学習通信081216
◎奴隷≠フ立場に転落することを意味……

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 革命的理論なしには革命的運動もありえない。

日和見主義の当世流行の説教と、実践活動の最も狭い形態への熱中とが、抱き合っているような時代には、どれほど強くこの思想を主張しても主張したりない。

しかも、ロシアの社会民主党の場合には、人のしばしば忘れがちな次の三つの事情のために、理論の意義がいっそう強まる。

第一には、わが党はいまようやく形づくられつつあり、いまようやく自分の個性をつくりあげつつあるところであって、運動を正しい道からそらすおそれのある革命思想の他の諸潮流との対決を終わるにはまだほどとおいのである。

それどころか、まさに最近の時期にこそ、いろいろな非社会民主主義的な革命的潮流の復活が目だって見られた(すでにずっと以前にアクセリロードが「経済主義者たち」に予言しているように)。

こういう事情のときには、一見「重要でない」ように思える誤りがこのうえなく悲しむべき結果を引きおこさないともかぎらないのであって、近視的な人間だけが、分派間の論争や、色合いの厳密な区別だてを、時宜に適しないとか、無用なことだとかと、考えることができるのである。

どの「色合い」が強まるかによって、ロシア社会民主党の将来が今後長年にわたって決定されることになりかねないのだ。

 第二に、社会民主主義運動は、その本質そのものからして国際的である。

これは、われわれが民族的排外主義とたたかわなければならないことを意味するだけではない。

これは、若い国にいま始まりつつある運動は、他の国々の経験を摂取してこそはじめて成功できるということをも、意味している。

しかし、このように摂取するためには、たんにこの経験に通じていたり、最近の諸決議を書きうつすだけでは足りない。そのためには、この経験を批判的に取り扱い、それを自主的に検討する能力が必要である。

今日の労働運動がどんなに巨大な成長をとげ、多くの枝に分かれているかを思いうかべるなら、だれでも、どれほど大きな理論的勢力と政治的(同時にまた革命的)径験とのたくわえがこの任務の遂行のために必要であるかを、理解するであろう。

 第三に、ロシアの社会民主党に課せられている国民的任務は、世界のただ一つの社会主義政党もまだ当面したことのないようなものである。

あとでわれわれは、全人民を専制のくびきから解放するというこの任務がわれわれに負わせている政治上、組織上の義務について述べるおりがあう。

いまは、先進的な理論にみちびかれる党だけが先進闘士の役割を果たすことができるということを、指摘するだけにとどめたい。

だが、これがどういうことを意味するかを、いくらかでも具体的に心にえがくには、読者は、ゲルツェン、ベリンスキー、チェルヌィシェフスキーや、七〇年代の革命家の輝かしい明星の一団のような、ロシア社会民主党の先駆者たちのことを思いおこされたい。

ロシア文学が今日世界的意義を獲得しつつあることを考えていただきたい。さらに……いや、これだけでももう十分だ!
(レーニン「なにをなすべきか」レーニン一〇巻選集A 大月書店 p29-30)

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理論と実践

革命的理論なくして革命的運動はありえない

 この標題はレーニンの『なにをなすべきか?』のなかの言葉ですが、ご存知の人も多いと思います。レーニンはこの著作のなかで、革命運動と理論の関係について、きわめて深い研究を行なっていますが、革命運動がとくに資本主義社会を廃止して、社会主義社会をつくりだす革命においては、真に科学的な革命理論によって導かれなければならない、というこの考えはリ科学的社会主義のいっかんした主張でした。その理由はつぎの点にあります。

@資本主義社会における支配的な思想は、ブルジョアジーに奉仕する思想であること。

A資本主義社会ではすべての階級社会と同じように、精神労働と肉体労働とが分離しているために、労働者階級が(これこそ革命運動の中心部隊なのですが)科学的な理論を身につける機会にめぐまれにくいこと、しかも資本主義社会を変革する指導階級は労働者階級しかないこ
と。

