学習通信090119
◎いつでもせっかちに結論に達しようとし……

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朝の風
平易平明ということ

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の新訳が合計百万部を超えるベストセラーになり、また、新しい世界文学全集が刊行されるなど、海外文学へ新たな関心が向けられている。

 海外文学というと翻訳に依拠することになるが、昨年出された古井由吉の『ロベルト・ムージル』(岩波書店)を読んでいて、考えさせられることがあった。

 古井は、大学でドイツ語を教え、ブロッホやムージルの翻訳をした後、作家生活に入っている。古井は自身が三十代に翻訳に携わったころに、出版社が「平易平明な訳」という原則を打ち出したことが、その後の翻訳の不振につながったのではないかと述べている。

 平易平明は大事だが、それは安易とは違う。また、読者の追求力を安く踏むことではない、と古井は言う。

 難解ということだけで悪いという風潮が人々の心に染み付いたが、ひとまず難解でしかないことは書物だけでなく、現実にもいくらでもあるということは確かだ。難解なものも、構造を見つける握力のようなものがあれば、読み取れるようになる。難解さを避けることが、知能や精神の衰弱につながる可能性があるという指摘は鋭い。マルクスの「学問に平坦な道はない」という言葉を、ふと思い出した。(豊)
(「赤旗」20090119)

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〔フランス語版への序言〕
ロンドン、一八七二年三月一八日

 市民モリス・ラシャートルヘ
 親愛なる市民

 「資本論」の翻訳を逐次刊行の分冊で発行するというあなたのお考えに私も賛成です。この形式によれば、この著作は労働者階級にもっと近づきやすくなるでしょうし、その点の考慮こそ、私にとって他のなににもまして大切なのです。

 これはあなたのメダルのよい面ですが、しかしそこには裏の面もあります。すなわち私が用いてきた、そして経済的諸問題にはまだ適用されたことのない分析の方法は、はじめの諸章を読むことをかなり困難にしています。そこで心配になるのは、いつでもせっかちに結論に達しようとし、一般的原則と自分が熱中している直接的問題との連関を知りたがるフランスの読者が、はじめから先に進むことができないので、うんざりしはしないかということです。

 これは一つの不利な点ですが、真理を切望する読者にまえもってこのことをお知らせし、心がまえをしていただく以外には私にはどうしようもありません。

学問にとって平坦な大道はありません。そして、学問の険しい小道をよじ登る労苦を恐れない人々だけが、その輝く頂上にたどりつく幸運にめぐまれるのです。

 親愛なる市民、私の変わらざる誠意を込めたあいさつをお受け取りください。
 カール・マルクス
(マルクス『資本論』@ 新日本新書 p31-32)

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(1)初級労働学校の場合

 初級労働学校も勤通大基礎コースも、科学的社会主義の理論の基礎教育を課題とする点ではかわりない。ところで、基礎教育には一般に、二つの側面がある。一つは、考え方を与えるということ、もう一つは、体系的な知識を与えるということである。もとより、この二つの側面は互いにつながりあったものであり、相対的にのみ区別されうるものであるが、そのことをおさえたうえで、初級労働学校における基礎教育の特徴を一言で要約するならば、それは第一の側面に相対的な重点をおくということ、といえるだろう。

 これは初級労働学校が、その名称が示唆しているように、それまで科学的社会主義の理論に接したことがない、その意味でもっとも広はんな層を本来の対象とし、限られた日程のなかで、主として「口から耳へ」というかたちで行なわれる教育の場だということからくるものである。

 したがって、初級労働学校における教育内容は、思いきって重点をしぼらなければならない。そのうえでさらに、大胆な省略、核心をついた単純化の能力が本質的なものとして求められることになる。

 この場合、「大胆な省略、核心をついた単純化」ということは、「俗流化」ということとはまったく異なる。このことについて、レーニンはつぎのように述べている。


 「大衆化ということは、俗流化とか卑俗性とかいうこととは非常にちがう。大衆的な著作家というものは、非常に簡単な、一般によく知られた与件から出発して、こみいっていない推論か、うまくえらんだ実例の助けをかりて、これらの与件からでてくる主要な結論を示し、ものを考える読者をつぎつぎとその先の問題につきあたらせながら、読者を深い思想へ、深遠な学説へ導いていくのである。

大衆的な著作家は、ものを考えない読者、ものを考えようと欲しないか、または考えることのできない読者を目あてにしてはいない。

反対に彼は、未熟な読者のなかにひそむ、頭を働かせようという真剣な意向を目あてにしており、読者がこの真剣で骨の折れる仕事を果たすのを助け、読者が第一歩をふみだすのを助けながら、それからさき自主的にすすんでいくように教えながら、読者を導くのである。

