学習通信090114
◎激増する「求職犯罪者」……
■━━━━━
人 工 災 害 ?
にしむら滋
派遣村に敗戦直後の体験かさねて
派遣村のようすをテレビで見せられて、コタツに入っておせちを食べてなどいられなくなったのは、私の世代の感性なのだろうか。
* *
むかし自分の人生にこんな場面があった……。しかもその場面の中に自分がいた、と思うからだ。敗戦時、二十歳だった。つまり成人として、新生日本とスタートをともにしていたのだ。事情あって、いまでいうホームレスだった私は、戦後のある期間、浮浪児(戦災孤児)や、空襲で家を失った人びとと、駅の地下道で生活をともにしていた。
みんな、それぞれの人生の道を所有していた人びとである。その「それぞれ」を、国の方針(戦争)によって、一括してさえぎられた人々だった。戦火に耐え、生きぬいてきた報酬が、宿なしのくらしなのだった。
ついこの間まで神サマといわれたひとが、人間であることをPRするため、戦災者を視察し、大切な肉親を失ったひとが涙ながらその哀しみを訴えるのを、にこやかに「あ、そう、」「あ、そう」と、いまの首相の名のような反応でかたづけられていたものだが、あ、そうどころではなく、地下道では、自殺、餓死、凍死が続出するのが珍しくない現実で、その中に青春を生きたせいか、私は戦災孤児(自分も孤児だったので)の中へのめりこんでゆき、それを原点として作家になった。
作家とは、原稿で稼いで家を建てるから作家というのだと思うひともいるようだが、いまだに自分の家を所有しないので借家である。反戦小説では自分の家を作れないのがこの国だから仕方がない。
* *
──そんな私だが、そんな私だからか、住む家のない人々のことは胸が痛む。「派遣切り」については、いろいろの見方や考え方もあるようで、私の知人でながく一定の職場でがまんしてきた男は、「まさかの場合の用意(貯金)もないのは」と批判的だが、そんな理屈よりも、私は派遣村でこのきびしい冬を迎えている人の寒さ(心も)を思う。
この人びとだって、それぞれの人生の道をたどってきたのだ。それが国の事情とかで、まるで歴史はくりかえすみたいに、その大切な「それぞれ」をホームレスにしてしまっている。まるで悪夢のようだ。敗戦の日のたそがれ、焼土にちらつく灯りを見て、二十歳の私は、戦火を生きぬいた喜びと、未来への希望に涙しつつ胸をふるわせたものなのに。それから六十余年、こんな日本になろうとは。
* *
地下道でくらしていた頃、同じ場所でしたしくなったおじさんは、オモチャ作りの名人だったが、戦争や、戦車や軍艦のオモチャを作るのを拒否(父親が戦死していたから)したため時局に合わないとクビにされ、戦後も復職できずにいた。その上、空襲で妻と子を焼死させていた。
おじさんは私の二十歳をうらやましがり、「これからは、一生懸命働きさえすれば、人間らしい幸せがつかめる、頑張りなさい」といってくれたが、それが遺言になって、極寒の日、肺炎になって地下道で死んだ。おじさんはわが不運を嘆く時によくいったものだ。
「これが、地震とか台風で、こうなったのなら、あきらめもつくかしれないが……しかし、戦争は人工災害で自然災害ではないからねえ」
この言葉が思い出される、派遣切りは自然災害ではないのだと……。
(「赤旗」20090114)
■━━━━━
大機 小機
治安対策としての就業自立支援
米ウオール街発の金融危機の拡大と実体経済への波及が、社会底辺の非正規労働者の解雇増を招き、凶悪犯罪を増加させている──。新春、こんな論調を耳にした。
確かに経済社会が健全に発展するためには、法秩序の維持と治安の確保が前提条件となる。しかし、我が国の高度成長を支えた良好な治安は、家族制度やコミュニティーの崩壊に伴い、とみに悪化している。グローバルな自由経済化がこの傾向に拍車をかけた事実は否めないが、むしろ問題は、従来の制度や関係者の意識が時代の急激な変化に対応できていない点にある。
国際交流の活発化に伴う外国人犯罪や、銃器薬物の密輸の増大などの社会的要因が、地域社会における住民の連帯感の喪失と結びつき、犯罪の予防を極めて困難にしている。こうした事情もあって犯罪発生の抑制対策は広範多岐にわたっており、司法当局にそのすべてを委ねるのは不可能であり、効率的でもない。
