学習通信090120
◎大企業の経営者の背景は……

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一目 均衡
編集委員 西條 郁夫

企業の社会的責任とは

 企業の経営環境はここ数カ月で様変わりした。世界経済の変調が輸出企業を直撃し、各社は大慌てで経営戦略の見直しを進めている。だが、変化の波が洗うのは企業の内部だけではない。企業の外側、つまり企業を取り巻くステークホルダー(利害関係者)との関係にも激変が生じた。

 時計の針を一年前に巻き戻すと、経営者の大きな心配事はモノ言う株主との関係だった。昨年の年初には空港関連企業への外資規制案をめぐって、与党内や内閣を二分する論争が起こった。この議論の発火点は、羽田の空港ビルを運営する日本空港ビルデングの大株主に豪州の投資ファンドが躍り出たことだ。

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 五月にはJパワー株買い増しを求める英ファンドに日本政府が投資中止を命令した。同じ五月には米スティール・パートナーズなどの攻勢でアデランス経営陣の再任が株主総会で否決され、衝撃が走った。

 ところが、世界的な金融の変調で、アクティビスト株主は最近めっきり元気がない。英ファンドはJパワー株を手放し、スティールも日本株の整理を進めている。アクティビストとは違うが、鉄鋼世界最大手のアルセロール・ミタルの株価もさえない。同社からの買収の脅威に身構えてきた新日本製鉄首脳は「少なくとも向こう一年は買収されない」と冗談とも本気ともつかない口調でいう。

 モノ言う株主と入れ替わるように、いま企業に対して積極的に発言するのは働く人たちだ。製造業派遣や雇い止めが社会問題に浮上し、「企業は蓄えた内部留保をはき出し、雇用を維持せよ」と迫っている。

 例えば、日本共産党の志位和夫委員長は「自動車産業は二万人近い人員削減を進めているが、業界の内部留保の〇・二%を取り崩すだけで雇用は維持できる」と訴える。労働組合の連合も同様の主張をしており、さらに政府でも河村建夫官房長官が「企業はこういう事に備えて内部留保を持っている」と表明した。

 だが、ここに一つ誤解があるのではないか。内部留保は過去の利益などを累計した数字であって、その多くは生産設備などに再投資されている。「自動車業界の内部留保は二十九兆円」といっても、それだけのキャッシュが「埋蔵金」として積み上がっているわけではない。金融収縮のなかで、相当な大企業といえども日々の資金繰りに苦労しているのが実態だ。

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 そもそも企業の使命は様々な生産活動を通じて価値を創造し、社会に提供することだ。その結果、利益が上がれば、新たな雇用が創出され、株主への分配を増やすこともできる。

 しかし、現時点で企業の収益力は急速に低下している。過去の利益をはき出して、それを「雇用に回せ」「配当に回せ」と求めても、いずれ原資は枯渇する。企業の社会的責任は非常に重いテーマだが、それを果たすためにも富を生み出す力の回復が各企業にとって最大の課題である。
(「日経」20090120)

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しんぶん赤旗
主張
09国民春闘
経済危機下の労働運動前進を

 百年に一度とも、資本主義始まって以来ともいわれる深刻な金融・経済危機のもとで、二〇〇九年の国民春闘がたたかわれます。

従来にない変化の兆し
 「周期的経済恐慌は歴史的に労働組合に深刻な影響を与えてきた」といわれてきました。日本でも、一九七四―七五年恐慌に際し大企業労組の労資協調主義が一気にすすめられ、財界は「職場安定帯」を築き上げたと豪語しました。九〇年代不況では、非正規雇用=半失業者の拡大と成果主義管理が急速にすすめられ、労組の力が弱められました。

 しかし今回は従来にない変化の兆しが見えます。いすゞ自動車では解雇された非正規労働者が労働組合を結成してたたかい、期間工の解雇を撤回させました。大企業が一度決めた大量解雇を撤回した例はありません。