俗流著作家は、ものを考えない、また考える能力のない読者を目あてにする。彼は、読者を真剣な科学の初歩的原理につきあたらせず、一定の学説のあらゆる結論を、かたわに単純化された冗談やしゃれで塩かげんした姿で、おぜんだてのできたものとして、したがって、読者の方ではそれをかみくだく必要もなく、ただこの雑炊を丸呑みにしさえすればいいようにして読者に提供するのである」(「雑誌『スヴォボーダ』について」)


 ここでレーニンは大衆的な著作活動、すなわち、本をつうじての大衆的教育活動について述べているが、初級労働学校におけるような口をつうじての大衆的教育活動の場合についても、このことはそのままあてはまるだろう。

 では、どこにどのように重点を定めるか。どのように「大胆な省略、核心をついて単純化」を行なうか。それは、初級労働学校の場合、つぎの二つによる。

 @そこに集まっている対象の特徴(そのおかれている客観的な諸条件、そこから生じる要求や問題意識)に応じて。

 A講師の個性に応じて。

 基本的なものは@である。そして、これとのかかわりでAも無視することのできない比重を占める。これにかかわるレーニンの古典的な発言を引いておこう。

 「そのときどきの聴衆にもっともよい方法で影響を与え、一定の真理を聴衆のためにできるだけ説得力のある、できるだけわかりやすいもの、できるだけ明瞭な感銘深いものにすることが、あらゆる宣伝家、あらゆる煽動家の手腕である」(「スローガンと国会内外における社会民主党の活動のあり方について」)

 「目の前にいるのは、生きた人間であり、労働者であり、群衆なのです。公開の講演をするにあたっては、大衆にむかって語り、彼らと直接の関係を結び、彼らを見、彼らをよく知り、自分流に働きかけることです」(イネッサ・アルマンドヘの手紙)
(中村行秀・高田求「労働学校と勤通大基礎コースにおける教育内容論」労働者教育論集 学習の友社 p224-226)

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四 大事なこと四つ

 私は京都で例の炭鉱労働者にあってから、そういうタイプの人が他にもずい分たくさんいることを知りました。

 マルクスは第一インターナショナルの臨時中央委員会代表にあたえた指示のなかで、「有給の生産労働、教育、肉体の鍛錬および綜合技術教育の統合は、労働者階級を、上流階級および中流階級よりもはるかに高い水準に引き上げるであろう」と言っています。

現代の勉強する労働者は、社会がそのような教育条件をまだあたえてくれないが、社会のなかで労働し、生活し、たたかうことによって、マルクスが指摘したような人間形成の条件をある程度じぶんのものにすることができています。

彼らこそブルジョアジーや小ブルジョアよりもずっと高い教育水準を獲得しはじめている人びとだとおもいます。念のために言えば「彼ら」とは、あなた方のことです。

 皆さんは、多分労働者出身の労働運動史家・山辺健太郎という人を知っているでしょう。私は一〇年ほど前に、この山健さんからこんなはなしをきいたことがあります。

 「戦後もう十年近くになるが、労働者のなかから案外傑出した理論家が出ていないのじゃないかね。私は渡政(渡辺政之輔、日本共産党の書記長だった人)の若いころを知っているが、渡政がふつうの青年労働者から、新人会の学生とつきあいが始まって、堂々とした第一流の理論家になるまでの期間が、四年間ぐらいだったとおもうね。それを考えるともうだれかこれはといった人物が出てよさそうなものだ……。」

 その後一〇年、日本の労働者階級は大安保闘争を経て、新しい偉大な躍進の時代を迎えつつあるわけですが、いまだに山健さんのいう、これはという人物は生まれていないかもしれない。しかし、そのかわりに、これはという人物の次のクラス位には十分相当する人物が、全国至るところに傑出しています。この日増しに増大する層の厚さが、やがては、これはという人物をも生みだすにちがいありません。

 私は、現代では、労働者やはたらく農民こそが、本当に真剣に勉強をしており、本当に真剣に勉強することのできる人たちだということをのべました。しかし、それだからといって、労働者にとって、勉強するということが、何の苦もなくやれることだ、というようなことをいう気はありません。

