になりきること、踏み切りに相当の勇気のいることと思いますが、私はたえることができます。私が下宿したらすぐにでも私の所に来て下されば、私のサラリーだけでも二人くらい何とかやってゆけます。だけど、思わしくないときには、何もかも面白くないもので、十月に入ったら、すぐ下宿するつもりでしたのに、ちょっとした手ちがいから、もう少し先に延びることになりました。私が下宿すれば何とかこの場をきりぬけられると思いますので、又新しい方法で下宿を探します。十五日以後になっても出来ないようだったら、体の調子が悪いとか、何とかの理由をつけて、すこしのあいだ郷里にでも帰って下されば、十一月までには何としても探します。

またどうしても郷里に帰ることができなければ、現在のところで「活動」をつづけているわけにはいかないでしょうか。下関に来られたら、今年いっぱいでもかかってさがせばどこかに就職もさがせると思います。すぐに履歴書、三、四通送って下さい。私もぜんぜんあてがあるわけではないけど、どこかあたってみようと思いますので。

 まだ気分が落ちつかないので、心だけあせって思うことの半分もいえません。とりあえずいまのところはこれだけにします。

 夜になりました。又つづきを書くことにします。運動会のあとしまつも終わってさわがしかった一日もすんで静かな夜がやってきました。一日中、まだ半信半疑であれこれ考えて、なんだか三日も四日も徹夜をつづけた後のようにボーとしてしまいました。こんなときに私までメランコリックになってはいけない、と自分を鞭うちながらどうかするとわけもなく涙がでてしようがありません。信じ難いことだけど、まだまだほんとなのかしら? 夢でもみているような気がするけれど?

 私たちの道にはその第一歩から大きな難関がひかえておりましたネ。でもどんなことでも二人力をあわせていけば生きぬけないなどということはありません。

 トコトンがんばるほかありません。これまで生きているという事実をあまりにも当然のことのように思ってとりたてて考えたこともなかったのに、こんどのようにセッパツマッテみると、生きるためにこんなにも多くのエネルギーがいるってこと、やっと気づいたようです。

「宝石は摩擦なしには光らない。人間も苦悩の試練なしには完成しない」

 分かりきったことだけど、このルナンの言葉はちょうど今のあなたの力づけとなるのではないかと思います。たとえ私たちの生活は苦しく貧しくとも、完成の日のためにそれを愛することができます。卑しい生活で富や地位を得ようとするほど恥ずかしいことはありません。

 どのようなときにもあなたの高貴な思想が後退することのないように、そしてもっとも賢明な道を選択されるようにひたすら信じています。

 またコスモスの花の咲く頃になりましたネ。花の中にうずくまっているときはまったく平和そのものに思えるのに、何と激動なのでしょう。歴史の尺度からいうとその日は遠くないという春日さんの言葉にとてもはげまされています。そして自然にインターナショナルの歌が口をついてでてきます。それからもし郷里に便りされるのであれば、その内容がお母様に知れることは、それによってうけられる衝撃を考えると、たえ難いものがあります。だから内容をボカスとか、何か工夫が必要と思います。

 今晩は何もまとまりません。いい考えが浮かばないのです。どうして思うようにいかないのでしょうネ。思い切って姉に話そうかと考えたりします。そうすれば、あなたがここに来られてもよくなるのですけど……。ほんとうに思うようにいきませんネ。じゃあ又、明日。

十月十二日  光雄から和子ヘ

 ありがとう。君のはげましは僕にとって千人力をあたえてくれました。僕はどんなにたたかれて、ふみにじられようとも、あの雑草の生命力でさいごまでたたかいぬく決意をかためています。この世の中でいちばんよく僕を理解し支持してくれている君のためにも。

 僕はいま、過去の政治活動を理由に現在まじめに働いている人間の首を切ることの不当不法を大いに糾弾して、たたかっています。職場の大衆は憤激しています。そして僕個人に対する全面的な同情を集めています。しかしいまはパージの理由は拡大され「主として学生時代の政治活動が馘首(かくしゅ)の理由だが、その後、各種の情報を総合した結果」などと奴らはいいだしています。官房長は「まことに同情にたえない。が、占領軍の命令である以上、どうしようもない」ともいいました。多少とも日本人の良心が残ってそういわせたのかもしれません。

 ともかく、状況は僕にとって決定的に不利なことに変わりはありません。第一肝心の労働組合は動かないし、然るべき連絡も指導もプッツリです。

 だけど、がんばった甲斐はあって、今月末まではなんとか首切りをのばさせることができました。いずれにしても、僕の直面している道は二つに一つ。全面的に膝を折って再就職を懇願すれば、まだその可能性がないわけではありません。だが、この道は僕の信念を放棄する以外にはとうていひらけるものでないことは明らかです。それは屈辱の道です。そんな道よりはむしろ僕は死んだ方がよい。僕は自由と平和のためにたたかって生きる道を選ぶ以外にない。わが道は一つ、この道を往かねばなりません。いま僕はあらためてあの『鋼鉄』の一節をくりかえしています。

 「人間にとって一番大切なもの──それは生命だ。それは人間に一度だけ与えられる。そして、それを生きるには、あてもなく生きてきた年月だったと胸を痛めることのないように生きねばならぬ。」

