学習通信081208
◎大衆的学習教育運動が重要性を帯びざるをえなくなる根拠……

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理論はなぜ階級性をもっているのか

 理論の発生について学んだところでは、理論の階級性は問題となりませんでした。なぜなら人類が発生してから一〇〇万年ともいわれる実に長いあいだ、階級そのものが存在しなかったからです(原始共産制の時代)。しかし、ここではその階級が問題の中心となっています。いったい階級はどうしてあらわれたのでしょうか? この問いにたいしてかんたんに答えることからはじめたいと思います。

 階級は、剰余生産物の発生によって姿をあらわしました。剰余生産物とは、人間が生活していくために、最低限必要とされる生産物の量をこえてつくりだされた物のことです。人間は実に長い期間におよぶ自然とのたたかいのすえ、ついに剰余生産物を生みだすまでになったのです。しかし皮肉なことには、このことは多くの人びとにとっては、あらたな不幸の根源を生みだすことになってしまうのです。階級の発生──このいまわしいできごとによって。

 ある部族(氏族の連合からなる人びとの結合体)と他の部族とのあいだにおいては、その生活をとりまく自然の条件の差や、部族社会の文化水準の差や、部族の大きさのちがいなどが、しだいに貧富の差をかたちづくり、勢力のある部族は、力ずくで他の部族のもっている土地や狩場を分捕るようになっていきます。最初のころには征服された部族はすべて殺されるか、食べられてしまいました。彼らを生かしておくほどの生産力がなかったからです。

 生産力が発展して剰余生産物がつくりだされると、事情は一変しました。征服者は、たたかいにやぶれた部族を奴隷として支配し、自分たちのためにはたらかせるようになったのです。そして支配者は、奴隷に牛か馬のような生活をさせ、彼らがつくりだす生産物のごく一部分、奴隷がやっと命をつなげる程度のものだけをあたえて、残りはすべてとりあげてしまいました。これが貧富の差をますます大きくしたことはいうまでもありません。このことは、それぞれの部族社会のなかでも起こりました。すでにこのころになると、生産力の発展の結果として、かつてはすべて共同労働として行なわれた労働が、家族を単位として、家族の利益のために行なわれるようになっていました。私有財産≠ェ生まれていたのです。最初は主として、生産活動にたいする能力のちがいによってしだいにひらいていった貧富の差は、やがて階級的差別として形成されていきました。

 部族間で起こったことと、それぞれの部内であらわれたこのようなできごとのくりかえしの結果は、人間社会に、土地や生産用具などの生産手段を持つものと、生産手段を持たない者の集団を生みだしました。こうして階級があらわれたのです。「階級と呼ばれるのは、歴史的に規定された社会的生産の体制のなかで占めるその地位が、生産手段にたいするその関係(その大部分は法律によって確認され成文化されている)が、社会的労働組織のなかでの役割が、したがって、彼らが自由にしうる社会的富の分け前を受けとる方法と分け前の大きさが他とちがう人びとの集団である。階級とは、一定の社会経済制度のなかで占めるその地位がちがうことによって、そのうちの一方が他方の労働をわがものとすることができるような、人間の集団を言うのである」(レーニン『偉大な創意』、なお階級の発生についての説明は、これだけではとても不十分です。これについては、あわせてエンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』をもお読みください)。

 けっして和解することのできない利害関係にもとづく階級の発生は、また国家をも発生させました。国家の中心は、暴力組織──軍隊、警察、監獄など──ですが、それは国家が階級対立のなかから生まれ、支配階級が被支配階級をおさえつけるために、また支配階級の利益をまもり、それを増やすための戦争を行なう必要から生まれてきたものです。

 生産力の発展はこうして階級を生み、国家を生むことによって人間社会を根本から変えてしまいました。人類史は、もっともいまわしい時代、人間による人間の搾取が行なわれ、はげしい階級闘争によっていろどられる階級社会へと移っていくのです。

 さて、もともと実践的な性格をもっていた人間の認識や理論が、このような社会の変化の影響を受けないはずはありません。階級社会の出現がもたらした人間の理論活動への影響は、肉体労働と精神労働の分裂にもっとも特徴的にあらわれています。

