学習通信090109
◎現象と本質をただしく統一的に……

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b 事実と経験にたいする見かた

 労働者の階級的成長を助けるときに、決定的にたいせつな唯物諭的な原則は、事実と経験を重視することである。

 経験とは、人びとが外部のものごとにはたらきかけ実践するなかでたくわえられる、社会的な実践の総和といえよう。

 労働者とは、資本主義社会の支配と搾取のもっともゆたかな経験者だ。それはどのような理論家・指導者といえどもおよばない! ここで、労働者よりも資本主義の搾取の実体を「知っている」そぶりで立ちあらわれる理論家、指導者たちがいるとしたら、もうそこに労働者に学ぶことを自覚しない「思いあがり」ぶりを見てとれるとさえいえよう。

 経験には、直接的経験と間接的経験とがある。直接的経験とは、自分がじかに経験したことをさし、間接的経験とは、他人の直接的経験をさすわけだ。もし、だれかが、自分の直接経験しか信用しないとするならば、その人は、いまライターを用いていることさえもただちにやめなければならないということになる。

なぜなら、自分の直接経験しかみとめないとすると、火をおこすために石をすりあわせる直接経験から始めなければならないからである。つまり、私たちのこんにちの生活は、祖先や先人の歴史的経験から学びとり、他の人びとの直接的経験の概括のうえになりたっているわけだし、それらの経験を概括し体系化したものとして、理論的知識が成立していることをみとめなければならないのである。

 だが、階級的に成長していない労働者は、みずからの直接的経験をみとめ信じるが、ひとたび間接的経験とその概括としての理論になると、たやすくはうけつけようとしないのである。そこで活動家が、「理論の重要性」をいくら強調してもカラまわりを感じるということになるのである。

 いったい、こうしたときになにがたいせつなのだろうか。それはつまり、労働者のもつ直接的経験をあきらかにし、それに労働者自身が目をむけて、みずからの直接的経験をはっきりととらえることを助けるべきである。直接的経験をつうじてはじめて、現実を反映する道がひらかれる以上、私たちはそうせねばならないのだ。また、直接的経験がゆたかであるかどうかが、間接的経験をうけいれ、ふかく吸収するかどうかを左右するものでもある以上、私たちは、労働者のもつ直接的経験を重視しなければならないのである。たとえば、搾取の直接的経験をもつ労働者こそが、階級闘争の理論の吸収を正確にふかくなしうるといえるようにである。

 しかし私たちは、この直接的経験には、そこの具体的な、したがって特殊的な、偶然的な草案がからみついていることをあきらかにすることを忘れてはならない。そのことがらに共通するもの、そのことのなかにある本質とはなにかをさししめすには、直接的経験だけでは限界があり、せまさのあることをしめし、他の仲間の経験に目をむけ、そこから共通する本質をつかみとり、そのうえにすすんで理論的把握をもてるように助けていかねばならないのである。

直接的経験をとらえることだけにとどまることを「経験主義」とよべるならば、経験を無視して「かくかくしかじかこそが、本質だ」と本質議論だけをくりひろげるのを「教条主義」ということができよう。こうして私たちに必要なのは、労働者の直接的経験に根ざし結びついて、科学的理論で本質をあきらかにするというはたらきかけ、活動である。

 私たちは、事実というものをもっと重視せねばならない。事実とは、客観的に存在する現象、過程そのものである。したがって労働者の認識は、この事実を正しくとらえることによって高められるのである。なぜなら、階級社会のさまざまな事実は、階級的性格をもっているからだ。

 ところで、事実というものは、二つの側面、つまり外的な側面と内的な側面、現象と本質とに分けられる。労働者は、さまざまな事実に直面しているわけだが、しばしば現象的なものに目をしばりつけられているのが実状だ。しかし、労働者の目にうつっている現象を否定してかかり、本質だけをぬきだした「解明」に終始するのでは、労働者のもっている「事実」についての感覚との「くいちがい」をうめることになかなかなりにくい。

たとえば、生活の「近代化」という現象だけに目がとまっている労働者に、搾取という本質ばなしだけでは「ピンとこない」のひとことで片づけられることになるといったようにだ。ここで、よく活動家が手をあげてしまうか、みずからがとらえていた本質について懐疑的な気分におちいることもありうるのだ。問題は、自分が現象と本質をただしく統一的にとらえなかったことにあるとは気づかずにである。

 レーニンは、現象と本質について「たとえば、川の運動──泡は表面に、そして深い流れは下に。しかし泡もまた本質の一表現である」(『哲学ノート』)とのべている。そのように、現象とは、たえずうごきうつりかわる。ある現象は泡のように消えさり、また別の現象が生まれてくる。現象とは多様なものだ。

だがそれらの現象はさまざまな角度、側面から本質を表現し、本質をその一部にふくんでいるわけである。そうした現象のなかにも、比較的に本質を正面からあらわしている現象──たとえば、資本による労働強化の目に見えるかたちでの実施──と、側面から本質をあらわしている現象──たとえば、一定の賃あげを譲歩によって資本が支払うといったこと──と、まったく本質を逆立ちさせてあらわす仮象──資本があたかも労働者に対等な人間関係を求めているかのようなよそおいをとる──といったものなどがある。これらのさまざまな性質をもった現象全休をつらぬいているのが、資本の労働者にたいする搾取という本質である。

