学習通信081222
◎三文の値うちもない……

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 ちょっとみると、共産主義を学ぶということは、共産主義の教科書、小冊子、著作に述べてある知識の総和を習いおぼえることである、という考えがうかんでくるのは当然である。

しかし、共産主義の学習をこういうふうに規定するのは、ぞんざいすぎ、不十分すぎる。

共産主義の研究ということが、共産主義の著作や本や小冊子に述べてあることを習いおぼえることにすぎないとすれば、容易すぎるほど容易に共産主義的な経文読みや自慢屋ができあがるおそれがあり、それはわれわれにたえず害悪と損失をもたらすだろう。

なぜなら、そういう人たちは、共産主義の本や小冊子に述べてあることを習いおぼえ、読みあさりはしても、その知識全体を統一する能力がなく、共産主義が真に要求するようなやり方で行動することができないだろうからである。

 古い資本主義社会がわれわれに残した悪弊と不幸のなかで最も大きなものの一つは、本と生活の実際とがまったく分離していることである。

なぜなら、万事を非常にりっぱに記述している本はいろいろあったが、たいていの場合、それらの本は、資本主義社会をいつわった姿で描いてみせる、最も忌まわしい、おためごかしのうそだったからである。

 だから、共産主義について本に述べてあることを本のうえで習いおぼえるだけでは、非常なまちがいであろう。

いまわれわれの演説や論文は、以前に共産主義について述べられたことを、そのまま繰りかえしているわけではない。

なぜなら、われわれの演説や論文は、日常の各方面にわたる活動に関連しているからである。

活動もせず、闘争もしないのでは、共産主義の小冊子や著作からえた本のうえでの共産主義の知識は、三文の値うちもない。

なぜなら、それは、古くからある理論と実践の分離、古いブルジョア社会の最も忌まわしい特徴であるあの古くからの分離を存続させるであろうから。

 また、もしわれわれが共産主義のスローガンだけを習いおぽえるようになれば、いっそう危険なことになろう。

もしわれわれが、この危険をいちはやく理解せず、この危険を取りのぞくことにわれわれの全活動をむけないなら、こういう共産主義の教育をうけて共産主義者と自称する五〇万ないし一〇〇万の人々、若い青年男女の存在は、共産主義の事業に大きな損失をあたえるだけであろう。
(「レーニン「青年同盟の任務」レーニン一〇巻選集I 大月書店 p69-70)

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教養主義的あやまり

 実用主義的な学習態度が、理論学習を実践とむすびつけられなければならないということを強調しすぎたあまり生まれた学習方法とすれば、教養主義的な学習態度は、理論と実践との結合をまったくみないか、あるいは真剣に考えようとしないことから生まれてきたものです。

なんのための学習かを忘れない

 私たちの理論学習がなんの目的で行なわれるかは、何回も何回もくりかえし述ぺてきたことですが、実際に理論学習をすすめていく場合にも、たえずほんらいの目的を思いおこすようにすることが大切です。「なんのために学ぶのか、そしてだれのために学ぶのか」と。

エライ人になるな

 工場ではたらいている労働者は、工場長などの会社の幹部を「エライ人」と呼んでいます。ところが私たちは集団学習などで、ときおりこういった、エライ人と呼ぶにふさわしいような活動家にぶつかります。たいへんよく本を読んでいるのでしょう、さかんにマルクスはこういったとか、レーニンはこういった、というような意見をボンボン出してきます。ほかの労働者はなんのことやらわからずに、ただ感心したような顔をして、そのエライ人をみています。

 学習会にあてられた時間の半分以上がその人の意見でうずめられてしまい、あとは、ほかの労働者が遠慮がちにボツボツしゃべるというありさまです。ところが、残念なことは、そのエライ人の話がその内容からいえば、ほとんど言葉遊びにすぎないようなものであることが多いということです。私たちの理論学習は、このようなたぐいのエライ人を生み出すために行なうものであってはならないと思います。もっともっと謙虚な、それでいて底力をもっているような活動家を、多数生み出すためにこそ理論学習が必要なのです。

 「稲の穂は、実ればみのるほど頭が下がり、竹は成長すればするほど先が土にたわむことができる」のです。理論的に深まれぱ深まるほど、ますます腰を低くして、大衆のなかにはいって大衆に学びつづけることができるような人こそが、私たちのホープなのです。

 いわゆる「評論家」はもうたくさん!

 さっきのエライ人はどこの職場にもたいてい一人か二人はいるものですが、それとちがった種類のいわゆる「評論家」もまたときどき育ってきます。この場合の評論家とは、一方では雑学者、つまり物知りであり、一方では弁舌さわやかなおしゃべり屋さんです。

ところが、活動家のなかに、けっこうこういう人が見受けられるのです。会議に出るとペラペラと油紙に火がついたようにしゃべるのですが、油紙ですから会議が終わったとたんに燃えつきてしまいます。決定の討論には参加するが、決定の実践にはほとんど参加せず、実践の結果がうまくいけば、おれのいったとおりだといい、失敗すればそれみたかとか、最初からわかっていたんだ、などというような顔をして、責任を感じているようなそぶりはすこしもみせません。

 以上は、もちろん極端な例ですが、それに近いところまで育っている「準評論家」はあんがい多いのです。高度に発達した資本主義国である日本には、その文化の高さ≠ほこるかのように、政治評論家、婦人問題評論家から競馬評論家、野球評論家にいたるまではいて捨てるほどの数のブルジョア評論家がひしめいていますが、人民のたたかいに責任をもたず、それに参加をすることのないこの連中は、実に無責任な発言をしてこころある人びとの怒りをかいますが、私たちの仲間のなかから育ってくるいわゆる「評論家」も、どうもタイブとしては似ているようです。

 評論家はもうたくさん! 私たちは自分たちの理論学習の態度のなかに、いわゆる「評論家」としての芽生えにたえず注意をむけなければなりません。

 理論学習は実践のため

 この問題はすでに何回もふれてきたことがらなので、みなさんにはよくわがっていると思いますが、教養主義的な学習のあやまりをおかさないためには、やはりこのことを何回も思いかえす必要があるのです。もちろんすでに述べたように、実践的な課題と理論学習をむすびつけるということは、理論の一部を都合のいいように切りとって実践にはめこもうとすることとはちがいます。しかし同時に、最初、理論学習も活動の経験も浅いために、自分自身としてはそのつもりでなくても、結果として理論を機械的に実際活動にあてはめようとすることも起こります。そしてそれはしかたのないことです。

第二章の一でゲンソクさん≠フ話を書いたときに述べたようなやり方で、くりかえしくりかえし理論と実践の結合のための訓練をつむよりほかに、どうしようもないことです。
(畑田重夫著「現代人の学習法」学習の友社 p102-105)

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◎「なぜなら、それは、古くからある理論と実践の分離、古いブルジョア社会の最も忌まわしい特徴であるあの古くからの分離を存続させるであろうから」と。