学習通信090116
◎子どもの貧困……

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世の中は不公平

 突然だけど、みんな「世の中って不公平」って思うことある?

 たとえば「PRIDE」や「K−1」のような総合格闘技の大会でも、リングサイドで楽しそうに観戦するタレントや作家がテレビに映っていることがあるよね。チケットを手にいれるのはとてもたいへんなのに、どうしてあの人たちだけ……と思った人もいただろ。

 今、父親や母親のあとを継いだ二世議員、二世タレント、二世作家がたくさんいる。会社につとめる知りあいから、「うちの会社、重役の息子や娘がいっぱいだよ」ときいたこともある。

 こうやってまわりを見まわすと、いろいろなところに、得をしている人たち≠ェいるような気がする。

 努力して得をする≠ネらいいけど、なにもしなくてチケットをゲットできたり、スイスイ会社に入社できちゃったりする人を見ると、やっぱり「なんかヘン」って思わない? そういうことを若者たちはどう感じてるんだろうと思って、いつものように大学の授業のときにきいてみた。「得をしている人と、そうじゃない人、はっきり差があると思わない?」という質問には、六〇%の学生が「そう思う」。「今はあまりそう感じていないけれど、これから就職活動のときにそう感じそう」と言う人は、もっとたくさんいた。

 ふんふん、やっぱり。若い人も私と同じように、「なんか世の中、不公平」と思っているわけだ。

 でも、「じゃ、それをどうすればいい?」という質問になると、とたんに勢いがなくなっちゃう。「どうにもできないし……」「イヤだけど仕方ない」という声もあった。

 そうかなあ。同じように学校で勉強したり遊んだりしてきたのに、ある人は親の力なんかでラクに就職できて、行きたいスポーツの試合やコンサートのチケットもどんどん手に入り、ある人はやりたい仕事もなかなかできず、チケット予約の電話をかけまくってもいつもずっとお話し中(私のことです)……。それでも「まあ、あの人たちは恵まれてるんだから、仕方ないや」って思えるのかなあ。

 きっとみんなの親の中にも、私のように「不公平は許さん!」ってプンプン怒ってる人がいると思う。親よりもっと上の世代、今の五〇代の人たちはとくにそう。「社会を変えよう!」と大学にたてこもったり、デモ行進をしたりした学生運動の世代≠セ。

 もちろん、すぐに怒ったり力づくで行動したりするのが必ずしもいい、とは思わない。でも、「仕方ないですよ」とあきらめるのもちょっと悲しいんじやない……、と学生に言ったら、「先生、格闘技のチケットくらいで大げさ。コドモだなあ」とあきれられた。今の若い入って考え方がオトナ、ってことなんだろうか?

□なんとなく世の中、不公平だよな、と思うことはありますか
□あなたのまわりに自分だけ得をしている人はいますか
□あなたが得をして、ほかの人が損をするような不公平についてはどう思いますか
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」岩波ジュニア新書 p116-118)

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はじめに

 日本人の多くがもつ「子どもが育つ理想の家庭」のイメージは、決してお金持ちの家庭ではない。貧しくても、家族の結びつきが強く、温かい、幸せな家庭。私たちが連想しやすいのはそういう家庭である。

『サザエさん』の磯野家や『ちびまる子ちゃん』のさくら家、近年では吉永小百合が温かいおかあさん役を演じて話題となった映画『母べえ』(山田洋次監督、二〇〇八年)。どれも、決して、裕福な家庭ではない。

テレビドラマや小説では、むしろ、お金持ちの家庭のほうが冷たく、不幸な育ち方をしているイメージが作られている。『ちびまる子ちゃん』に登場する花輪クンの家は、じいやがリムジンで小学校の送り迎えをするような家庭だが、花輪家よりも、三世代の家族がちゃぶ台を囲んでテレビを見ながらみかんを食べるさくら家のほうが幸せそうである。

磯野家もさくら家も「普通の家」であり、「普通の家」で育つ限り、現代日本の子どもは通常は幸せであると考えられていた。

 子どもに関する社会問題といえば、厳しい受験戦争からくるストレスや、次から次へと開発されるゲームヘの没頭やインターネットからの悪影響など、子どもが属する家庭の経済問題とは別のところで論じられてきた。むしろ、このような問題は、裕福な家庭で育つ子のほうが多いと考えられている風潮さえある。

