学習通信081219
◎自分にとって都合よさそうな……

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理論学習にたいする二つのあやまった見方

1 実用主義的あやまり

 最初に「実用主義」という言葉について説明します。実用主義(プラグマティズム)とは、アメリカ帝国主義の内部から発生した思想ですが、その考えをもっとも特徴的にあらわしているのは「役に立つものが、すなわち真理である」という言葉です。中国のケ小平首相(当時)が、かつて、「ネズミさえとるなら、白ネコでも黒ネコでもかまわない」といったことがありましたが、こういうのがプラグマティズムの思想のあらわれといえます。

 第一章で科学的理論とは何か、ということを学びましたが、そのなかで、「科学的理論とは実践に役立つものでなければならない」といいました。なんだ、それでは実用主義と同じではないか、

 という人があるかもしれません。けれども私たちは、「真理が、現実を正しくつかんでいるからこそ役立つのだ」と考えているのであって「役立つから真理だ」と主張しているのではありません。言葉のうえで似たようなものですからわかりにくいと思いますが、これから私たちのなかにある、理論学習にさいしての実用主義的あやまりを明らかにするなかで、理解していただければよいと思います。

すぐに役立だない学習はアソビか?

 私たちは、もともと実践のために理論を学んでいるのですが、もしこのことをせまく考えますと、すぐにあやまった傾向が出てきます。一、二の例をあげましょう。

 科学的社会主義の基礎理論や、古典を学ぶことはたいへんよいことです。労働者が正しい世界観を身につけ、長期にわたるたたかいをすすめるうえで、どうしてもかかせないことだからです。ところが、最近、あからさまではないにしても、こういう傾向を望ましくないと考えている人もおります。「春闘や選挙闘争のこの忙しい時期に、何も哲学なんか学ばなくってもよいだろうになァー」と。

 これがあやまりであるということは、すでにこの本を読んでこられたみなさんには、よくおわかりのことと思います。もし、この考えが極端なものになりますと、労働者はいつまでたっても基礎理論を習得できないことになります。自覚した労働者、社会変革をめざす労働者の生活は、毎日毎日、実践活動に追われているのですから。

 こんな例もあります。それぞれの政党や大衆組織で出される論文や決定、あるいは古典の学習などでも同じですが、最初から最後までを苦労して読みとおすのではなく、自分にとって都合よさそうな、明日か明後日の活動に役立ちそうなところだけを抜き読みして、それを基礎理論の練習とおきかえる人がいます。これもむろんあやまりです。これでは、自分の抜き読みしたところに書いてあることすら正しくつかむことはできません。

 ここにあげた二つの例は、実は活動家に案外多く見受けられる例です。

 長期的な展望をもつこと

 もちろん、学習の内容には、毎日毎日の活動にとって直接役立つものがふくまれていることは当然です。しかし、また一方、思想建設、思想改造という仕事の根本は、一人ひとりの頭のなかにあるブルジョア的、小ブルジョア的思想を科学的社会主義によっておきかえるわけですから、今日一段、明日二段というように、目に見えて前進するというようなことは、まずありません。思想闘争がもっている他の闘争とのちがいをしっかり知ることが必要です。

 当面する活動に役立てるためだけのことを考えていますと、当然、ゆきあたりばったりの理論学習となってしまい、いつまでたっても、問題を系統的に、全面的にとらえる能力は生まれてこないでしょう。それは、その場その場をなんとこかやりくりすることはできるかもしれませんが、大衆に心から信頼され、頼りにされる活動家となることはできません。そのような人を八方美人≠ニかや手≠ニ呼ぶことがありますが、この言葉のなかに、軽蔑が込められていることは、だれでも知っていることです。またこのようなやり方では、敵に打撃となるような活動を行なう能力もけっして生まれるものではありません。

 長期的な展望に立って、学習の内容を基礎的なものと実際的なものとの二つをたえずたくみに配分しながら、学習をすすめていくことこそが、正しい学習のあり方です。

 総合的な知識をもつこと

 私たちは第一章の三で、科学的社会主義とは何かを学んだときに、科学的社会主義と他の学説との関係を考えました。そして、そこで得た結論は、私たちは、さまざまな知識で頭脳を豊かにしなければ、科学的社会主義すらも正しくは理解できないこと、科学的社会主義さえ学べばあとのことはどうでもよい、という態度はあやまりだ、ということでした。