B資本主義的生産関係は、封建制のなかで自然成長的に発生することができたので、ブルジョア思想もそれとともに発展することができたが、資本主義から社会主義への移行は、まったくそれとはちがっており、科学的な社会主義が、自然発生的に労働者のなかから生まれでるものではないこと。

C一般に、階級社会の支配者は、人民大衆を思想的に眠りこませるために全力をあげるが、資本主義社会ではそのための強力な武器──マスコミ手段、学校教育、その他──が支配階級の手ににぎられていること。

Dそのうえ資本主義社会では、労働者階級と資本家階級のほかに、さまざまな中間階級が存在しており、資本主義の発達とともに多くが没落して労働者階級となっていく。そのために小ブルジョア的思想(ブルジョアと労働者のあいだをさまよう)が、たえず労働者階級のなかにもちこまれて、労働者が社会制度の本質をつかむ条件はいっそう困難であること。

 ここに述べたことは、すでに説明したことばかりですからくりかえしません。これらのすべては、労働者階級が資本主義制度を廃止して、社会主義社会を打ち立てるたたかいに勝利するためには、意識的に革命理論を学ばなければならないことを訓(おし)えています。

 資本主義社会の誕生とともにはじまった労働運動は、最初は、経済的な要求をかかげた自然発生的な運動でしたが、この経済闘争がしだいに組織的なものとなったとき、支配階級は国家権力を動員して、これをおさえようとしました。これをみた労働者階級は、経済闘争を徹底しておしすすめれば、かならず政治闘争になっていくことを知りましたが、どのようにして政治権力とたたかったらよいかを知りませんでした。労働者階級は、飢えたように知識を求めました。

 当時の労働者階級の理論的指導者となったのは、急進的なブルジョアとか、空想的社会主義者でした。労働者階級は、これらの理論に導かれて、情熱的にたたかいました(イギリスのチャーチスト運動など)、けれども、これらの運動の指導者たちは、労働者階級を真に革命的に組織し、資本主義を変革する道をさし示すことはできませんでした。そのため、労働運動は、その非科学性のゆえに、苦しいいばらの道を歩まねばならなくなったのです。しかも労働者階級は自分自身の力で、その科学的理論をつくりあげることはできませんでした。その仕事は、それまでの科学の成果を深く学ぶことができ、しかも今日の社会を十分研究できる立場にいる人にとってのみ可能だったからです。そしてすでに述べたように、マルクスとエンゲルスがこの任務を果たしました。

 マルクスとエンゲルスによって打ち立てられた科学的社会主義とむすびついたとき、はじめて労働運動は、その自然発生的な段階からぬけだし、科学的な武器をその手ににぎって、みずからを理論武装することができたのです。近代の革命運動は、労働運動と科学的社会主義の結合がなされたとき、つまり、理論的・思想的にも労働者階級がブルジョア社会をつくりかえる力をもったときに、はじめて巨大な前進をはじめたのです。

 このように、革命運動とは、ほんらい理論的な武器を労働者階級がにぎって、意識的に展開する運動をさしているのです。労働者階級が理論を学ばない革命運動などは、もともと存在しないのです。しかも今日、労働者階級の敵は、そのくずれつつある体制を維持するために、ありとあらゆる方法で、文字どおり日夜にわたる思想攻撃を展開しています。私たちは実際の活動に照らして、このことをもっともっと深く考えてみなければならないと思います。

 以上のことと関連して、みなさんにぜひ考えていただきたいことは、奴隷制から封建制への移行は、なぜ奴隷をつぎの支配階級としなかったか、封建制のもとでの農奴は、なぜ資本主義社会の支配階級となれなかったか、という問題です。この問題にたいする答えはいくつかありますが、そのなかのもっとも重要なひとつは、奴隷も農奴もともに科学的な理論をもちえなかった、ということです。何よりもこの点において、私たちは奴隷でなく、農奴でもない、資本主義社会の前衛階級なのです。ですから、もし私たちが、いささかでも理論軽視の立場に立つとしたら、それは、労働者階級ではなくなり、奴隷≠フ立場に転落することを意味します。しかし、奴隷≠フ手によっては、けっして階級社会をなくすことはできないのです。