 このような傾向の中で、長い間、日本の子どもが直面している経済状況を社会問題とすることはタブーとされてきた。根底にあったのは、日本が「総中流」社会であるという考えである。たしかに、児童養護施設で育つ子や、生活保護を受ける世帯に育つ子もいるであろうが、そのような子どもはごく少数の特殊な例であり、日本の大多数の子どもは「貧困」などからは遠い位置にあると多くの人が信じてきたのではないか。そして、多少の差はあるものの、すべての子どもがそれ相応の教育を受け、能力と意欲さえあれば、世の中で成功することができるのだと。

 しかし、一九九〇年代に入ってからは、日本が「格差社会」であることが、多くの人に意識されるようになり、一億総中流説」は神話と化した。そんな中、二〇〇六年七月には、経済協力開発機構(OECD)が「対日経済審査報告書」にて、日本の相対的貧困率がOECD諸国の中でアメリカに次いで第二位であると報告し、これは、大きな衝撃をもって受け止められ、マスメディアにおいても多く報じられた。いわば、日本の貧困が「お墨付き」となったわけである。「格差」という言葉を日本社会にあてはめることには慣れてきていた一般の人々も、「貧困」という言葉を日本にあてはめて用いられたのはショックであった。

 大人の社会で「格差」が存在するのであれば、大人の所得に依存している子どもの間にも、当然のことながら「格差」が生じる。

前述のOECDの報告書では、子どもの貧困率についても警告を鳴らしており、@日本の子どもの貧困率が徐々に上昇しつつあり、二〇〇〇年には一四%となったこと、Aこの数値が、OECD諸国の平均に比べても高いこと、B母子世帯の貧困率が突出して高く、とくに母親が働いている母子世帯の貧困率が高いこと、が指摘された。

これらの指摘については、多くの研究者が紹介し、二〇〇七年初めには、野党が国会質問で取り土げ、同年末には「子ども手当法案」を提案するなど、政治的な動きも徐々に高まっている。一般の人々に対しては、二〇〇八年五月に『週刊東洋経済』が、「子ども格差」と題する特集を組んだ(東洋経済新報社、二〇〇八年五月一七日号)。

とうとう、「子ども」と「格差」が同じ土俵でマスメディアにて語られることになったのである。このことは、われわれ、長く貧困研究に従事している研究者の中でも、一つのエポックと受け止められた。そして、八月には『週刊ダイヤモンド』においても「格差世襲」という特集が組まれた(ダイヤモンド社、二〇〇八年八月三〇日号)。

 しかし、それでも、子どもの経済問題は、依然、「格差」という言葉で語られ、「貧困」は語られているようで語られていない。『週刊東洋経済』の「子ども格差」特集の一部は、「「子どもの貧困」最前線」を掲げているものの、中身は虐待問題、生活保護の問題、妊婦健診の公費助成の地域差などを取り上げており、今ひとつ、「子ども」と「貧困」を結びつけていない。その理由は、おそらく、どの程度の生活水準が「貧困」であり、どの程度までが「貧困」でないのか、その境界線がいまひとつピンとこないからであろう。

 OECDの報告書の指摘する「子どもの貧困率一四%」は確かに高く感じられるが、ここでいう「貧困」とはいったいどのようなレベルのことを指すのか、はっきりとわからない、というのが、日本のほとんどの人々の感想ではないであろうか。言葉を換えて言うと、資本主義の社会で生きている以上、ある程度の「格差」が生じるのはいたしかたがない。花輪クンの家の生活水準と、ちびまる子ちゃんの家の生活水準に格差があることは社会問題なのであろうか。

たしかに、花輪クンとちびまる子ちゃんが、受験戦争で競争するのであれば、たぶん、幼児教育や家庭教師などの恩恵を受けてきた花輪クンが勝つであろう。つまり、「機会の平等」が保障されていないこととなる。しかし、誰もが有名大学に行きたいわけでもないし、行ったからといって、それが幸せにつながる保障があるわけでもない。ここで、また、議論は堂々巡りをしてしまうのである。

 貧困研究で著名な岩田正美日本女子大学教授は、貧困と格差の違いを決定づける基準として貧困は「許容できないもの」と定義づけている。つまり、格差が皆無であるユートピアの世界ではともかく、現代資本主義の社会においては、ある程度の高い生活水準の人と、比較的に低い生活水準の人ができてしまう。つまり、「格差」は多かれ少なかれ存在する。