 すでにみてきたように、以前の社会では、肉体労働と精神労働の担い手は同じ人びとでした。けれども階級社会では、二つの事情によって精神労働は、肉体労働から切りはなされてしまいます。第一は、支配階級の要求からです。支配階級は、その政治的支配をつづけ、強化し、経済的な欲望を満足させるために、それまでの科学のもたらした成果をひとりじめにしようとします。その場合彼らは、自分自身が科学的な理論を身につけようと努力するのでなく、精神労働を専門的に行なう者を買収するわけです。もし、買収に応じないものがいるなら、国家権力を使って弾圧を加えることもできます。今日御用学者≠ニ呼ばれている人びとが、こうして生まれてきます。

 精神労働が肉体労働から分かれた第二の原因は、剰余生産物が生産できるようになったということです。精神労働だけを行なうものも、まず食べ、着なければなりません。これらはすべて、肉体労働のもたらす剰余生産物のなかから提供されるのです。支配階級は、ぼう大な剰余生産物の一部を学者や文化人などにあたえることによって、精神労働をひとりじめにすることができます。

 ですから、肉体労働と精神労働の分裂の経済的基礎は、剰余生産物の生産であり、社会的基礎は、階級の出現だといえるのです。

 さて、支配階級は、なんの目的で精神的労働をひとりじめしようとするのでしょうか? それは、大きく分けてつぎの三つです。

@支配制度そのものの維持と強化のために──政治のしくみや経済制度の研究、人民の反抗を抑え、他民族を侵略するための軍隊その他の暴力的組織の強化のために、弾圧の方法を考えたり、自然科学や技術の発展を戦争に応用するやり方を考えるなど。

A被支配階級を思想的に眠りこませるために──「現在」の社会こそが、もっとも自然ですばらしい社会だと人民に信じこませ、支配の本質をおおいかくし、自分たちの利益にのみ役立つ人間をつくりだす。

B生産技術を引き上げ、生産管理を「合理化」して、自分たちの手にはいる剰余生産物を増やすために、自然科学の成果を買収して、自分たちのもうけを増やすために使い、勤労人民をより大きくしぼりとる手段を考えるなど。

 支配階級はこのような目的で、すべての科学の成果とその理論を、自分たちの道具として占有しようとします。そしてその方法は、買収≠ニいうようなやわらかい手段から、弾圧≠フような暴力的手段にまでおよびます。つまり、アメからムチまでです。このようにして、働く人びとが力を合わせて一歩一歩さぐりあててきた科学の成果は、その主なもののほとんどが勤労人民を苦しめる支配階級の手にわたってしまったのです。こうして支配階級に奉仕する科学、思想、文化とその理論が発生しました。

 それでは一方の被支配階級は、まったくものを考えなくなってしまったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。もちろん朝から晩まで働きつづけても、やっと食べていくことができるほどの生産物しかあたえられなかった勤労人民にとって、自然科学や社会科学の理論を身につけることはきわめて困難でした。

 しかし彼らもまた、自分自身の経済的地位にもとづいて、ものを考えざるをえなかったのです。圧政のきびしさが増すつど、自然の災害が人びとの生活をおびやかすたびに、彼らの心のなかには不合理な社会のしくみがくっきりと焼きつけられてくるのでした。

 奴隷の反抗、農民一揆などは、そのどれ一つをとってみても、その底に飢えに苦しむ、人民大衆のうめき声が聞こえないものはありません。このような状況のなかで、被支配階級の側に味方する学者・思想家や芸術家がしばしばあらわれるようになりました。これらの専門家たちは、支配者からのさまざまな迫害をけって、勤労人民に奉仕する科学や理論を生みだしていきました。いまや科学とその理論は、その階級性をいっそうするどくさせないわけにはいかなくなり、その階級性のゆえに、相対立する二大陣営に分裂したのです。

 どのような人間であれ、食べ、住み、着なければならないのですから、彼らは社会の物質的土台である生産関係のなかにかならずはいっています。しかし、階級社会では、この生産関係は何よりも階級関係を意味しています。

 ですから、どんな人も、階級をこえた生活ができるはずがなく、けっきょくはいずれかの階級の一員となり、思想的にもなんらかの階級的立場をもたないわけにはいかなくなります。

 けれども、すでにふれたように、階級社会ではたえずきわめてきびしい思想闘争が行なわれているのです。そうだとすれば、すべての人びとは、この、思想闘争において、意識的にせよ無意識的にせよ、なんらかの任務を分担せざるをえません。しかも、思想闘争とは、たんなる論争といったものではなく、その背後に各階級の経済的利害関係がはたらいているたたかい、つまり階級闘争としてたたかわれているのです。階級闘争とは、けっきょく今日の社会制度の存続を許すのかどうか、ということをめぐってたたかわれているのですから、支配階級にとっては生死をかけたたたかいです。