正しい理論だけが革命を勝利に導く

 革命運動を勝利に導くためには、正しい理論に導かれなければなりません。正しい理論によって導かれるということは、第一に、すでに実践によってその正しさが検証されている理論を選び、第二に、その理論をうわっつらだけでなく深く身につけ、第三に、それを正しく革命運動をふくむ民主的諸運動の実践にもちいる、ということです。

 ところが見せかけとしては一生懸命にそういう立場でやっているようでありますが、実はあやまった立場から理論を展開する思想があります。それは右と「左」からの日和見主義です。

 第一にそれは、科学的社会主義の衣をかぶっています。

 第二にそれは、マルクスやレーニンの理論や思想から深く学んでいるようにみえます。

 第三にそれは、理論を創造的に実践に生かしている(主として右翼日和見主義)といったり、原則をかたくまもっている(主として「左」翼日和見主義)といいはったりします。

 このような日和見主義は、それがどんなかたちであらわれようと、本質的には支配階級に奉仕する小ブルジョア思想です。

科学的社会主義の内部にあって、科学的社会主義に敵対する潮流を修正主義と呼びますが、修正主義は、ブルジョア的、小ブルジョア的思想が、マルクス主義によって打ち破られたために、マルクス主義の衣によって「仮装」せざるをえなくなって生まれた潮流です。

その経済的基礎は、独占資本が海外からすいあげる超過利潤のおこぼれにあり、その社会的基礎は、おこぼれをちょうだいしている労働貴族にあります(日本の場合にはちょっとちがっていますが、それについては説明をはぶきます)。

要するに、修正主義とは、富や地位とひきかえに、革命運動を敵階級に売りとばそうとする潮流にほかなりません。しかもそれをあたかも「革命的」であるかのように実行する、もっとも僧むべき反階級的思想です。

 このような「左」右の修正主義がいかに革命運動に害をあたえるかは、国際的にも、私たちの日本においても、くりかえし立証されてきたことです。

 とくに今日、現代修正主義の右翼的あやまりとともに、現代教条主義、セクト主義の「左」からの修正主義が、日本革命に直接的害をあたえているとき、このことのもつ意味は重大です。私たちは彼らの集団が小さく、あたえている影響も小さいからといって、それを軽視することはできません。なぜなら、すでに述べたように、ほんらい修正主義は、独占資本をうしろだてにしているのですから、独占ブルジョアジーが追いつめられれば追いつめられるほど、執拗に労働者階級を骨技きにするために、はたらきかけを強めるだろうことは、火を見るよりも明らかだからです。

 修正主義の問題にかんして、もう一ついっておきたいことは、私たちもまた日和見主義におかされる危険が十分にあるということです。とくに私たちが、実践活動や理論学習をおこたるとそれは大きな危険となります。

 日和見主義というのは、二重の意味で怠け者≠ナす。一つは実践的な意味で、もう一つは理論的な意味で。

 実践的な観点からいえば、右翼日和見主義は公然とたたかいや行動をサボリ、「左」翼日和見主義はもっとも困難なねばりづよい活動、多くの労働者階級の思想を変革して味方にひきつけることをおこたります。

 理論的な面からいえぱ、どちらもたいして苦労をしたがりません。右のほうは科学的社会主義を深く学びもしないで、マルクスやエングルゲの生存していた時代には正しかったが、現代ではもう「古くさくなった」といっては原則を修正し、「左」のほうはといえば、やはり学習不足の結果、科学的社会主義もよく理解できず、マルクスやレーニンの著書・論文のなかの片言隻句を教条的に振りまわすだけで、情勢分析も具体的にやらないで、とても理論を使いこなすことができないという具合です。

 みなさんのなかには、修正主義一歩手前の怠け者はいないでしょうが、そんなふうにならないよう、おたがいにきびしくいましめあっていきたいものです。
(畑田重夫著「現代人の学習法」学習の友社 p62-68)

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◎「の経験を批判的に取り扱い、それを自主的に検討する能力が必要である」と