子どもにとっても、まったく同じ条件でスタートラインにたつというような完全な「機会の平等」は理想として語られることはできても、それを実質的に保障することは不可能に近い。しかし、貧困と格差は異なる。貧困撲滅を求めることは、完全平等主義を追求することではない。「貧困」は、格差が存在する中でも、社会の中のどのような人も、それ以下であるべきでない生活水準、そのことを社会として許すべきではない、という基準である。

 この「許すべきではない」という基準は、価値判断である。人によっては、「日本の現代社会において餓死する人がいることは許されない」と思うだろうし、またほかの人は「餓死する人がいてもしかたがない」と思うかもしれない。また、「すべての子どもは、本人が希望して能力があるのであれば大学までの教育を受ける権利があるべきだ」と思う人もいれば、そう思わない人もいる。だからこそ、「貧困」の定義は、社会のあるべき姿をどう思うか、という価値判断そのものなのである。

 本書で取り扱いたいのは、この「許容できない生活水準=貧困状態」で生活する子どもたちのことである。その過程で、子どもにとって「許容できない生活水準」とは何かという問題を論じていきたい。そのため、いささか、専門用語や統計記述が多い内容となってしまうが、そこはご容赦いただきたい。
(阿倍彩著「子どもの貧困」岩波新書)

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●第一発言
子どもの貧困対策にみる世界の流れと日本政治の異常さ
石井郁子

 昨年の二月一三日の志位委員長の予算委員会質問は、子どもの貧困を真正面からとりあげた、国会史上ない質問として注目されましたが、自民党の議員など、何が問題だという感じで聞いていたことに私は驚きました。しかも、母子家庭の場合、貧困ライン(手取り一九五万円)以下で暮らしている子どもが日本は五七・九%、OECD平均が二一%と国際的データをしめしても、それを事実としてうけとめようとしない。それどころか、政府は「積算根拠がわからない……、仮にそうだとしても、それからさらに改善が進んでいる」(柳沢厚労相)と居直る。

 私たち日本共産党は、貧困・格差のひろがりの問題について、二〇〇六年一月の二四回党大会で、重要な社会問題として提起し、低所得層の増大という傾向が顕著にすすんでいること。教育扶助・就学援助を受けている生徒の割合は一二・八%とこの一〇年で二倍以上になっている。日本の貧困率はOECD調査で一五・三%、OECD諸国の平均二〇・二%を大きく上回っている≠アとなども指摘しました。

その後、母子家庭の児童扶養手当の削減や生活保護の母子加算の廃止など、一連の「構造改革」の名によって母子家庭が直撃され、それに反対してシングルマザーの人たちが立ち上がりました。母子家庭の方々が国会にこられ、私たち党国会議員団の「男女平等推進委員会」と懇談をし、運動を広げました。志位質問は児童扶養手当削減やめよの怒りの声を背景に迫ったのでした。

今年は、「蟹工船」ブームに見られるように、「働く貧困」層の問題、とくに人間をモノのように使い捨てにする派遣労働に若い人たちが声をあげはじめています。こういう貧困に抗するたたかいの広がりに連帯しながら、日本共産党も「子どもの貧困」の問題にとりくんでいるところです。

 長年の自民党政治のもとで子どもと教育の危機とも言うべき、暴力やいじめ、不登校、虐待、少女買春の増加など様々の問題が生起しています。日本共産党としてその打開の提言、国民的運動をよびかけてきましたが、いま、その危機の深まりのなかで、「子どもの貧困」という角度から社会的背景、解決の方向を探ることが重要になっていると思います。

子どもと教育の危機と貧困

【異常な学費・教育費の高さ】

 貧困というと一日一ドル以下で暮らす子どもたち、乳幼児死亡率、住居のない子どもたちなど、これらの指標だけで見てしまうと、先進国の問題がとらえられないのではないか、この点を考える必要があります。

 まず第一に、教育の機会がすべての子どもに平等にあるかという問題です。教育は、子どもが人間として成長、発達する、子どもの可能性を開花させるうえで不可欠です。世界人権宣言にあるように、「自由・平等」は近代社会の普遍的原理です。とりわけ、「ひとしく教育を受ける権利」「経済的地位によって差別されない」という教育の公平性、平等性の原理は教育の社会発展における役割の基礎になります。この原理が崩れようとしています。

 日本共産党は、今年四月「『世界一高い学費』を軽減し、経済的理由で学業をあきらめる若者をなくすために」という提言を発表しました。アルバイトする生徒、修学旅行など学校行事に参加できない、高校を経済的理由で中退する、大学進学をあきらめるなどが広範にあり、胸が痛みます。高校中退は全国で七万人を超えています。大阪では、府立高校授業料未納が二〇〇二年度一四二七人、〇五年度二二一一人、〇六年度三五一九人と驚くような増え方です。大学進学は、異常な高学費のため、低所得では実際には困難です。