 一般に支配階級がその支配をつづけるためには、人民大衆にたいして二つの顔をもたなければなりません。その一つは、刑吏、すなわち殺人者の顔であり、もう一つは人びとをいたわる坊主の顔です。一方は軍隊その他の暴力的組織による支配であり、他の一方は反動的な思想、文化、教育による支配です。右手に持つ剣でおどし、左手に持つアヘンで眠らせる──これこそがあらゆる搾取階級の支配の論理なのです。

 レーニンは、『戦術にかんする手紙』(一九一七年四月『レーニン全集』第24巻)のなかで、それにかんしてつぎのように述べています。「ブルジョアジーは暴力によって自己を維持するだけではなく、また大衆の無自覚や、旧慣固守や萎縮や無組織状態によっても自己を維持する。」

 これは、プルジョアジーが危機に直面すればするほど、大衆の自覚を高めるための大衆的学習教育運動が重要性を帯びざるをえなくなる根拠の説明ともなっているものです。

 まず経済関係、つまり生産関係が土台となり、そのうえに国家を中心とした法律、議会などの政治、そしてそれとならんで学問、文化、宗教などの思想、これらが、人間社会の総体をかたちづくっています。そして、政治的・思想的上部構造は、かならず社会の土台である生産関係を反映し、それによって規定されているのですが、また同時に上部構造は、土台である精算関係に反作用(上部構造の相対的独自性)して、その発展を遅らせたり、早めたりすることができます。

 ところが、上部構造が土台によって規定されているということは、三つのことをあらわしています。

 その一つは、階級社会にあっては、経済的に勢力のある者が、国家権力をにぎり、思想や文化をにぎることができるということです。ですから、ある社会における支配的な思想や文化は、かならずそのときの支配階級の文化だ、といえます。ここに、苦しめられ、しいたげられていながらも、支配者によって目をくもらされてしまった人民大衆が、なかなかたたかいに立ち上がろうとしない秘密があるのです。

 二つには、人びとの思想=社会的意識は、すべてその社会における存在の仕方、いいかえるとどの階級に属しているかによって決まる、ということです。このことに関連してつけ加えておくと、いままでの例では、階級を支配階級、被支配階級として区別してきましたが、それだけでは不十分です。なぜなら現実の社会では基本的階級(資本主義社会では労働者階級と資本家階級)のほかに、さまざまな中間階級が存在しており、二つの基本的階級のあいだをゆれうごきながらも、独自的な思想を生みだしているからです。これは、のちには重要なことがらとなりますからおぼえていてほしいと思います。

 三つめは、土台のもつ経済的矛盾は上部構造にも反映し、土台の矛盾がはげしくなってくると、上部構造すなわち政治や、思想(イデオロギー)問題をめぐっての階級闘争もまたきわめてきびしいものとなってくる、ということです。この二つについては、いずれも前のほうでもふれていますから、くわしい説明はしませんが、ここでは何よりも、思想闘争(イデオロギー闘争)というものは、階級闘争の他の分野、経済闘争や政治闘争といったものとまったく同じように重要なものであって、支配階級は、この闘争を必死のたたかいのひとつと考えているということを、頭に入れておいてください。
(畑田重夫著「現代人の学習法」学習の友社 p37-45)

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 ところで、現実がわれわれにしめしているのは、自由に選出された兵士と農民の代表が、自発的に第二の、副次的な政府にはいり、自発的にこれを補足し、発展させ、完成しているというか事実である。

そして、彼らは、おなじく自発的に権力をブルジョアジーにゆずりわたしている。

──この現象は、すこしもマルクス主義の理論に「反する」ものではない。

なぜなら、ブルジョアジーは暴力によって自己を維持するだけでなく、また大衆の無自覚や、旧慣国守や、萎縮や、無組織状態によっても自己を維持するということは、われわれがつねに知っていたことだし、たびたび指摘してきたことだからである。
(レーニン「戦術に関する手紙」レニン全集 24巻 p30)

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◎「ブルジョアジーは暴力によって自己を維持するだけでなく、また大衆の無自覚や、旧慣国守や、萎縮や、無組織状態によっても自己を維持する」と。