学習通信090113
◎有名なセント・ジャイルズの「からすの巣(rookery)」……
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都市の形成にあたり、街路にその重要な意義を見出しそれに強い愛情を感じてきたのは主としてラテン系の民族であり、アングロ=サクソン系はそれにつぎ、わが国は最も遅れをとってきたといえよう。
特にイタリア人にとっては街路は、彼らの生活の一部であり、単に交通のためのみならずコミュニティーとして存在した。
ボローニャの柱廊(ボルティコ)は気候上有用であるが、それにもまして生活習慣の上からきわめて重要であることを、B・ルドフスキーは次のように述べている。
「コロネードの下を一日中往き来しているボローニャ市民は、それでも一日二回毎日の習慣となっている、ドームの向いのポルティコ・デル・バヴァリオーネの下の儀式的な散歩を欠かそうなどとは決して思いもしないだろう。正午および夕暮時に、たくさんの人びとがこの町で最大の都市の廊下をぐるぐる歩きまわるのだが、その時友達にまったく出会わないことなど不可能だといえる。……」と。
確かに、イタリア人にとっては街路は生活の一部であり、愛着のあらわれであった。それに対しイギリス人は街路についてはそれほどでもなかったことを、B・ルドフスキーは続けている。
「確かに、イギリスは都市社会のモデルとしては望ましいものではない。彼らほど田園生活に熱烈に執着した国民はないのだから。それにはもっともな理由があった。というのは、彼らの都市は伝統的にヨーロパでもっとも不健全なものだったのだ。イギリス人は町に対してはたいへん忠節を尽すかもしれない。しかし街路──これこそアーバニティーの目安である──に対してはさしたる愛着を示さない。彼らは好んでパブの微酔い(ほろよい)気分の雰囲気の中へ避難する。テニスン卿が「我厭うなり広場や街路を、そこにて出会う顔もまたしかり」と詠む時、それは多くのイギリス人を代弁しているのだ。……」と。
このことは、街路のみならず都市のオープン・スペースとして、イタリア人は人々の出会いの場としての人為的な広場──「ピアツァ」──をつくってきたし、イギリス人は人々の出会わない休息の場としての自然的な公園──「パーク」──をつくってきたことでも明らかであろう。
わが国の都市では、歴史的に見て、イタリアの広場やイギリスの公園のような外部空間には一般的には無関心であり、芸術的に優れた室内空間はあっても公共的に優れた街路空間やオープン・スペースを芸術的につくるという意図は少なく、また立ち遅れており、現在でも外国のそれらに比べれば著しく見劣りのするものであると言えよう。
(芦原義信著「街並みの美学」岩波現代文庫 p49-50)
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どの大都市にも労働者階級が密集している『貧民街』が一つか、あるいはそれ以上、ある。
もちろん、貧民が金持の大邸宅のすぐそばの裏小路に住んでいることもよくあることだが、しかし一般的には貧民には別の地域が割りあてられ、そこでもっと幸福な階級の人びとの目につかないようにして、なんとか暮らしているのである。
こういう貧民街はイギリスではすべての都市にほぼ同じようにもうけられている──都市の最悪の地域の最悪の家は、たいていは三階建てか二階建ての煉瓦づくりの長くならんだ家で、ある場合には地下室も住居になっており、ほとんどどこでも家並はそろっていない。こういう三部屋か四部屋と台所のついた家は小屋(cottage)と呼ばれ、イギリスのどこにおいても──ロンドンの一部を除いて──労働者階級の一般的な住居である。
道路そのものも、ふつうは舗装されておらず、でこぼこで、汚くて、野菜のくずや動物の汚物がちらばり、排水溝も下水溝もなく、その代わりに、よどんだ臭い水たまりがある。さらに地域全体のつくり方が悪く、ごちやごちやしているために、風とおしが悪い。
またここでは多数の人が狭い空間に住んでいるので、この労働者地域にはどんな空気がただよっているか、容易に想像がつく。さらに天気のよいときには、道路が物干し場に使われる。家から家へと麻紐が斜めにはりめぐらされ、濡れた洗濯物がぶらさげられている。
こういう貧民街のいくつかを詳しく見てみよう。まずロンドンであるが、ロンドンには有名なセント・ジャイルズの「からすの巣(rookery)」がある。これはいま二、三の広い道路をとおすので、ようやくなくなることとなった。
このセント・ジャイルズはロンドン市のもっとも人口の密集した部分の真ん中にあり、ロンドンの上流社会の人たちがぶらつく美しい幅の広い街路にかこまれている──つまり、オックスフォード・ストリートとリージェント・ストリート、トラフアルガー・スクェアとストランドのすぐ近くにある。