しかし、おおくの労働者は、たとえば、仮象から資本を判断したり、一、二の現象から資本をとらえたりしがちなのである。しかもそれは不可避なのだ。というのは、現象は直接的に感覚にうつしだされ、本質は現象をつうじてしかあらわされず、人間は、現象をつうじてしか本質へ接近できないものであるからだ。

 したがって私たちは、労働者がどのような現象について、どのような感じをもっているのかをつまびらかにせねばならないのである。そうして、そのような現象には、本質がどのような条件・環節を媒介としてあらわされているかをあきらかにせねばならないのである。現象だけにかかずらわっているとき、なにがなんだかとらえどころのない「袋小路」におちいるが、また、本質だけを現象から切り離してとりあつかうとき、その本質論は生命力をもたないものにおちいるのである。

 私たち活動家は、理論を学び、ものごとの本質をわきまえている。しかし、その理論や本質の認識は、それをふりまわすためにあるのではなく、多様な諸現象をすきとおるようにあきらかにできるというところに力を発揮すべきものなのである。そうしてこそ、おおくの労働者たちが、現象から本質へと認識をすすめるよう助けられる。

私たちが確信してよいのは、労働者はかならずそのように前進できるし、また、ひとたび本質的認識をもった労働者は、つぎにはどのような現象にもまどわされることなく、階級的に成長していくであろうということである。

おおくの活動家たちがあゆんできた道を、さらにおおくの労働者が同じようにあゆむにとはまちがいないのである。ただ、そのために先導者が、おおくの労働者の意識の段階と成長にピッタリとつきそった役割をはたすことが必要なのである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p67-72)

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第六篇 労 賃

第一七章
 労働力の価値または価格の労賃への転化

 ブルジョア社会の表面では、労働者の賃銀は、労働の価格、すなわち一定分量の労働にたいして支払われる一定分量の貨幣として現われる。

この場合には、人は、労働の価値について語り、この価値の貨幣表現を労働の必要価格または自然価格と名づける。

他方、人は、労働の市場価格、すなわち必要価格の上下に変動する価格について語る。

 しかし、商品の価値とはなにか? 商品の生産に支出される社会的労働の対象的形態である。

また、われわれは、この価値の大きさをなにによってはかるのか? 商品に含まれる労働の大きさによってである。

それでは、たとえば一二時間労働日の価値は、なにによって規定されるのであろうか? 一二時間労働日に含まれる一二労働時間によって──これは、ばかげた同義反復である。

 労働は、商品として市場で売られるためには、それが売られる以前に必ず実存していなければならないであろう。

しかし労働者が労働に自立的実存を与えうるのであれば、彼は、商品を売るのであって、労働を売るのではないであろう(22)。

(22)「諸君が労働を商品と名づけるとしても、労働は、商品──まず交換するために生産され、次いで市場にもっていかれ、そこで、そのとき市場にありうる他の商品とそれぞれ相応の割合で交換されなければならない商品──と同じものではない。労働は、市場にもっていかれる瞬間につくり出される。いやそれどころか、労働がつくり出されるより以前に、市場にもっていかれるのである」(『経済学におけるある種の用語論争の考察』、七五、七六ページ)。

 このような相互矛盾は別としても、貨幣すなわち対象化された労働と、生きた労働との直接的交換は、まさに資本主義的生産の基礎上ではじめて自由に展開される価値法則を廃除するか、または、まさに賃労働にもとづいている資本主義的生産そのものを廃除するであろう。

一二時間の労働日が、たとえば六シリングの貨幣価値で表わされるとしよう。

いま、等価物どうしが交換されるものとしようそのときには、労働者は一二時間の労働にたいして六シリングを受け取る。彼の労働の価格は、彼の生産物の価格と等しいであろう。

この場合には彼は、労働の買い手のためになんらの剰余価値をも生産せず、六シリングは資本に転化せず、資本主義的生産の基礎は消滅することになるであろうが、しかし、この資本主義的生産の基礎上においてこそ、労働者は自分の労働を売り、彼の労働は賃労働なのである。

また、労働者は一二時間の労働にたいして六シリングよりも少なく、すなわち一二時間の労働よりも少なく受け取るものとしよう。

一二時間の労働は、一〇時間、六時間などの労働と交換される。

このように不等な大きさを等置することは、価値規定を廃除するだけではない。

このような自己自身を廃除する矛盾は、そもそも法則として言い表わし、または定式化することさえできない(23)。

(23)「労働を一商品として取り扱い、また労働の生産物である資本を他の一商品として取り扱う場合に、もしそれら二商品の価値が等しい量の労働によって規制されるとすれば、ある与えられた量の労働は……それと等しい量の労働によって生産された量の資本と交換されるであろう。過去の労働が……それと同じ量の現在の労働と交換されるであろう。しかし、労働の価値は、他の商品との関係では……等しい量の労働によって規定されはしない」(E.O・ウェイクフィールド編、A・スミス著「諸国民の富」、ロンドン、一八三五)