 このように総合的に学ぶということは、現在、たいへん大きな意義をもっていることです。それというのは、すでに述べたように、情勢はきわめて復雑となっており、労働者と国民の要求もひじょうに多彩で多面的です。今日、みんなに信頼される活動家となるためには、みんなのもつさまざまな要求を深くつかんで、その一つひとつにこたえていくのでなければなりません。そのためには、あらゆる部門、たとえば文学、芸術、あるいはスポーツなどについてもそれぞれ基本的な知識をそなえることがどうしても必要になってきているのです。いいかえれば、広い意味でめ真の教養を身につける必要があるということです。

このような必要性は、とくに最近になってあらわれたというのでなく、もともと科学的社会主義を学ぶということは、総合的に学ぶということを意味していたのですが、そのような必要性が正しく理解されていなかったために、その努力がされておらず、したがって新しい最近の複雑な敵の思想攻撃に、正しく対処することができなくなってきているというのがほんとうのところです。敵の思想攻撃というさい、それを職場の思想攻撃だけにかぎって考えてはいけません。マスコミをはじめ社会的・日常的にさまざまなかたちの思想宣伝が、労働者と国民に向けて展開されているのです。

 けれども、活動家といわれる人びとのあいだには、科学的社会主義を学ぶということならば、それはおおいにけっこうと考えても、文学や音楽、美術などの芸術についての理論や、あるいはまた自然科学の理論などを学ぶことは、活動家にとってたいして意味がないことだと本気で考えている人がけっこういるのではないでしょうか。このような考え方は、私たちの学習を実践とむすびつける方向で行なっているつもりではあっても、長期的展望からみれば、けっして実践に役立つ理論学習とはならないでしょう。

 総合的な知識を身につけるということのもう一つの面は、「教条主義」(今日、一般に使われているのとはまったく同じではないが)とのたたかいという面です。これもまたよくあることですが、情勢の分析などを自分自身の頭で深く考えることによって行なうのでなく、民主的な団体の機関紙などにのっているものを言葉のうえだけで理解して、会議ではそれをすべてわかったような顔で話す──それが「情勢分析」であると称する人たちがおります。

 このようなことが起こってくるのは、活動家のみなさんの生活があまりにも忙しすぎるということをもあらわしていますが、しかし、私たちがそのような活動をつづけているとしたら、よくよく考えなおしてみなければなりません。国際情勢の分析といえば中東問題についてだけしか語らず、国内情勢の分析といえば米軍基地問題についてしかほとんど語らず、労働組合運動がどうなっているかとか、最近のマスコミ界の動きでのたたかいはどうなっているかというような、自分のならいおぼえたことがらの範囲を少々でもはみだすと、何がどうなっているか少しもわかっていないような活動家がけっして数少なくないということを、真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

 科学的社会主義を身につけていると思いこんでいる労働者にして、自分の企業の賃金体系や、あるいは労働基準法とかかわりあいのある職場の権利問題などについては、まるで何も知らないという人も少なくありません。そんなことで、どうして労資協調型の右翼的潮流の幹部の手ににぎられている指導権をくつがえすことができるでしょうか。

 「オウム返し」という言葉がありますが、それはちょうど、オウムが人間の言葉を聞いていては、そのまま話すということから、自分の頭で考えずに他人の言葉をそのまま受け売りすることを、「オウム返し」というようになったのです。まえに、今日、米日独占資本は日本の労働者階級をウの目タカの目でみていると書きましたが、敵がタカであるのに私たちがおしゃべりすることしか能のない、しかも、頭のなかは空っぽなオウムであったのでは、とうてい勝てるはずもありません。このような「教条主義」的な学習のやり方は、多くの場合、活動を一面的なものに導いてしまうことになります。総合的に学ぶということのもう一つの重要な問題は、科学的社会主義そのものを総合的に理解するということです。