一九九〇年代当時、米国二ューヨークのジュリアーニ市長は、警察力を強化する一方で街のクリーン化、いわゆる「破れ窓」の撲滅などの市民運動を展開し、劇的に犯罪件数を減らして国際都市機能を蘇生(そせい)させた。
我が国の司法当局は巨大かつ複雑な組織である。官僚は必ず手続きにこだわるし、公的資金は一銭まで責任を明らかにしなければならない。犯罪予防の機動性は極めて乏しいと言わざるを得ない。
特に再犯率は一般刑法犯の検挙者の四割に達し、犯罪をした人を更生させる策が治安向上の鍵でもある。家族や社会から疎外される彼らに住居を手当てし、働く意義を教え、就業の機会を与えて経済的に自立させることが肝要だ。
現在、全国には善意の献身的篤志家(とくしか)として犯罪者の更生に携わる保護司が五万人いる。だが彼らの雇用に協力する事業者は六千五百で横ばいの状況である。これでは激増する「求職犯罪者」に比べて絶対数があまりにも少ない。
また近年、企業の社会的責任(CSR)を説く経営者は数多いが、実践活動において治安に協力する経営者はほとんどいない。折しも、いま特定非営利活動法人(NPO法人)「全国就労支援事業者機構」(仮称)の設立が関係者によって進められている。もし全上場企業がこの事業に積極的に参加するならば、社会各層の企業を見る目が大きく変わるに違いない。(悠憂)
(「日経」20090114)
■━━━━━
だが最大の労働者地区はロンドン塔の東──ホワイトチャペルとベスナル・グリーンーにあり、そこにロンドンの労働者の大部分が集中している。ベスナル・グリーンのセント・フィリッブス教会の牧師G・オールストン氏が彼の教区の状態についてのべたことを聞いてみよう。
「この教区には一四〇〇戸の家があり、そこには二七九五家族、約一万二〇〇〇人が住んでいる。こんなにたくさんの人が住んでいる土地の面積はわずか四〇〇ヤード平方(一二〇〇フィート平方)にもたっしない。このようにつめこまれているために、夫と妻と四、五人の子どもと、ときには祖父母までが一〇ないし一二フィート平方の一室で暮らしていて、そこで働き、食べ、寝ていることも珍しくない。
ロンドン主教がこのもっとも貧しい教区に社会の注意をむけるまでは、ロンドンのウェストエンドでは、この教区のことは、オーストラリアや南海諸島の未開人についてと同じように、知られていなかったと、私は信じている。
そしてもしわれわれがこういう不幸な人びとの苦しみをいったん自分の目で見て知るならば、またもし彼らが貧しい食事をとっているところをそっとうかがい、彼らが病気や失業でおちこんでいるところを見るならば、われわれはこんなにも多くの人びとが助けもうけられず、困窮していることに気づき、こういう状態があることをわれわれのような国民は恥じなければならないであろう。
私は三年間ハダズフィールドで副牧師をしていたが、そのころ工場は不景気のどん底にあった。しかし私がベスナル・グリーンにきてから見たような、まったく救いようのない貧民の状態は見たことはなかった。この付近一帯で作業衣以外の服をもっている戸主は、一〇人に一人もいないし、その作業衣もきわめて粗末でぼろぼろである。それどころか多くの人は夜にはこのぼろ服以外には掛けぶとんもなく、藁(わら)とかんなくずをつめた袋以外にはベッドもない」。
こういう記述から、われわれはすでに、これらの住居そのものの内部が一般にどうなっているかを知っている。余計なことではあるが、ときどきここにもはいっていくイギリスの役人のあとについて、いくつかのプロレタリアの住居にはいってみよう。
サリーの検死官カーター氏が一八四三年一一月一六日にアン・ゴールウェイという四五歳の女性の死体を検死したときに、新聞はこの死者の住居について以下のように伝えている。彼女はロンドンのバーモンジー・ストリートのホワイト・ライオン・コート三番地に、夫と一九歳の息子とともに小さな一部屋で暮らしていた。そこにはベッドも寝具もなく、それ以外の家具もなかった。彼女は、ひとかたまりの羽毛のうえで息子のかたわらで死んでいた。羽毛はほとんど裸の彼女の身体のうえにまきちらされていた。掛けぶとんもシーツもなかったからである。羽毛は彼女の全身にぴったりとくっついていたので、身体を洗い清めるまでは、医者は死体を調べることができなかった。調べてみると彼女はすっかりやせ衰えていて、身体一面、害虫に剌されていることが分かった。部屋の床の一部がはがされ、その穴を家族はトイレとして使っていた──。