世帯の収人別の進学者数は、第一5分位(〇四年で五〇四万円、〇六年四八八万円)で見ると、〇四年は二三・八%が〇七年一六・六%と大幅に減少しているように顕著にあらわれています(学生支援機構の調査)。一九七〇年には、国立大学の年間授業料(入学金を除く)は一万二〇〇〇円でした。それが現在では五三万円(標準額)と、貧しくても進学できた時代から、低所得者が事実上排除される社会になっている。

 また義務教育の段階でも就学援助の受給者が急激に増えているなかで、教材費が高くなって家庭負担が増えています。音楽で使うリコーダーを一〇〇円ショップで買う子どもがでている。音が合わなくて授業についていけない、教師も指導に悩むと聞きました。生活の困難が教育の平等な機会を奪うという事態が広がっているのです。

【子どもの生存、発達が脅かされている】

 もう一つ指摘しなければならないのは、子どもの生存、発達が脅かされているという問題です。京都市の診療所の話ですが、小学校低学年の男の子に異常な体重減少がみられ、聞いてみると離婚後生活が苦しく一日一食で暮らしていたという話があったそうです。親が国保を滞納し、資格証明では病院にもかかれず、喘息(ぜんそく)の治療ができない、けがをしても病院に行けなくて学校で湿布薬をもらうなどの事態も報告されています。歯科医療では、虫歯も治せない。

 依然として虐待も減っていません。厚生労働省が発表している児童相談所における児童虐待相談件数は〇七年は約四万六二〇件で、前年比八・八%増、九〇年の実に四〇倍です。児童虐待防止法制定には私もかかわり、今年一部改正がおこなわれましたが、国会では、虐待がおこったときどう家庭に介入できるようにするのかという発見・救済の整備が主たる議論となって、なぜ虐待がおこるのか、どう防止するかについては、まだまだ不十分です。主たる虐待者が母親ということから母親にあるまじきなどと母親バッシングに傾きがちですが、家庭の困難、育児の不安が背景にあり、その困難をもたらしているのが、生活苦、雇用不安、経済的問題だとみなければなりません。

 ところがこうしたデータが十分にないのです。私が国会質問で使ったのは、数少ないデータの一つ、兵庫県中央子ども家庭センター企画指導課の調査です。〇四年に兵庫県内(神戸市を除く)で発生した児童虐待のうち、約四割の家庭が生活保護をうけるなど経済的に困窮していました。この点では、ユニセフの児童虐待と貧困の調査と一致します。イノセンティ研究センターの「豊かな国々における児童の虐待死」(〇〇年九月)という報告で、虐待にはいろいろな要因があるが、それが貧困とストレスが重なると危険性が高いと指摘しているからです。

 子どもの生命を守ることは、家庭とともに政治と社会が責任をもつべきことであるはずです。貧困が子どもの命、発達、学ぶ権利を脅かしている、この現実を直視して、これを社会の問題、政治の課題として優先的に取り組むことが急がれていると痛感しています。

何をもって子どもの貧困というのか

 そのためにも、何をもって「子どもの貧困」というのか、貧困の定義を共通理解にすることが大切です。二一世紀に入って国連やユニセフなど国際機関は、子どもの権利擁護とその実現をめざす提言を発表するなど積極的ですが、そこに学ぶ必要があると思います。

 〇二年五月には、子どもの問題について討議するために、はじめて「国連子ども総会」が開催されました。総会は「子どもにふさわしい世界」を採択しています。

そこでは、「子どもの権利条約」が成立した九〇年代の成果を確認しながらも、二一世紀の世界がその方向にすすんでいるのかについて問いかけ、「各国の責務は十分果たされていない、国際的な約束は守られていなかった」と厳しい指摘をしています。

さらにユニセフの「世界子ども白書」二〇〇五年版は、「危機に晒される子どもたち」と題して、子どもの危機を、貧困、紛争、エイズの三つあげ、その第一に貧困についてのべています。

この「白書」で重要なのは、一つは、子どもの貧困を定義するさい、子どもの視点から貧困を理解する、つまり子どもが貧困をどのように経験しているかを理解することが不可欠だとしている点です。