 科学的社会主義はすでに学んだように、哲学、経済学、階級闘争論の三つから成り立っていますが、これを全体として統一的に学ぶということがどうしても必要です。なぜかといえば、科学的社会主義そのものが、全一的な世界観としてまとめられているものなのだからです。

 たとえば弁証法的唯物論と史的唯物論とはけっしてバラバラに理解されるはずのものでなく、同じように、哲学と経済学とをまったく切りはなしてしまうことはできません。もちろんそれらはそれぞれに別々の分野を担当している理論ですから、経済学だけをあるいは階級闘争論だけをとりだして学ぶことはできるし、それがまちがっているというのではありません。しかし、経済学を深く理解するためには、マルクス主義哲学の思想や方法が、そのなかにどのように生かされているのか、ということに注意を払わないわけにはいきません。また同じように、階級闘争の理論のうちにどのように哲学と経済学の観点がつらぬかれており、その科学的結論にいかに忠実であるか、ということをぬきにして階級闘争論を理解することはできないでしょう。

その意味で、科学的社会主義者は、その科学的教養を身につけるうえでもカタワ者であってはならないのです。よく「哲学には強いが経済学はまったくだめ」とか、「階級闘争の理論はたいへんおもしろいが、ほかはちっともおもしろくない」というようなことを耳にしますが、本来そのようなことが起こるはずがないのです。

 しかしそうはいっても、はじめて科学的社会主義を学ぶ人たちにとっては、ここに述べたような言葉は、ハッパとしてしか受けとめられないかもしれません。最初はだれでもがそうであるように、科学的社会主義のある部分から学ぶようになることは当然のことですから。ただ、私がここでとくに強調しておきたいのは、科学的社会主義のもっている重要な特徴である、三つの構成部分の統一性を正しく理解できるような学習態度をとってほしいということです。しかしそのためにはじっくりと腰をすえた学習が必要です。

ぼう大な科学的社会主義の体系のなかからとりあえず役に立つものを切りとってくるような、実用主義的な学習方法では、とうてい科学的社会主義の真髄にふれることはできないでしょう。科学的社会主義を攻撃している最近の「左」翼日和見主義者たちが、とくにこの点で、つまり、科学的社会主義の全面的な理解という点で極端な怠け者であるということを、私たちの問題としてもよくよく考えてみなければならないと思います。
(畑田重夫著「現代人の学習法」学習の友社 p94-101)

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役に立つから真理か
──プラグマティズム──

プラグマティズムの誕生

 一七七六年に独立宣言を発してアメリカ合衆国が誕生して以来、アメリカ国民は幾多の苦難の道を歩みました。政治的・経済的にはもちろんのこと、文化の側面でもヨーロでハの達成したさまざまな成果をうけつぎ、吸収しながらも、アメリカ独自の道を切り拓いていきました。一九世紀から二〇世紀にかけて、やっとヨーロッパの文化の移植を終えて、アメリカ独自の文化が花さくようになりました。文学では、「黒猫」「アッシャー家の崩壊」などで有名なエドガー・アラン・ボーなどが登場しましたが、哲学の面では、これまでのドイツ型の「重厚な」哲学とはちがった哲学思想、すなわちプラグマティズムが成立してきました。

アメリカ哲学というものがあるとすれば、その発端はこのプラグマティズムです。このプラグマティズムという名はギリシア語で「行動」を意味する「プラグマ」に由来するといわれています。プラグマティズムは「実用主義」と訳されることもありますが、誤解をうみやすいということで、原語のまま「プラグマティズム」と呼ばれます。

 プラグマティズムの代表者として、通常、次の三名が挙げられます。チャールズ・サンダース・パース(一八三九〜一九一四年)、ウィリアム・ジェームズ(一八四二〜一九一〇年)、ジョン・デューイ(一八五九〜一九五二年)がそれです。バースが創始者で、ジェームズが普及者、デューイが教育学への適用者ということがありますが、これはかなり俗っぽい言い方です。