 さまざまな労組・市民団体・個人の共同による東京・日比谷公園での「年越し派遣村」は、国民的共感を集め、厚生労働省講堂の開放、生活保護申請の認定など国と地方の行政を動かしました。派遣法改正で自民、公明、民主の姿勢も変えさせてきています。まだ初歩的ですが、貴重な成果です。

 こうした成果は、階級的労働組合と革新民主勢力が、貧困と社会的格差の広がりに対し、非正規の労働条件改善と組織化、大企業の社会的責任の追及など、国民的反撃を開始していたからこそです。

 全労連だけでなく、連合の職場でも、阪急電鉄では職場活動家や労働組合のたたかいで、八百四十人の正社員化を実現しています。

 経済危機の“不意打ち”でうろたえているのは、財界・大企業です。なんらまともな経営努力もなく、ほとんど思考停止状態で無法な「非正規切り」に走り、国民的批判を浴びています。マスメディアはもちろん、首相や官房長官さえ、雇用確保に内部留保の活用をいう状況が生まれています。

 春闘でも財界は「司令塔」の役割を果たせなくなっています。財界は今年の春闘方針で、七四―七五年恐慌、九〇年代不況につぐ「第三の危機」に「労使一丸で難局を乗り越え」ようと呼びかけました。しかし、連合も金属労協も、財界みずから労資協調を崩しておきながら虫がいいと反発し、八年ぶりに賃上げを要求しています。

 そもそも連合は、その綱領的文書で「二度にわたる石油危機と急激な円高にも、わが国経済は、労働組合の適切な対応と質量ともに優れた労働力の存在などがあって、その困難を乗り越え」てきたと、労資協調主義を誇ってきた組合です。そうした連合の態度にも、変化の兆しが見られます。

賃上げも、雇用確保も
 財界は、相変わらず国際競争力の強化を叫んでいます。しかし、国際競争力の強化=外需一辺倒、労働者犠牲=内需圧迫に突っ走ってきた結果が、今日の惨たんたる状況です。「非正規切り」は「政治災害」といわれるように、自民党政治の害悪も明らかです。

 内需拡大のためには、賃上げも、雇用の確保も重要です。財界・大企業とアメリカという、自民党政治の「司令塔」が破たんしたもとでたたかわれる〇九国民春闘を、日本の労働組合運動の前進と、政治、経済社会の歴史的転換のはじまりにしようではありませんか。
(「赤旗」20090117)

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株式会社と「社会的責任」論の系譜
 島 弘 同志社大学名誉教授

 一 現代の企業とは

 大きな破壊と荒廃をこの地球上に与えた第二次世界大戦後、世界の各地に民族独立運動や植民地解放運動が起こり、世界の地図が書き換えられた。こうして世界の政治的・軍事的支配体制は大きく変貌し、いわゆる先進資本主義国の発展途上国への植民地としての政治的・軍事的支配体制はくずれさった。こうした中で、世界の経済の中で、いわゆるグローバリゼイションと称する、アメリカの大企業を中心としての多国籍企業が発展していった。

 このような急速な発展を可能にした企業の制度が「株式会社」制度である。もともと会社というものは、経済活動を行うために、貨幣を集め、その活動によって利益を上げようというものである。つまり、個人では達成できない貨幣量を集めるために、複数の人達から貨幣を集めることによって、個人よりもより有利な経済活動を行うことにその目的があった。その形態としては、合名会社、合資会社、株式会社という形態で発展してきたのである。それらは資本の蓄積過程において、必然的に発生する資本として運動しうる資本額の増大の要請に応えての資本の集中の制度であり、資本の結合形態として発展してきた制度である。

 株式会社は資本の集中を促進する会社形態として大変優れた特徴を持っていた。そのために、資本主義経済の発展の中で、代表的な会社形態となった。その特徴は概ね次の三つの点に要約される。すなわち、@有限責任制、A資本金の譲渡自由な等額株式への分割、B会社経営の相対的独立と出資者の間接的所有の三点である。