 「そうだ!」僕たちは世界でもっとも美しいこと、つまり人類解放のためにいっさいの力を捧げ、たたかいぬかねばならないのです。たたかいに身を投じること、それはなんとやり甲斐のある、しかも崇高、雄大な展望をあたえてくれることでしょう。僕はこの重大な人生の転機に立って、山なす困難をさけるようなことはせず、むしろ正面から立ちむかうつもりです。

 人生、まさにいたるところに青山あり、熟慮と決断、もってわれわれの人生をして光輝あらしめよ。詳細は面談の節にゆずりましょう。握手。

第2章
青春の日記抄

はじめに

 私がやっとの思いで就職した農林省の職場にいたのは、一九五〇年六月十五日から、同十月五日までの、たった四ヵ月たらず、百日余の短い間でした。その日の前日、出頭命令を聞いたときに、いよいよ来るものが来たという感じでしたが、不思議なことに一向くよくよするなどということはありませんでした。冒険心に満ちた若さの為せるせいだったのでしょうか。

 当時の私は、まったくの点在「孤立」の状況でした。きびしい弾圧と分裂攻撃のなかで組織的指導は壊滅状況でしかも労働組合は反共「民同」の支配下にあって、むしろレッド・パージ容認という情けない姿でした。こういう諸条件のもとで、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、私はむしろ「欣然」と最初の就職地を旅立って彼女の住む土地に向がったのでした。

 もちろん故郷に帰ることもならず、私は当時姉のもとに身を寄せていた彼女の縁をたよって、日本海沿岸の山口県大津郡日置村をたずねたのです。この村には農業高校があって義兄はここで教師をしていました。私がこの学校の宿直室に荷物をといたのが、十月二十五日の夕刻のこと、そしてここで傷ついた「敗残」の身を十一月十三日までおくことになりました。

 このときからほぼ三十三年たって、いまあらためて思うことの一つ、それは初対面だった斎藤良平・美智子夫妻の温かさです。世間的にいえば、職場を追われた向こう見ずの一青年。いくら妹の恋人だからといっても、いやな顔一つせずに温かくもてなしてくれたこのときのことを、私
は終生忘れることができません。当時、私の恋人はすでにここを出て、下関市長府町のあるお寺に下宿していて、そこから下関市唐戸町に所在した保健所に通勤していました。

 私たちが兄姉夫婦の肝いりで「結婚式」をあげたのは、このとき、十一月十二日のことでした。会場は農業高校宿直室の薄暗い電灯の下、窓に隣接の鶏小舎から強烈な鶏糞のにおいがしたのをいまでも忘れません。もちろん媒酌人も来賓もなんにもなし、臨席は私の兄と、義兄姉のたった三人。それから花婿の私と花嫁の和子と。心づくしのすき焼きと、それに田舎の母がひそかにとどけてくれた紅白のお餅。おそらく世界広しといえどもこれはもっとも質素な結婚式だったと思います。

 翌日、私はトランクーつ持って妻の下宿していたお寺に転居、と言いたいところですが、そうはいきませんでした。そのお寺のお坊さんは南部さん(妻の旧姓)が男を連れこんだ、おいとくわけにはいかん。すぐに出ていけ≠ニいうことになったからです。途方に暮れた私たちは、どこでつごうしたのかもう忘れてしまいましたが、リヤカーに荷物(といっても彼女の布団袋とトランクの二つ三つ)をのっけて、夕暮れの長府町の街道すじの見ず知らずのお宅、これはと思えるような家を一軒ずつたずねていったのです。

 ところが、世間にはほんとうに親切な人がいるものです。まったく見ず知らずの若い夫婦者らしいのが難渋している姿を見て、同情してくれたのに違いありません。坂口未次郎さん(後年下関地方でトップクラスの建設会社社長にのし上がった人です)という大土建会社大林組の下請業をなさっていたお宅の土間の一隅、三帖の板張りの部屋をお借りすることができたのです。

 こうしてともかく雨露がしのげ、二人にとっては「せまいながらも楽しいわが家」がスタートすることになりました。

 ときに、一九五〇年十一月十三日のことです。そしてこれも坂口さんのお世話で、私は大林組の日雇い労働者として働くことができるようになりました。それが十二月一日のことで日記はその五日目からはじまっています。

 私たちがここで最初の家庭をいとなんだのはその翌年の六月までの、ほんの短い間でした。その問私は、日雇いから米屋の配達夫へ、妻の和子は下関市の保健所職員として二人力をあわせて働き、そして活動しました。ところが彼女はわが国はじめての女性獣医ということが稀少価値で、京都のある民間研究所にスカウトされることになり、そのため一九五一年の春から夏にかけて、私たちはあいついでこの地を去ることになりました。

 この青春日記抄、それはこの間の生活と闘争を描いたもので、「根雪」という表題をつけた粗末な幾冊かの大学ノートとなって残っていたものです。「根雪」それは雪どけのころまでとけずに残っている春を待つ雪のことです。当時の私がどうしてこのような表題をえらんだのか、それは本文を読んでくださればわかっていただけるでしょう。
(有田光雄・有田和子「わが青春の断章」あゆみ出版社 p103-113)

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◎「「勧告」が実行されることは、当事者の願いが実現するだけでなく、アメリカいいなり政治からの脱却にもつながる」と。