わが国には、第二次世界大戦、太平洋戦争での敗戦後、アメリカ型の思想が流れ込みましたが、その代表的なものの一つがこのプラグマティズムです。日本とアメリカ合衆国とのあいだには、サンフランシスコ講和条約とともに、日米安全保障条約が締結されています。政治的・経済的に対米従属が進行しましたが、哲学の面でも対米従属が進みました。その典型が、分析哲学とともに、このプラグマティズムです。

チャールズ・サンダース・パースの考え方

 チャールズ・サンダース・パースは、一八三九年に、数学者ベンジャミン・パースを父として生まれました。ハーヴァード大学を卒業後、母校などで教壇にたったこともありましたが、人生の大部分は合衆国官吏として測量技師の仕事をしました。学問研究をやるにはハンディキャップの大きい仕事をしながら、パースはさまざまな業績をあげました。彼は貧困のうちの悲惨な晩年をおくりました。パースの死後十七年が経過してはじめて『著作集』が出版されました。彼の思想の影響が本格的に出はじめたのはそれからのことでした。

 プラグティズムの考え方の基礎はパースによってあたえられました。後継者であると自認したジェームズは著作のなかでたえずパースに言及しています。英米系の哲学者は、ドイツ系の哲学者とはちがって、大きな著書というものは書かず、もっぱら論文の形で自分の見解を展開します。パースもまたそうでした。彼の見解は二つの論文、すなわち「観念を明晰にする方法」と「信念の固定化」に典型的に現れています。そこでこの二つの論文の内容を併せて紹介しましょう。

 パースは次のように言います。科学的方法が推論の基準にならなければならない。ところが、もともと人間は疑いと信念のあいだをさまよっているものだ。ここで、疑いとは、落着かない、しかも満たされない状態であり、私たちはなんとかして信念に到達したいと願っているものである。これにたいして、信念とはおだやかに充足した状態であって、信念が生じたとき、私たちはある特定の仕方で行動できるようになる。そこで、疑いがあるあいだは、疑いがなくなるまで私たちを「探究」にかりたてる。こうした探究の目標は「意見の確立」である。パースはこのように主張します。

 「信念の固定化」の方法

 さて、この「信念の固定化」あるいは「意見の確立」には四つの道がある、とパースはいいます。

 第一の道は「固執の方法」と呼ばれます。この方法は、子どもがよくやるように、自己中心的な自己の欲望をそのまま正しいと主張するものです。たとえばある問題が起こり、しかも複数の解答があった場合、自分の好みでその一つを取り上げ、これが正しいと固執するものです。これは一般によくある話ですが、たしかに解答の正しさは保証されません。

 第二の道は「権威の方法」です。これは宗教上の、政治上の「権威」のもとに、意見を無理矢理一致させるもので、これもよくある話です。しかも、宗教や政治にかぎらず、芸術や学問の分野にも見られます・パースは、これを「権威の方法」という名で定式化したのです。

 第三の道は「先天的方法」です。パースは言います。「この方法のもっとも完全な実例は形而上学の歴史に見出される。この種の体系は一般に、観察された事実には立脚していない。……体系はその基礎をなす命題が『理屈にあっている』とみられたがゆえに主として採用された」。

 たとえば、ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔でおこなった有名な実験を考えてみましょう。この実験によって、空気の抵抗がなければ、物体はその質量にかかわらず、同じく落下することが分かりました。しかし、それまでは重い物体のほうが軽い物体よりも早く落下すると信じられていました。そのほうが常識的で、「理屈にあっている」と思われたからです。

 「科学の方法」による「観念の明晰化」

 以上の三つの方法はいずれも誤りであって、私たちは「科学の方法」によって観念を明晰にしなければならない、とパースは言います。彼は客観的な実在の存在を主張するように思えます。そしてこの実在の「性格は、この実在の事物についてのわれわれの意見とは全く独立している。この実在は規則的な正しい法則にしたがってわれわれの感覚に影響を及ぼす」というのですから、ますますそう思えます。しかし、パースには反映論の見地はひとかけらもありません。

 パースは次のように言います。「知覚の法則という利点を採用することによって、現実的しかも真実の在り方を推論によってたしかめることができる。そしてどのような人間でもそれについて充分な経験をもちまた充分に考えるならば、ひとつの真の結論にみちびかれるであろう」。