 資本主義社会における企業の競争戦は、基本的には価格を通じて行われる。それは如何にして製品の原価を引き下げるかが勝負の決め手となるのが普通である。そこで企業は他の企業よりもより進んだ生産技術を導入し、より進んだ生産方法で生産活動を行うことを目指す。その場合の基本的な方向は、より多くの資本を集中し、より価格の高い生産手段を企業内に導入し、より進んだ生産手段、生産の諸設備を採用することであろう。もちろんその場合に労働日の延長や労働強化を伴うのが通常であるが。その場合に、より多くの資本が必要になることは言うまでもない。

このような資本集中の要請に応えて生まれてきたのが「株式会社」制度である。すなわち社会の中に存在する零細な貨幣を企業に集中しうる新たな制度として、株式会社は出現する。

 しかし、社会の中に存在する零細な貨幣を集中するために大きな障害となるのは、出資という制度の持つ宿命である。企業に出資するということは、企業と運命をともにする覚悟が必要になる。何故なら、企業は何時でも利益を順調に生んでいくとは限らないからである。経済界の一定の変動に伴って損失が発生することが可能性として残っている。しかし社会に存在する零細な資金は、一般大衆の、また労働者の老後の生活のための資金であるかもしれない。そうでなくても社会の中には、資本の循環上で一定の休憩をしている資金も存在する。

このようなさまざまな資金を企業に集中しようと思えば、その資金を投入することで思わざる借金が発生することを避けなければ、集中できない。その意味で重要な役割を果たすのが「有限責任制」である。それは企業へ出資した金額だけは、もしも赤字を出した時には責任を負うがそれ以外は負わないと言う制度である。このことによって、株式会社は社会に存在するあらゆる資金を企業に集中することを可能にしたのである。この有限責任制こそが株式会社制度を資本主義経済の代表的制度とした基礎である。

 しかし、国民の零細な資金を動員するためには、有限責任制だけでは有効ではない。国民大衆の資金は零細であり少額であるので、このような資金を動員するためには、個々の支出しうる範囲が小さくなければならない。これを実現したのが、「資本金の譲渡自由な等額株式への分割」である。国民大衆の資金は、たとえば老後の、あるいは病気その他の不音の支出に備えての貨幣であるから、基本的に少額であり、そして、必要なときにはすぐに現金化できることが必要である。しかも、国民大衆にとっては、現金、あるいは銀行預金よりも有利な配当金を配分され、資金をより有利に運用出来る株式に投下し、しかも必要なときにはいつでも現金化しうることが望ましい。

 そこで譲渡可能な有価証券を株式会社への株式投資の代償として、渡すことによって、国民大衆は資金を必要とするときには、すぐに現金化し、その必要に応える事が出来る。この「株式」という有価証券を売却しうることによって、零細な少額の国民大衆の資金を株式会社に動員しうるのである。他方、こうして動員された資金は、株式会社にとっては資本金として、自己資本として受け入れるわけであるから、返済の心配をする必要はないのである。しかも企業の経営状態が良くないときには、配当金を払わなくても良いことになる。もちろんこのためには、この株式という有価証券を売却しうる、証券市場が成立することが必要である。そのことによって、配当のない不利な株式は、何時でも処分が出来るからである。このように資本金の譲渡可能な等額の株式への分割こそ国民大衆の資金を動員しうるもう一つの基礎である。

 このように国民の資金を動員するためには、有利な配当金を支払えるように、株式会社を上手に経営することが必要である。すなわち、銀行預金その他の投資先よりも有利な配当金を支払いうることが必要である。そのためには、この株式会社を上手に経営しうる有能な経営者が必要である。とくに、競争の中で競争相手よりも有利に経営を行い、十分な利益をあげうる有能な経営者が必要となる。とくに資本の規模が拡大し、現代に見られるように大企業が成立しうる頃になると、このような経営は専門に訓練をうけた専門経営者が必要となる。これを保障したのが「会社経営の相対的独立と出資者の間接的所有」である。このことによって、経営に優れた手腕を発揮する経営担当者を選択し、企業の発展を推進することが出来たのである。