一八四四年一月一五日の月曜日に二人の少年がロンドンのワーシッブ・ストリートの警察裁判所へ訴えられた。それは彼らが空腹のためにある店から生焼けの牛の足を盗み、すぐそれを食べてしまったためであった。裁判官はもっと調べてみようと思い、警官からやがて次のような説明をうけた。
この少年たちの母親はもと兵士でのちに警官となった人の未亡人で、夫の死後、九人の子どもをかかえてたいへん苦しい生活をしていた。
彼女はスピトルフィールズのクェーカー・ストリート、ブールズ・ブレース二番地に極貧状態で住んでいた。
警官が彼女のところへいったときには、彼女は六人の子どもといっしょに小さな裏部屋に文字どおりつめこまれ、家具といっても、底の抜けた古いござつき椅子二脚と、脚が二本こわれている小さなテーブルが一つと、こわれたコッブが一つと、小さなどんぶり以外には、なにもなかった。炉にはほとんど火の気もなく、部屋の隅には、一人の女性のエプロンにいれられるぐらいのわずかなぼろ布があったが、これが家族全員のベッドになっていたのである。身体にかけるものは粗末な衣服以外になにもなかった。
あわれな女性は警官に、ベッドは昨年、食物を手にいれるために売らなければならなかったし、シーツはわずかばかりの食料の抵当として食料品店にあずけてしまい、そしてただバンを手にいれるためだけに、なにもかも売らなければならなかったと語った──裁判官は彼女に慈善箱からかなりの金を貸してやった。
一八四四年の二月にテリーザ・ビショップという六〇歳の未亡人が、その二六歳の病気の娘とともに、モールバラ・ストリートの警察裁判所の裁判官に慈善をほどこしてほしいと申しでた。彼女はグロヴナー・スクェアのブラウン・ストリート五番地の、洋服ダンスぐらいしかない小さな裏部屋に住んでいて、そこには家具はなにもなかった。部屋の隅にはわずかなぼろ布があり、そこが二人の寝場所だった。一つの木箱がテーブル兼椅子だった。母親は掃除婦をしていくらか稼いでいた。
家主の話では、彼女は一八四三年五月からこういう状態で暮らしていて、持っていたものはすべて売り払うか、質にいれてしまい、しかも家賃は一度も払ったことはなかった──。裁判官は彼女たちに慈善箱から一ポンドを与えた──。
私はロンドンのすべての労働者が、いまのべた三家族のような貧しい生活をしているというつもりはない。私は、一人が社会によって徹底的にふみつけられているときには、一〇人はもっとよい暮らしをしているということを、よく知っている──しかし私は、勤勉かつ有能で、ロンドンのすべての金持よりもはるかに有能で、はみかに尊敬に値する何千という家族が、こういう非人間的な状態におかれており、プロレタリアは誰でも、例外なしに、自分が悪いわけでもなく、一生懸命努力しているにもかかわらず、同じような運命におちいるかもしれないということを主張しているのである。
しかしそれにもかかわらず、どんなところであれ、泊まるところのあるものは、まだ幸せである──すべてのホームレスにくらべれば。
ロンドンでは、毎朝起きあがっても今夜どこに寝られるのか分からない人が五万人いる。この五万人のうち、夕方に一ペニーか、二、三ペンスうまく残しているもっとも幸運なものが、いわゆる簡易宿泊所(lodging house)へいく。こういうところは大都市にはたくさんあって、金をだせば泊めてもらえる。
しかし、なんという宿であろうか! その家は上から下までベッドがつめられ、一部屋に四つ、五つ、六つと、いれられるだけベッドがいれてある。各ベッドには、同じように、四人、五人、六人とつめこめるだけ、人間がつめこまれている──病人も健康なものも、老人も青年も、男も女も、酔っぱらいもしらふのものも、手あたりしだいに、みんなごちゃまぜにつめこまれている。そこでは喧嘩や、なぐりあいや、傷害もおこる──そしてベッド仲間が仲良くなると、もっと悪いことになる。泥捧の相談をとりきめたり、人間にふさわしくなったわれわれの言葉では表現できないような野獣的なことがおこなわれる──。