 よく読むと分かりにくい文章ですから、すこし例を使いながら、説明しましょう。科学者たち、たとえば物理学者たちがある対象について研究しているとしましょう。はじめは研究者たちの意見はさまざまに分かれます。これは研究の初期において、対象についてまだよく知られていないのですから、当然のことです。しかし、研究がすすんでくれば、しだいしだいに意見が一致してきます。私たちはそれを研究対象が一つなのだから当然だと考えます。これは自然発生的ですが、唯物論的な見地に立っているからです。たしかに、同じ物理学的対象について、アメリカ合衆国の物理学者とソビエト連邦の物理学者とでちがった理論ができあがるということは聞いたことがありません。

 ところが、パースはそこのところには触れません。ただ見解が一致するという現象だけをとらえ、それを科学の方法と名づけるのです。これは、客観的実在の存在への確信と私たちの認識能力への信頼を欠いており、不可知論か、あるいはもしかしたら主観的観念論におちいっていることを示しています。

間主観性または共同主観性について

 ここでついでながら、間主観性または共同主観性という言葉について、簡単に説明しておきましょう。不可知論または主観的観念論の立場に立つと、もっとも説明が困難なことは、人間相互の意見の一致の問題です。つまり、客観的実在は知ることができない、あるいは客観的実在は存在しないというのですから、たとえば物理学の理論について複数の学者の意見が一致したことの客観的根拠がないのです。そこで、主観同士をつなぐものとして、間主観性とか共同主観性というものをもちだすのです。

つまり、それぞれまったく交流のない主観と主観とのあいだには、間主観性とか共同主観性とかいうものがあって、これがあるから意見の一致、見解の一致があるのだというのです。これは明らかに、客観的観念論への譲歩、逸脱です。ということは、不可知論や主観的観念論はここでも破綻(はたん)していることを示しています。

 プラグマティストの公準

 プラグマティズムは、分析哲学と同様に、形而上学を排斥します。この場合、形而上学とは、唯物論とはちがって、経験的に検証する手段のないことがらを論じたりすること、あるいはそのような理論のことです。そのために、パースは有名な「プラグマティストの公準」というものを提唱します。まず、彼の主張を紹介しましょう。


 「何かについてのわれわれの観念は、その何かが与える感覚可能な結果についての観念である」。
 「われわれの概念の対象が持つと思うものはおそらく実際上のもろもろの効果を持ちうるであろうが、その概念の成果が何であるかを考えよ。その場合、その成果に関するわれわれの概念こそ、その対象に関するわれわれの概念の全部である」。


 なにやら、難しい言葉づかいですが、要するに、私たちがある観念をもったとき、その観念の意味するものはその観念にもとづいてなにかをおこなった結果にほかならないというのです。たとえば、「善」という言葉の意味は、「善」という観念をあれこれと詮索(せんさく)するのではなくて、「善」という観念にもとづいて私たちが行動した結果の集まりが「善」なのです。だから、また、私たちは「神」について語ります。「神は存在する」とか「神は存在しない」とかいうように。しかし、そんなことは問題でない。私たちが「神」という観念にもとづいて一定の行動をしたときのおこるすべてが「神」なのです。

 この場合の「行動」の内容が、主張する学者によって変わります。しかし、言っていることは、明らかに、主観的観念論にほかなりません。ある「観念」の内容はその観念がそれが反映している客観的実在をどのように把握しているかによって決まります。それなのに、プラグマティズムの主張によれば、ある観念の対象が実在するかどうかは度外視して、もっぱら「実際上の効果」だけを問題にじているのです。

つまり、「役に立つから真理である」と主張しているのです。「役に立つから真理である」のではなく、まさにその観念が客観的実在を正確に反映しているからこそ、その観念、知識が実際の役に立つのではないでしょうか。
(仲本章夫著「現代の流行思想」学習の友社 p199-207)

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◎「もし、この考えが極端なものになりますと、労働者はいつまでたっても基礎理論を習得できない……自覚した労働者、社会変革をめざす労働者の生活は、毎日毎日、実践活動に追われている」と。