学習通信081218
◎つねに学習のある人生、つねに学習のある生活……
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独習と集団学習
独習は理論学習の基本
よく、「学習は独習が基本だよ」といいます。そのとおりです。本章の一で考えたように、学習の目的は、何よりも自己変革にあります。さらに自己変革の目的は、さらに仲間を変革し、みんなの力で私たちにぶつかっているいろいろな課題を解決し、ひいては日本の変革に貢献することにあります。ところが、一人ひとりをとればその能力がちがい、ぶつかっている課題も同じではありません。そこで私たちは、自分自身の思想変革のためにも、実践との結合という観点からも、自分自身で深く考えながら学習をすすめていく必要がどうしてもあるわけです。
そのうえ私たち一人ひとりの生活は、それぞれ内容がちがっています。朝何時に起きて夜何時に眠るか、ということも当然ちがっています。自分自身でもっとも都合のよい時間のとり方をすること、これは学習をすすめるうえではどうしても欠かせないことです。
まえにも書きましたが、社会変革をこころざす労働者の学習は、けっして受身であってはなりません。自分自身で自分ひとりさえ変革することができずに、どうして社会変革などという大事業に参加できましょうか。
自分の頭を使い、自分で悩み苦しまなければ、けっしてすぐれた働き手とはなれないでしょう。ところで、今日とくに独習を強めなければならない理由があります。それはすでにふれたように、情勢が複雑となり、労働者にたいする攻撃も、A職場とB職場とではちがい、CとDとではさらにまたちがうというふうに、いわばアノ手コノ手とかたちがちがい、内容がちがって行なわれてきており、したがって、実践上起こってくる課題も、そのはたらいている場所、たたかっている場所によってかなりちがってきているからです。
そうであれば、私たちの学習が具体的な課題の解決をめざしている以上、どうしても自分自身でこのように複雑なたたかいの条件を具体的に研究し、深く分析して方針を立てる能力が必要になってきます。職場や地域での政策立案の能力が問われつつある近ごろの傾向は歓迎されてよいことだといえます。他人をあてにしていたのでは、こういう能力はいつまでたっても身につきません。
よく話にでることですが、学習というと集団学習ばかり考えている人がおりますが、それがあやまりであることはおわかりだと思います。もちろん、私たちは集団学習を重くみており、この本でも、集団学習についてかなり多くのページが割かれています。けれども、独習を集団学習とおきかえてはなりません。あくまでも独習が基本であって、集団学習はそれをたすけるのがその役割です。
集団学習の意義
集団学習の役割とは、独習の助けになる点にあるということはすでに書きましたが、それはどういうことでしょうか。
集団学習は、第一に、まだ独習をすすめるほど力のないおくれた人を引き上げ、自分の力で理論学習ができるように、初歩的、基礎的に教育することができます。
また第二には、学習がある程度すすんだ人については、ひとりよがりな独習にならないように、認識をひろげ、理論を全面的に理解できるようにし、原則的な立場を確認する場所となり、さらにひとりでは解決できない問題を解決する道を切りひらくことができます。
これらが集団学習の主なねらいですが、そのほかにも独習とはちがう利点をそなえています。
一つは、一度に多くの人が同じ課題について学べる、という点です。ですから、内外情勢とか、春闘をめぐる客観情勢などという課題について学ぶときには、集団学習は各人の個人的・主観的理解や一面的な理解を克服するという点での効果を発揮します。
二つには、組織的な雰囲気になれることができます。これはとくに意識の遅れた人たちを引き上げたり、組織活動の経験のない人の意識を変えるにはたいへんよいことです。
以上、独習と集団学習についてごくかんたんに述べましたが、かんたんすぎると思われるかもしれません。けれども学習のすすめ方についてはあとでふれますので、ここでは以上の指摘にとどめておきます。
(畑田重夫著「現代人の学習法」学習の友社 p91-98)
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ある画家の話
画家の永井潔さんが書いていらっしゃった話です。──永井さんがまだ中学生だったころ、近くに若い画家が住んでいて、その画家が中学の同窓会に出ての感想を、永井さんにむかって次のように語った、というのです。
「みんな、もう勉強しなくなっている。卒業してしまったんだね。でも、画かきには卒業がない。卒業のない職業をえらんだことを、ぼくは幸せに思うよ」(『いのちある言葉』童心社)
私はこの話が好きです。中学生の永井さんにむかってこう語ったというその若い画家が好きであり、その言葉を何十年もおぼえていて、「いのちある言葉」として私たちのために書きとめてくれている永井さんが好きです。