戦前にくらべれば、ずっと有利になってきたとはいえ、現代資本主義の強烈な搾取に直面している労働者にとって、じぶんじしんを、労働者階級と勤労人民の事業に役立てることができるほどの学問を身につけるということは、依然として非常にむずかしい、頑固な意志と忍耐なしには、決してやりとげることのできない大仕事だとおもいます。

私は、京都であった炭鉱労働者に感動したはなしをしましたが、この人が何年間かの間に本当に労働者階級の理論を身につけることができるかどうかは、もうひとつ別の感動的な物語りが生まれるかどうかにかかっているとさえおもうくらいです。

生活のために、残業をしなければならないし、労働運動のために飛び回らなければならない労働者が、ねむい目をこすりながら、崩れそうになる意志にむちうちながら、机の前に座るということは、たいへんなことです。たしかに労働者は科学の光を熱情的に求めているし、その要求が彼の勉強をささえてくれるにはちがいありませんが、労働者には、本を読みなれていないという弱点もなくはありません。

私は、ひたむきな熱情をもって勉強をはじめた労働者が途中で根気をなくして、勉強をいいかげんにしてしまった例も、いくつか知らないわけではないのです。そういうことをあたまにおいて、勉強をつづけてゆく上で、参考になりそうなことを書いておきましょう。

@勉強はつらいものだ、つらいところをのりこえなくてはものにならない、ということをまず覚悟することにしましょう。一人前の旋盤工になろうとすれば、まずハンマーやヤスリの基礎訓練で手にまめをつくらなければならないことは、だれでも知っていることです。同じように、一人前の見識をそなえた労働者になろうとすれば、どこかで手にまめをつくるような苦労をさけるわけにはいきません。

A知識というものは、一度に詰めこんで、それで万事解決というような性質のものではありません。私たちは、生活体験をつみかさね、事実についての知識を蓄積し、それらの体験や事実を系統だてる理論を学ぶようにしなければなりません。その意味では、勉強は死ぬまでつづく一生の仕事です。

 このことは、本の読み方についてもいえることです。

ひとつの本の内容を一度にことごとく理解するなどということは、出来ることではありません。

ところが経済学教科書の研究会などの様子をきいてみると、原始的共同体や古代社会などのところで、おたがいにひどくむずかしい質問や意見を出しあっているうちに、何が何だがわからなくなり、すっかりバカバカしくなって、まだ資本家も労働者もあらわれてこないうちに、研究会には誰も集まらなくなり、教科書は本棚におさまってほこりをかぶってしまう、という例が少なくないようです。

これは皆さんにもいささか身におぼえがあることでしょう。私たちは、何のために勉強するのか、ということをつねに忘れないようにして、教科書全体をよみ、教科書があたえてくれる思想の武器を、一どきにでなく、次第に深く理解し、実際に適用することをおぼえるようにすべきだとおもいます。

B勉強をすすめる上で、何よりも大事なことは、自分で読み、自分で考えるということです。ゴーリキイが、映画は観客が努力しないでも、すっかりお膳だてをそろえて観客の目に映るものだから、人間の積極性を刺激しない、という意味のことを言ったことがあります。これはいくらか一面的なようではあるが、やはり鋭い指摘だといわないわけにはいきません。

 私たちは、むろん勉強をすすめる上でも、集団主義的な方法が有効だということを理解しています。それは、単に人のふり見てわがふりなおせ、というようなことだけではなく、われわれの学習は、労働者階級という偉大な集団の中で、この偉大な集団の目的にしたがっておこなわれるものだからです。

 しかしそれにしても、勉強の基礎は、あくまでも自分でじっくり本をよみ、自分で深く考えることです。それなしに集団のなかでおしゃべりばかりしていたのでは、ほら吹きは生まれるかもしれませんが、見識のある現代労働者は生まれないでしょう。

Cさいごに、私たちの学習は、あくまでも、真理にたいし、人類の歴史的発展にたいし、けんきょでなくてはならぬ、ということを銘記することにしましょう。

 「われわれが共産主義的な結論だけにかぎってよい、共産主義的スローガンだけを暗記すればよい、ということにはならない。これでは共産主義はつくりだせない。人類がつくりだしたすべての富にかんする知識で自分の頭脳をゆたかにするときに、はじめて共産主義者となることができる。」

 これは一九二〇年にレーニンがロシアの共産青年同盟員に語った言葉です。
(堀江正則著「学問のすすめ」大月書店 p30-32)

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難解なものも、構造を見つける握力のようなものがあれば、読み取れるようになる。難解さを避けることが、知能や精神の衰弱につながる可能性があるという指摘は鋭い。