それでは、こういう宿賃を払えないものはどうするのか。そのときは、通路でもアーケードでも、警察や持ち主が邪魔をせずに寝かせてくれるところならどこでも、片隅で寝るのである。何人かは個人の慈善によってあちこちに建てられている収容施設に泊めてもらうであろう──またほかのものは、ヴィクトリア女王の窓のすぐ下にある公園のベンチで眠る──一八四三年一〇月〔一二日〕の『タイムズ』のいうことをきいてみよう。
「昨日のわが警察の報告によると、毎晩平均五〇人の人が公園で寝ており、彼らには樹木や堤防の穴以外に雨風をふせぐものはない。その大部分は若い娘で、兵土たちに誘惑されて首都へつれてこられ、広い世間に放りだされ、どの娘も見知らぬ町で見捨てられて生活に困り、まったく平気で早熟の身体のまま悪徳にはまりこんだのである。
これはほんとうに恐ろしいことだ。貧民はいたるところにいるに違いない。どんなところにも貧困ははいりこみ、豊かな大都会の真ん中に、まったく無気味な姿で定着してしまう。人のあふれた首都の何千という狭い横町や路地には、つねに多くの苦悩が、目ざわりになる多くのことが──明るみにはけっしてでてこない多くのことが、あるに違いないと、われわれは恐れている。
しかし、富と歓喜とはなやかさがいっぱいにひろがっている地域に、堂々としたセント・ジェイムズ宮殿の近くで、新旧の貴族街が接しているベイズウォーターの光輝く宮殿のすぐそばで、近代都市建築術があらかじめ抜け目なく用心ぶかく、貧民のためのどんな小さな小屋を建てることさえ禁止したその地域で、もっぱら富の享楽だけにささげられていると思われている地域で──こういうところで、貧困と飢餓と病気と悪徳が、それに似たあらゆる恐ろしいものとともに横行し、肉体から肉体へ、魂から魂へと、食いつくしているのだ!
これはじつに奇怪な状態である。
肉体の健康や、精神の刺激や、素朴な感覚的喜びを与える最高の享楽が、もっともひどい貧困と直接に隣りあっているのだ。
富は、その光輝くサロンから見おろして笑い、人知れぬ貧苦の痛手を残酷な無遠盧さで笑っているのだ! 喜びは無意識に、しかし冷酷に、その下でうめいている苦しみを嘲笑しているのだ! すべての対立物がたたかい、すべてのものが争っているが、ただ、誘惑しようとする悪徳と、誘惑されようとする悪徳とだけは争わない……しかし、すべての人に考えてもらいたい。
この地上でもっとも豊かな都市の、もっとも輝かしい地域で、毎晩毎晩、毎冬毎冬、女たちが見られるということ──年は若いが、長いあいだ罪と苦悩におちいり、社会から追放され、飢餓と汚辱と病気とで身を滅ぼしていく女たちがいることを。このことを考え、理屈をこねるのではなく、行動することを学んでほしい。今日、行動すべき場はたしかにたくさんあるのだ!」
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p58-63)
■━━━━━
格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会のことだ。『カムイ伝』はそういう社会を描いている。これは江戸時代だから、ということではなく、現代の日本でもあり世界でもある。武士は穢多(えた)たちが何を食べているのか、それをどう人手するのかも、知らなかった。まるで、世界の貧しさを知らない現代日本人のようなのである。 (田中優子著「カムイ伝講義」小学館 p32-33)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「私は、勤勉かつ有能で、ロンドンのすべての金持よりもはるかに有能で、はみかに尊敬に値する何千という家族が、こういう非人間的な状態におかれており、プロレタリアは誰でも、例外なしに、自分が悪いわけでもなく、一生懸命努力しているにもかかわらず、同じような運命におちいるかもしれないということを主張している」と。