もちろん、画かきであるかぎり「卒業生」は一人もありえないか、といえば、そういうわけではあるまいと思います。画かきとしての職業上の地位・名声が確立し、それとともに生活も安定した大家ほど「卒業生」になりやすい、ということもあるかもしれません。
これはまた、画かきだけが「卒業のない職業」だということでもないでしょう。どんな職業だって、本気でとりくむかぎり「卒業のない職業」でありうるはずで、へんな例をもちだすみたいですが、泥棒稼業だって例外ではなかろう、と思います。
さらにまた、これは狭い意味での職業についてだけの話でもない、と思います。たとえば労働組合活動だって、卒業のない仕事、不断の学習を必要とする仕事であるはず、そうでなければならぬはずですが、それは職業的組合活動家(つまり専従活動家)にとってだけのことではありえないでしょう。
卒業のない人生でありたいと思います。卒業のない生活でありたいと思います。卒業のない人生、卒業のない生活とは、つねに学習のある人生、つねに学習のある生活ということです。そうであってこそ、つねに進歩する人生であることができ、つねに進歩のある生活であることができるのだ、と思います。
青いリンゴをかいて「おかしい」といわれた子どもの話
「学習のある生活」というのは、「学習とかかわりのある生活」というのと単純に同じではありません。たとえば、組合で教宣部担当の役員をしているとか、分会の学習係になっているとかいう場合、それは確かに「学習とかかわりのある生活」をしているわけではありますが、それだけでその人が「学習のある生活」をしているということにはなりません。
次のような話を何かで読んだことがあります。
──学校の図工の時間、ある子がリンゴの画をかいた。リンゴを緑にぬっていたら、先生が近づいてきて「リンゴの色は赤でしょ」といった。でも、その子は青いリンゴをかきつづけた。あとで、家庭訪問に来た先生が、「お宅のお子さん、少しおかしいんじゃないですか」といった……。
その少し前、その子の家に青いリンゴがおくられてきたのだったそうです。
この先生は、教師という「学習ともっとも深くかかわりあった生活」の場にいるわけですが、自分自身はとっくに学習を卒業してしまっているのでしょう。
飲み屋の壁にも「青いリンゴサワー」といった品書きがさがっているこの頃だというのに、「リンゴの色は赤にきまっている」という固定観念も相当なものだと思いますが、その固定観念を改めるせっかくの機会を子どもが与えてくれたのに、それに学ぶことをせず、反対に「お宅のお子さん、少しおかしいのでは」というのは、それ以上にスサマジイ、と思います。
そして、この種の教師をどんどんふやしていこうというのが、政府・自民党の教育政策であるらしい、とつけ加えておきたいと思います。
以上のことを私は、たんに他人事としていっているのではないつもりです。
というのは、私は、働く人びとの間での学習・教育活動に日常的にかかわってきたものの一人ですが──そしてそこで主として講師活動を(つまり教育者としての活動を)うけもってきたのですが──はたして「リンゴの色は赤だよ」式の教え方をしてはいないか、そして青いリンゴをかく人に出会ったとき、それに学ぶことをせず、「お宅のお子さん、少しおかしいのでは」式の対応をしていることがはたしてないか、ふりかえってみる必要がつねにある、と思うからです。
自分の生活が「学習のある生活」であるための、それは最低の必要条件であると思います。
ピカソの画の話
画にかかわる話を、もう一っ。
「リンゴの色は赤だ」というのが通り相場であるように、「ピカソの画はすばらしい」というのも通り相場であるようです。
そのピカソの画について、地質学者の井尻正二さんが、「私はピカソの画はきらいだ」と書いていらっしゃいます。「ピカソのデッサンは美しいし、その抽象力もすばらしい」ことを認めながら、「いわゆるピカソの画はきらいである」というのです。
「ピカソはファシズムに、一人だけで、画だけで闘った。いびつを正常と強要する権力にたいして、逆に、いびつの画をもって正常を主張しつづけてきた。その長い闘いの結果、いびつが正常である、というピカソの感覚が定着してしまったように思われる」──これが、井尻さんの意見です。
「私はピカソの画の前に立っても、なんの感動も湧いてこないのを、如何ともしがたい。そこには、闘い終わったドンキホーテの形骸を見る思いがするだけである」とも書きそえられています(『銀の滴金の滴』築地書館)。
ピカソもどこかで学ぶことをやめてしまった、ということでしょう。