貧困は単なる物質的剥奪ではない、基本的な財、サービスの剥奪であると同時に、人々の選択肢を広げ、可能性を完全に発揮できるようにしてくれる人権のその他の重要な要素──休息・余暇・暴力からの保護などの欠乏も含むと指摘しています。

貧困は、教育、保健、遊びなど子どもの幅広い基本的権利の充足に影響を及ぼしている。

 もう一つ、子どもの貧困が、この一〇年間で一部の豊かな国々でも相対的に増加してきたと指摘されている点に留意すべきでしょう。

OECD加盟国のうち主要な一五カ国のうち一一カ国で子どもの貧困率はこの一〇年の間に顕著な増加を見せており(日本も別の調査で九〇年代後半から二〇〇〇年のあいだに二・二%増加している)、二〇〇〇年の時点で子どもの貧困率が五%未満はわずか三カ国(フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)にすぎません。

しかも、子どもの貧困率とGDPに占める社会支出の割合の関係を比較すると、貧困率の低い国ほど社会支出が多いという関係を顕著にしめしています。

日本は、こうした調査には協力的でなく、データすらない。貧困問題にまともに取り組む姿勢がないからです。国際的な調査がしめしているのは、子どもの貧困は解決しなければいけないし、政治で解決できるということではないでしょうか。

日本の子どもの貧困にとり組み、解決するために

【政治の責任、役割をどう果たすか】

 九〇年代には、所得の悪化、雇用破壊がすすみました。その影響をもっともうけたのが子育て世帯であり、とりわけ母子世帯です。女性の働き口は多くが低所得・不安定なパート、アルバイト、派遣です。そのときに、児童扶養手当の削減、生活保護世帯の母子加算廃止をうちだしたのが政府なのです。新自由主義の市場万能論が横行し、社会的弱者、子ども、女性を襲った──まさに政治が貧困状況をつくり、さらに追い撃ちをかけたわけです。

 それに対し、就労支援、家庭支援などの政策はいっこうに前進をしません。貧困の世代間の再生産が指摘されていますが、その若い世代の低所得・非正規雇用の広がりに対しても政府はまともな施策を講じません。

ニート、フリーターなどが社会問題になるなかで厚生労働省、文部科学省、内開府のそれぞれが、ジョブカフェ、若者自立塾など若干の予算をつけるものの一〜二年と限定的で、若者の職業意識の醸成に力点がおかれ安定した雇用の場の確保にはつながっていません。とくに、若者のなかでもっとも不安定な状態にあるであろう高校中退者については、その子どもたちがその後どのような状態にあるのかについての調査はありません。かつて、一九八七年に一度文部科学省は、その調査をおこなったことがあるのですが、その後はおこなっていません。

【子どもの権利条約への後ろ向き姿勢】

 私は政治の責任としてとくに指摘しておきたいのは、子どもの権利条約への政府の後ろ向き姿勢です。政府はやっと今年四月に、第三回の国連子どもの権利委員会への政府報告を発表しました。しかし、これまでの二回の厳しい勧告に正面から応えるものにはなっていません。

 もともと日本は、九四年に批准するとき、「我が国が負う義務は既存の国内法令で実施可能……新たな国内立法措置を必要としない」との立場(外務省見解、九三年)で、この法律の主要な目的は開発途上国の子どもの人権環境の改善という見方をしていました。この立場では、自国にある貧困の問題などすっぽり抜け落ちます。

 世界ではいま、子どもの権利条約の立場で、子どもから意見を聞くということが重視されています。子どもたちは、「不平等は困る」「自分はこういうことをやりたいが、その条件がない」など感じているわけです。その声を聞けば貧困は見えてくるはずです。しかし日本では、子どもの参加、声を聞くということがおこなわれません。

 国連総会は、先に紹介した流れをうけて、〇七年には子どもの貧困の強力な定義を採択しています。そこでは、「子どもたちが経験する貧困の特殊さにかんがみ、子どもの貧困とは単にお金がないというだけでなく、子どもの権利条約に明記されているすべての権利の否定と考えられる」としています。

「子どもたちはより豊かで公正な社会をつくっていく主体」だから子どもの貧困をこのように強力な定義としてとらえているのです。いまの子どもの貧困は権利条約の精神、立場を踏まえてこそ理解ができ、解決の展望を見いだすことができるのだと思います。
(松井伊知朗・石井郁子対談「子どもの貧困をどう根絶するか」前衛08年12月号 日本共産党中央委員会理論政治誌 p32-38)

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◎「貧困が子どもの命、発達、学ぶ権利を脅かしている」と。