学習通信081211
◎ごくごくまれに、そうではない人たち……

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 社会的に弱い立場に置かれている人が「悪あがき」をするとき、その人はワラにもすがるような必死の思いでいる。

 正しいこと、道理に合ったことを求めているはずなのに、いっこうにそれが通らない。でも、それが実現しなければ、生きてはゆけない。そうしたぎりぎりの状況での行動は、当然、「悪あがき」にならざるをえない。そして、その人はあがきながら、だれかの助けをやみくもに求める。

 では、助けを求められた人はどうすればいいのか。

 「疫病神」にとりつかれたと見るのか。それとも、その人の窮状に寄り添い、求めに応じて一緒に「悪あがき」をするのか。

 「内向きの善」にとらわれた人は、弱者に一時的には同情するかもしれないが、結局はその手をうまく振り払ってしまうだろう。

 たとえば、「弁護士に相談したら」とか「がんばってね」と他人事にしたり、「ちょっと考えてみます」と言ったきり音沙汰なしだったり、ああしろ、こうしろと指示ばかりして自分では動かなかったり。

 はたまた、「相手が悪すぎる」「やってもムダでしょう」「気にしなければいいのよ」「そんなところでエネルギーを使うより気持ちを切り替えて」とあきらめることをすすめたり、「どうして、あの時、××しなかったの」「あなたにも問題がある」と相手の落ち度をほじくり出したり。

 手を差し伸べない理由を次から次へと見つけ出して、巧みに逃げていく。

 けれども、ごくごくまれに、そうではない人たちがいる。

 弱者の悪あがきのなかに、実現を阻まれている「正義」や人間としての当然の権利、つまり「人権」があることを嗅ぎ取り、そして、弱者の要求に共感し、その実現に力を貸そうとする人びとが、ごく少数ながら存在するのだ。
(辛淑玉著「悪あがきのすすめ」岩波新書 p48-49)

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科学的態度とは何か

 思想や理論にはなぜ階級性があるのかということがわかったところで、この節のむすびとして、「科学的態度とは何か」ということを考えてみたいと思います。

 変革の立場こそが科学的立場

 すでに学んできたように、人間の認識は、自然を変革し、社会を変革する実践のなかからだけ生まれ、発展してきました。事実、ある事物を深く知るためには、ただながめているだけではたりません。それにたいしてはたらきかけ、つくりかえることをつうじてだけ、そのものの性格や本質が理解できるのです。

 以上のことは、自然にたいしても、人間社会についてもまったく同じことがいえます。よく「苦労してみなけりやわからないよ」といいますが、これは実践的な立場にたたなければ、ものごとを理解できないということをあらわしているのです。ですから科学的な立場に立とうと思うなら、変革者の立場に立たなければなりません。しかも、すでに学んだように、あらゆる科学や思想は、階級性をもっています。そうだとすれば、歴史的にある一定の社会のなかで、自然を改造する仕事に直接たずさわっており、しかも、その社会を変革することを最高の利益とするような階級(資本主義社会では労働者階級と国民)の立場に自分をおかなければなりません。だからこそ私たちは、

 「労働者階級を中心とする国民の立場と科学性とは一致する」と主張しているのです。

階級観点をつらぬく生活態度

 私たちは、自分の身のまわりに起こるさまざまなできごとについて考えたり、それについてのいろいろな意見を聞いたりするときに、かならず階級的立場と観点をつらぬくことが大切です。この場合、そのことがらがどの階級に奉仕するものであるか、ということが、とくに大切です。それはすでに述べたように、科学的であるかどうかの、もっとも重要なわかれめの一つです。このことから、自分自身の行動や学習が、「だれのために、何のために」行なわれるのか、ということをたえず考える必要が生まれてくるのです。

「すべてを疑う」ということ

 マルクスはあるとき、「すべてを疑うこと」が自分の信条だ、と述べたことがあります。それ以後、この言葉はいろいろなときによく使われていますが、この言葉が使う人のまちがった立場を合理化するためにもちいられている場合も少なくありません。「オメエら、なにかというとすぐにアメリカ帝国主義と日本独占資本が悪いっていうが、すべてを疑えってマルクスもいったじゃねえか」という具合です。そんなとき、こちらが科学的社会主義の古典をよく読んでいないと、すっかりあわててしまったりするわけです。ひどいのになると、「マルクスだって人間だよ。まちがいだってこともあらァ」なんて反論をしてしまうことになります。

 いったい、マルクスは、どういう考えで「すべてを疑う」といったのでしょうか。

 すぐに思い浮かべることができるのは、事大主義や教条主義を否定している、ということです。事大主義とは、「寄らば大樹の陰」というやつで、なんでもかんでもエラそうに見えるものにくっついていこう、というまったくだらしのない考えです。教条主義とは、エラそうに見える人がしや
べったり、行動したりしたことの一部を切りとってきて、それが永久に、絶対的に正しいと主張する考え方や態度のことです。

 マルクスは労働者階級と国民の立場に立つ科学、科学的社会主義をつくりあげた人ですから、あらゆる事大主義、すべての教条主義とはげしくたたかいました。彼はそれまでのすべての科学の成果を「疑う」こと、つまり批判することによって、ふるいにかけ、つくりかえていったのです。ですから、マルクスは、すべてを疑って何がなんだかわからなくなってしまった、ということではなく、一つひとつのことがらや、社会全体を深く研究していく態度として、すべてを疑ったのです。

 「すべてを疑う」というこの態度を実践的にいうなら、あらゆるできごとや、それにたいする理論にたいして、「なぜ起こったのだろう? なぜあのような考えが生まれてくるのだろう?」という疑問をもつこと、いいかえれば、問題意識をもつことです。このようにしてはじめて、借りものでない自分の考えがつくりだせるのです。

 さて、マルクスは自分自身にたいしてもきわめてきびしい人でしたから、そのようにして生まれた自分の考えをもかならず再検討しました。つまり「自分の思想をも疑う」わけです。その場合彼にあっては、実践こそが、自分の理論が正しいかどうかを判断するただ一つの基準でした。だからマルクスは、その生涯にわたって、社会変革の実践上の担い手である労働者階級にたいして深い信頼と尊敬をよせ、謙虚な態度で接したのです。

理論と実践の統一

 科学的態度とは、以上に述べたことを踏まえたうえで、理論と実践の統一という言葉に集約することができます。私たちが理論学習をおこなうのは、何よりも祖国と人民の解放という大きな実践のためです。

 日本の歴史を根本的に書きかえる偉大な事業に成功するためには、理論をどのような実践と統一していったらよいのでしょうか。

 そこで、すでに学んできたことから、理論と実践の統一ということをもう一度よく考えてみてください。……ここでは、私の好きなマルクスの言葉をかかげておきたいと思います。

 「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」 (『フォイエルバッハに関するテーゼ』)。
(畑田重夫著「現代人の学習」学習の友社 p45-49)

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◎「科学的な立場に立とうと思うなら、変革者の立場に立たなければ」と