そこは四階ないし五階建ての高い建物がごちやごちやと集まっているところで、道は狭く、まがりくねって汚いが、そこではこの都市をつらぬく幹線道路と少なくとも同じくらい活気がある。
ただ違うのは、セント・ジャイルズでは労働者階級の人びとしか見られないことである。
道路では市がひらかれ、野菜や果物のかごが、もちろんすべて品質が悪く、ほとんど食べられないようなものだが道をさらに狭くしている。
そしてそこからも肉屋の店からも、悪臭がただよっている。家には地下室から屋根裏まで人が住み、家の内も外も汚く、こんなところに人が住んでいるとは思えないほどである。
しかし、これらのものはみな、道路と道路のあいだの狭い路地や囲い地にある家にぐらべると、問題にならない。
家と家のあいだにあるかくれた通路をとおってそこにはいると、その汚さと荒れはてた状態は想像を絶する──完全な窓ガラスはほとんど一枚もなく、壁はくずれ、入口の柱や窓枠はこわれてがたがたになり、ドアは古板をよせあつめてうちつけてあるか、あるいはまったくついていない──この泥棒街では盗むものはなにもないのだから、ドアは不必要なのである。
ゴミや灰の山がいたるところにちらばっており、ドアの前にぶちまけられた汚水があつまって水たまりとなり悪臭を発している。
ここには貧民のなかでももっとも貧しい人びと、最低の賃金しか支払われていない労働者が、泥捧や詐欺師、売春の犠牲者といっしょに住んでいる──たいていはアイルランド人か、その子孫であり、自分自身はまだ自分をとりまいている道徳的堕落にまきこまれてはいないが、毎日毎日深く沈んでいって、窮乏や不潔や劣悪な環境の退廃的な影響に抵抗するカを日に日に失いつつある──。
しかしセント・ジャイルズだけがロンドンの唯一の「貧民街」ではない。
巨大な迷路のようにいりくんだ街路には何百、何千という名もない横町や小路があり、そこにある家は、いくらか人間らしい住居に金をだす余裕のある人にとっては、あまりにもひどすぎる家である──しばしば金持の美しい邸宅のすぐそばに、こういうもっとも貧しい人がひっそりと住んでいる家がある。
このように、最近、ある検死のさいに、たいへん上品な公共広場であるポートマン・スクェアのすぐそばのある地域が、「不潔と貧困とによって堕落した多数のアイルランド人」の居住地と特徴づけられたのであった。
また、たしかに流行の先端をいっているわけではないが、しかし上品なロング・エーカーなどのような街路にも、地下室の住居がたくさんあり、そこから病身の子どもの姿や、なかば飢えた、ぼろをまとった女性が陽のあたるところへあがってくる。
ドルーアリ・レーン劇場──ロンドン第二の劇場──のすぐ近くに、ロンドン全市のなかの最悪のいくつかの街路──チャールズ・ストリート、キング・ストリート、パーカー・ストリートがあり、ここの家にも同じように地下室から屋根裏まで、貧しい家族だけが住んでいる。
ウェストミンスターのセント・ジョン教区とセント・マーガレット教区には、統計協会の雑誌によれば、一八四〇年に五三六六の労働者家族が五二九四の「住居」──もしそれが住居といえるなら──に住んでいた。年齢や性別を無視して、男も女も子どももいっしょにして、合計二万六八三〇人が住んでいたのであるが、これらの家族のうち四分の三は、たった一部屋しかもっていなかった。
同じ雑誌によると、ハノーヴアー・スクェアのセント・ジョージという貴族的な教区にも、一四六五の労働者家族、計六〇〇〇人が同じような状態で住んでいた──ここでも家族数全体の三分の二以上が、一家族あたり一部屋の割合でおしこめられていた。
そして、もはや泥捧にさえ相手にされないこれら不幸な貧民が、有産階級によって合法的なやり方でどんなに搾取されていることか! 先にのべたドルーアリ・レーン近くのひどい住居では次のような家賃を払っている。
週あたり地下室住居二つで三シリング(一ターレル)、一階の一室で四シリング、二階の一室で四シリング六ペンス、三階の一室で四シリング、屋根裏部屋で三シリング──このように、チャールズ・ストリートの飢えきった住民だけで家主に年二〇〇〇ポンド・スターリング(一万四〇〇〇ターレル)の貢ぎものを払い、先にのべたウェストミンスターの五三六六家族は合計で四万ポンド・スターリング(二七万ターレル)の家賃を毎年支払っているのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p55-58)
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◎「しばしば金持の美しい邸宅のすぐそばに、こういうもっとも貧しい人がひっそりと住んでいる家がある」と。