井尻さんのこのピカソ評それ自体については、「異議あり」「反対」「大反対」という人が、たぶん、いらっしゃるだろうと思います。「ピカソの画の前に立っても、なんの感動も湧いてこない」というのは、若干の例外をのぞき、じつは私もほとんど同じなのですが──そしてその「若干の例外」のなかには、友人の家でその大きな複製を見かけた、やせ馬ロシナンテにまたがるドンキホーテの画が入るのが、この場合、何とも妙な気がするのですが──どちらのうけとり方のほうがどうだとかどうでないとか、ここで論じようとは思いません。
画についての自分の鑑賞能力を、あまり信用することができないからです。ある子どもむけ漫画のなかに、「これでも学生時代は現代のピカソといわれてたんだぞ」「そんなにうまかったの?」「いや、なにが描いてあるかわからないからなんだけど……」
という親子の対話があったのを思いだします。これならば、じつによくわかるのですが
しかし、井尻さんのピカソ評それ自身の当否がたとえどうあろうと、先に引いた井尻さんのことばが大切な問題提起をふくんでいることは確かだ、と思います。「闘い終わったドンキホーテの形骸」なんかには断じてなりたくない、と思うのです。そのためにも、「学習のある生活」というスローガンを、どこまでもかかげつづけたい、と思います。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p10-16)
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なぜ「思うこと」が必要なのか
しかし、孔子は、そのうえで「思わなければダメだ」と言っています。それでは「思う」ことと「学ぶ」こととは、どのような関係にあるのでしょう。そして、そもそも「思う」こととは、どういうことなのでしょう。
私は、孔子が言いたかったのは、次のようなことだと思うのです。各人がなにか「これが問題だ」と思うことを持っていて、自分の頭で考えてその解決法を求めているときに、実際にその問題を解決するためには知識が必要だから、知識を学ぶ。そういうことを言っているのだと思います。
ただそこにあるものを学ぶ、ということではありません。教師が教えてくれるから学ぶのではない。個人が自分自身で問題を考えていて、その問題を解くために知識が必要だから学ぶのです。そのとき、知識は「知的な道具」に転化されるわけで、自分の見つけた問題を、その道具を使って解こうとするのです。
「これが問題だ」と感じること、これを日本語では、「問題意識」といいます。ある問題意識が自分のなかにあり、そのことについてよく考えること、それが「思う」ことです。それは誰かに与えられたものではなくて、自分のなかから出てきた問題意識です。それがないと本当の意味でものごとを理解することにならない。だから教師が教えてくれることを学ぶだけじゃダメなんですね。学ぶだけでは、自分自身の問題を解決できないでしょう。
問題解決をするために必要なのは、まず問題を意識することです。だから、意識化された問題が自分自身のなかにあることが学ぶことの動機になります。「思うこと」と「学ぶこと」は、このように関係しているわけです。
もし「学ぶこと」が客観的な事実であるとすれば、「思うこと」は主観的な可能性の問題です。その問題を解決することは未来の可能性であり、まだ解けていないわけです。それが「問題意識」という日本語が表していることです。
これはいい言葉ですね。英語にはなりにくい、少なくとも英語では、それほど使わない言葉ですが、日本語ではよく使います。たぶんドイツ語からきているのでしょう。ドイツ語では「プロブレマティーク(Problematik)」という言葉を使います。ドイツ語の「プロブレム(Problem)」は「問題」で、「問題性」が「プロブレマティーク」です。
「思う」というのはプロブレマティークの問題、問題性の意識化、です。それがないとものごとを本当に理解したことになりません。そもそも自分で問題を持っていなくて話をただ聞いているだけでは、その知識はただ右から左へと素通りしていくだけでしょう。
試験勉強の時には覚えていても、試験が済んだら忘れてしまいます。しかし、自分の問題意識にひっかかってくることだったら、そういうことにはなりませんね。孔子が問題意識がなければ、ものごとをよく理解できないと言ったのは、おそらくそういう意味なのです。
しかし問題意識だけがあって知識がないとすれば、それは「危ない」ことになります。「危ない」とは、こういうことをしたいと思ったときに、よく考えずに突人すると、とんでもない結果を生ずることがある、ということです。それを『論語』では「殆(あやう)い」という言葉で表しているのです。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p6-8)
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「みんな、もう勉強しなくなっている。卒業してしまったんだね。でも、画かきには卒業がない。卒業のない職業をえらんだことを、ぼくは幸せに思うよ」