学習通信090108
◎貧困を目に見える形で社会に突きつけ……

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朝の風
「派遣村」が作った歴史

 元日に、東京日比谷公園の「年越し派遣村」を訪ねて心ばかりのカンパをしてきた。その後事態は急進展、閉村日の五日には入村した人たちが国会ヘデモ行進すると聞いたので、そこへもはせ参じた。

 長い隊列のなかには、大きな荷物を抱えたまま歩いている人もいた。応援の労働組合や団体は色とりどりののぼりをはためかせていたが、参加者が手にしていたのは段ボールや画用紙に手書きした即席プラカードであった。「(Change派遣法」「人間は物じゃない」などは青年、「We have family! Help us」をかかげていたのは外国人男性だった。

 ボランティアらしい若い女性が「女の派遣もいるんだぞ」と書いた紙を持っていた。声をかけると「女性の方も派遣切りされているんです。でも、村には女性があまりみえなくて、どうしたかなあと心配で」という。新聞には母子家庭で職と住まいを失った人の記事もあった。ここにきていない大勢の人が、まだ支援を得られないままでいるのだ。

 それでも、「今すぐ必要なことを」という訴えにこたえて多くの人びとが協同した「派遣村」が、政治を動かした力は大きい。「ハケン村は歴史を作った」というプラカードもあった。この可能性をどうひらくか、これからの課題である。(佐)
(「赤旗」20090108)

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大都市

 ロンドンのように、数時間歩きまわっても町はずれらしきものにさえたどりつけず、近くに農村があると推測させるような様子がまったくない都市は、やはり独特なものである。こういう巨大な集中、こういう二五〇万人もの人が一つの地点にあつまっていることは、この二五〇万人の力を一〇〇倍にもした。

それはロンドンを世界の商業の首都におしあげ、巨大なドックをつくりだし、いつもテムズ川をおおっている何千という船をあつめた。私は、海からロンドン・ブリッジヘのぼっていくときに、テムズ川がくりひろげる光景ほど、堂々としたものを見たことがない。

建物の群、両岸の、とくにウーリッジから上流の両岸の造船所、両岸に沿っている無数の船、それはさかのぼるにつれてますます密集し、ついには川の中央の一筋の狭い通路を残すだけとなり、その通路を一〇〇隻もの船が矢のようにすれ違っていく──これらすべてのことがあまりにも大規模で、あまりにも大量なので、われを忘れるほどである。そしてイギリスの土地をふむ前に、イギリスの偉大さに驚嘆するのである。

 しかし、あとになってはじめて、これらすべてのことのために払われた犠牲が発見される。

大通りの舗道のうえを何日かうろつき、人ごみや、無限につづく馬車や荷車のあいだをやっととおりぬけ、世界都市の「貧民街」をおとずれたときに、そのときにはじめて、これらのロンドン人は、自分たちの町に満ちあふれている文明のあらゆる驚異を実現するために、自分たちの人間性の最善の部分を犠牲にしなければならなかったということ、少数の人びとがますます発展し、他人の力をあわせてそれを何倍にもしていくために、ロンドン人のなかに眠っている何百もの力が活用されず、抑圧されたということに気づくのである。

街路の雑踏がすでになにか不快なもの、なにか人間性に反するものをもっている。

おしあいながらすれ違っていくこれら数十万もの、あらゆる階級、あらゆる身分の人びとも、すべて同じ本性と能力をもち、幸福になりたいという同じ関心をもつ人間ではないのだろうか。

そして彼らもすべて、結局は同じ手段と方法によって自分の幸福を追求しなければならないのではないだろうか。

それにもかかわらず、彼らはまったく共通のものもなく、おたがいになすべきこともないかのように、走りすぎていく。

そして彼らのあいだの唯一の約束は、たがいに走りすぎていく群衆の二つの流れが停滞しないように、それぞれが歩道の右側を歩くという暗黙の約束だけである。

そしてしかも誰も他人には目もくれようともしない。この非人間的な無関心さ、各人が自分の個人的利益しか考えない非情な孤立化は、これらの個人が狭い空間におしこまれればおしこまれるほど、いっそう不快で気にさわるものとなってくる。

こういう個人の孤立化、こういう偏狭な利己心が一般に今日のわれわれの社会の基本原理であることを知ってはいるけれども、大都市の雑踏のなかほど、それが恥ずかしげもなく露骨に、また意識的に、あらわれるところはない。

人類が単子(モナド)へ分解され、その一つひとつがバラバラの生活原理とバラバラの目的をもっている原子の世界が、ここではその頂点にたっしているのである。

 したがってまた、ここでは社会戦争、つまり万人対万人の戦争(※)が公然と宣言されている。

わが友シユテイルナーのように、人びとはおたがいを利用できる奴としてしか見ていない。

みんなが他人を食いものにし、そのために強者が弱者をふみつけ、少数の強者、つまり資本家があらゆるものを奪いとり、多数の弱者、つまり貧民には、ぎりぎりの生活もほとんど残されていないということになるのである。

※〔訳注〕一七世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズ『リヴアイアサン』(一六五一年)のなかの言葉。この自然状態を克服するために、社会契約によって国家がつくられると、ホッブズは考えた。

 そしてロンドンについてあてはまることは、マンチェスターやバーミンガム、リーズにも、すべての大都市にもあてはまる。

どこにおいても、一方では野蛮な無関心と利己的な非情さが、そして他方では言語に絶する悲惨さがあり、どこにおいても社会戦争があって、どの家も厳重に警戒しており、どこにおいても法律の保護の下でおたがいが略奪しあっている。