 一方は対象化された労働であり、他方は生きた労働であるという形態的区別から、より多くの労働とより少ない労働との交換を導き出すことは、なんの役にも立たない。

一商品の価値は、現実にその商品のうちに対象化されている労働の分量によってではなく、その商品の生産に必要な生きた労働の分量によって規定されるのであるだけに、右の導き出しは、なおのことばかげている。

ある商品が六労働時間を表わすとしよう。

もしこの商品を三時間で生産しうる諸発明がなされるならば、すでに生産された商品の価値も半減する。

この商品は、いまや、以前の六時間ではなく、三時間の社会的必要労働を表わす。

したがって、商品の価値の大きさを規定するのは、その商品の生産に必要な労働の分量であって、労働の対象的形態ではない。

 商品市場で貨幣所有者に直接に相対するのは、実際には労働でなくて労働者である。

労働者が売るものは彼の労働力である。

彼の労働が現実に始まるやいなや、彼の労働はすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られえない。

労働は価値の実体であり、価値の内在的尺度であるが、労働そのものはなんらの価値ももたない。

 「労働の価値」という表現においては、価値概念が完全に消し去られているだけでなく、その反対物に変えられている。

この表現は、たとえば土地の価値と同じように、一つの想像上の表現である。

とはいえ、これらの想像上の表現は、生産諸関係そのものから発生する。

それらは、本質的諸関係の現象形態を表わすカテゴリーである。

現象においては物がしばしばさかさまに見えるということは、経済学以外のすべての科学ではかなり知られている(26)。

(26)これに反して、これらの表現を単なる詩的許容≠ナあると言明することは、分析の無能力を示すだけである。

それゆえ、私は、「労働が価値を有すると言われるのは、労働が商品そのものではなく、価値が労働のなかに潜勢的に含まれていると考えられるからである。労働の価値とは、比喩的な表現なのである……」というプルードンの空文句に反対して、次のように述べる

──「一つの恐るべき現実性である商品としての労働のなかに、彼は、文法上の略語法しか見ない。それゆえ、労働の商品的性格に基礎をおくこんにちの社会全体が、今後は、詩的許容のうえに、比喩的表現のうえに、その基礎をおく。もし社会が、自分を苦しめる『すべての支障を取りのぞ』こうと思うなら、社会は、この耳ざわりな表現を取りのぞき、言葉を変えればよい。そのためには、社会がアカデミーに辞書の新版を出版するように申し出るだけでよい」(K・マルクス「哲学の貧困』)。

もちろん、価値についてはまったくなにも考察しないほうが、もっと好都合である。その場合には、すべてをあっさりとこのカテゴリーのもとに包摂することができる。

たとえばJ・B・セーがそうしている。「価値=vとはなにか? 答え──「ある物が値するところのものである」。また「価格=vとはなにか? 答え──「貨幣で表現されたある物の価値」。それでは、なぜ「土地の労働が……価値をもつのか? 人がそれに価格をつけるからである」。したがって、価値とはある物が値するところのものであり、土地は、人がその価値を「貨幣で表現する」から「価値」をもつのである。これは、いずれにせよ、物のなにゆえに≠ィよびなんのために≠ノついて了解するためのきわめて簡単な一方法である。
(マルクス『資本論』新日本新書C p915-920)

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総選挙勝利を党史に刻む年に
「党旗びらき」での 志位和夫委員長のあいさつ

以上略

綱領こそ日本の未来をてらす羅針盤
――総選挙勝利を歴史に刻む輝かしい年に

 みなさん、思いおこすと、一昨年の参院選で悔しい後退を喫したさい、五中総決定では、「国民が、自公政治に代わる新しい政治の中身を探求する新しい時代、新しい政治のプロセスが始まった」という見定めをおこない、党の前進の道筋を示しました。あの当初は、納得を得るのに大議論が必要だったと思います。しかし、いま振り返るならば、昨年は間違いなく「新しい政治プロセス」を前向きにすすめた一年となったし、それを担ったのは、草の根で国民と結びついた全党のみなさんのたたかいでありました。ここにはわが党ならではの不屈性が示されています。そしてそういう大局的見定めをやれたのは綱領の力にほかならないということを、つくづく痛感いたします。

 自民党政治は、その「司令塔」が二つながらに破たんをきたし、いまや方向を喪失した難破船として漂流している。そのもとで日本共産党綱領こそ、日本の未来をてらす羅針盤です。ここに深く確信をもって前進しようではありませんか。

 昨年の奮闘が実るかどうか。それは、これからの一日一日の奮闘にかかっています。今年を、衆議院選挙と東京都議会議員選挙の前進・躍進を党史に刻む輝かしい年とするために、そして「国民が主人公」の民主的政権への大きな第一歩を踏み出す年とするために、力いっぱい奮闘しようではありませんか。(大きな拍手)
(「赤旗」20090106)

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◎「現象においては物がしばしばさかさまに見えるということは、経済学以外のすべての科学ではかなり知られている」と。