そしてこれらすべてのことがあまりにも恥知らずに、あまりにも公然とおこなわれているので、ここであからさまにあらわれているようなわれわれの社会状態の諸結果に人はおどろき、恐れ、こういう気違いじみた行為がとにかく温存されていることを不思議に思うだけである。

 この社会戦争においては、資本、すなわち生活手段で生産手段の直接あるいは間接の所有が戦争をするための武器なのだから、こういう状態の不利益がすべて貧民にかぶせられてくることはあきらかである。

誰も貧民のことは心配してくれない。

貧民は荒波のなかへ投げこまれ、全力をつくして切りぬけていかなければならない。

幸運にも仕事にありついたとしても、すなわち、ブルジョアジーが彼を使って金もうけをしようというお恵みを与えてくれたとしても、彼には身体と魂とを結びつけておくだけでやっとという賃金が待っているのである。

仕事にありつけないときには、警察がこわくなければ盗みをすることができるが、そうでなければ餓死することができる。

ただしこの場合にも、警察は彼が静かに、ブルジョアジーの気にさわらないように、餓死するよう配慮してくれるであろう。

私がイギリスに滞在しているあいだに、少なくとも二〇人から三〇人の人が、まったく腹だたしい状態のもとで、直接に飢えのために死亡した。そしてその検死のときにこのことを率直にのべる勇気のある陪審員はほとんどいなかった。

証人の供述がどんなに明白で、どんなに疑問の余地のないものであっても──ブルジョアジーは、自分たちのなかから陪審員がえらばれているので、餓死という恐ろしい判決をまぬかれる逃げ道をいつももっていた。

しかしこの場合、ブルジョアジーは真実を語ることは許されない。

真実を語れば自分自身に有罪判決をくだすことになるであろう。

しかし間接的には多くの人が──直接的によりもさらに多くの人が──餓死している。

というのは、十分な生活手段がずっと不足しているために生命にかかわる病気がひきおこされ、その犠牲者の生命が奪いとられるからである。

さらに、生活手段の不足のために衰弱し、そうでなければ無事にすごせたであろうような場合でも、必然的に重病と死がひきおこされるからである。

イギリスの労働者はこれを社会的殺人と名づけ、こういう犯罪を絶えずおかしているとして、社会全体を告発している。

彼らは間違っているだろうか?

 もちろん、餓死する人は少数にすぎない──しかし労働者には、明日にでも自分がその列に加わらないという保証があるだろうか? 誰が労働者にその地位を保証してくれるだろうか? 彼が明日にでも雇主からなんらかの理由で、あるいは理由もなく、解雇されたときに、彼に「パンを与えてくれる」次の雇主を見つけるまで、家族とともになんとか暮らしていく保証を、誰が与えてくれるだろうか。

すすんで働く気さえあれば仕事にありつけるとか、正直、勤勉、節約、その他、賢明なブルジョアジーが彼にすすめてくれる多くの美徳が、ほんとうに幸福にいたる道であることを、誰が労働者に保証してくれるのか? 誰も保証はしてくれない。

労働者は、今日はいくらか持っていても、明日もやはりいくらか持っているかどうかは自分では決められないということを知っている。

風向きが変わり、雇主の気が変わり、景気が悪くなれば、彼はそのたびに、一時的にはのがれでることのできたはげしい渦巻きのなかへまきこまれ、そこから浮かびあがることはきわめて困難であるか、しばしば不可能であるということを知っている。

彼は今日は生きていることができても、明日も生きていられるかどうかは、きわめて疑わしいということを知っている。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p50-54)

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野党よびかけ院内集会
派遣労働者の生活 超党派で守ろう
志位委員長訴え

「年越し村」の参加者も集う

 「派遣切り」が社会問題になるなか、派遣労働者らの雇用と生活を守ろうと野党各党が呼びかけた院内集会が五日、参院議員会館で開かれました。日本共産党、民主党、社民党、国民新党など野党各党の代表のほか、厚生労働省の大村秀章副大臣や自民、公明の各議員も参加。同日まで東京・日比谷公園での「年越し派遣村」に来ていた派遣労働者らも多数参加しました。

 「派遣村」村長の湯浅誠・NPO法人自立生活サポートセンターもやい事務局長があいさつし、「五百人が命をつないできた。全体の数から言えば、一握りだ。人々が生活し、ここで頑張っていこうと思えるためには、社会の支える力、政治の力が必要です。その力を発揮していただきたい」とのべました。

 日本共産党の志位和夫委員長は、年越し派遣村の活動について、「路頭に放り出された労働者の命を守る仕事をした。同時に、貧困を目に見える形で社会に突きつけ、政府を動かした。大きな歴史的な仕事だった。敬意を表したい」とのべました。

 志位氏は、「これは政治災害であり、政治の責任が問われている」として、(1)生活と住居、職業を政府の責任で保障させる(2)全国各地に同じような避難所を作り、救援を行わせる(3)「派遣切り」防止・失業者支援の緊急立法をおこなう―ことについて「超党派で実現をめざして取り組みたい」とのべました。

 集会では、民主党の菅直人代表代行、社民党の福島瑞穂党首、国民新党の亀井久興幹事長らがあいさつしました。
(「赤旗」20090106)

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◎「この社会戦争においては、資本、すなわち生活手段で生産手段の直接あるいは間接の所有が戦争をするための武器なのだから、こういう状態の不利益がすべて貧民にかぶせられてくることはあきらかである」と。