 このように「株式会社制度」は資本主義経済の発展を支える制度的保障を作り上げたのである。しかしこの制度はその発展のなかでいろいろな役割を果たすことになる。

二 現代大企業と社会

 資本主義の発展とともに、新しい生産技術がぞくぞくと開発され、株式会社制度の発展とともに、社会に散在する資金は株式会社制度や銀行その他の信用制度に媒介されて、大企業に巨大な資本を集中することになる。すなわち、資本主義生産が発展するとともに、生産規模は拡大し、工場内分業は高度化するが、それとともに、企業において必要とされる資本の最低量は増加していく。資本が資本として存続していくためには、他の資本よりもより多くの利潤を上げ、より多く蓄積し、より発展した共同的生産手段を用いて、自己の競争相手よりもより安く生産物を生産し、相手よりもより多くの生産物を販売し、より多くの利潤を獲得するように努める。そして、一つでも多く競争相手を倒産に追い込み、自己のマーケット・シェアを拡大しようとする。このことが現代企業の特徴の第一である。

 この過程の挺子となるのは競争と信用である。諸企業間の競争は基本的にはまず商品の低廉化によって行われる。商品の品質の競争も、よりよい商品をよりやすく供給することであるから、これも商品の価格競争からの派生物であるということが出来る。この場合には、基本的にはより技術的に優れた生産手段を手に入れて活用した資本家、あるいはより規模を拡大した資本家が商品の低廉化競争に勝つことが出来る。そのためには、より技術的に優れた機械は、通常より高価であるし、規模の拡大にはより多くの資本を必要とするのであるから、より多くの資本を使える資本家がこの競争に打ち勝つことが出来る。この活用できる資本の拡大の機能を担って登場してきたのが、信用制度であり株式会社制度である。これが第二の特徴である。

 第三に、このように集中した巨大な資本を運用するのに、その資本が巨大であればあるほど、専門的な経営者によって上手に運用されなければならない。すなわち企業に最良の経営制度を採用し、そのために訓練された専門経営者に担当させなければならない。そのことによって激烈な競争に打ち勝っていくことが出来る。このような人材の登用を可能にし、必然化したのが、この株式会社制度の第三の特徴である。

 このような株式会社制度を利用しながら、現代社会の資本主義企業は世間の資金を集中し、今まで集中したことのない巨大な資本を集中したのである。まさにそれは社会に存在した「社会」資本を集中した巨大な「社会資本」であった。そしてもう一つ強調しておかねばならないことは、この社会の生産機構はすべて株式会社によって生産されるようになったことである。大体二〇世紀の始まる頃に世界は、このような巨大な株式会社によって生産が行われることになった。

 しかし、同時に株式会社は「社会」的資本を集中しながら、資本として経営されていたことに注目しなければならない。それは資本主義機構のなかでの株式会社であり、本来資本として剰余価値、すなわち利潤の追求機構であることは忘れてはならない。このような宿命の中で、この巨大株式会社は、独占の問題を避けて通れなかった。巨大な株式会社が発展したアメリカにおいては、このような巨大な株式会社が種々の手段を使って、利潤を、特に不正な手段を利用しての利潤を獲得する道を進んだ。多くの巨大独占企業によるいわゆるトラスト問題を発生させた。これは歴史上独占問題として国民の憤激を生み出し、反独占の国民世論を引き起こし、独占企業を規制せよと言う国民の世論が特に独占の被害が大きかったアメリカで発生した。このような国民の反対運動は、アメリカでは「反トラスト」法として結実したが、しかし、巧妙な手段によって、これらの反対運動はくぐり抜けられ、巨大な株式会社は社会に君臨する大企業として生き残った。

 しかし、このような中でも、一度作り上げられた「株式会社」というメカニズムは生き残り、国民の多くから資金を集中し、大資本を形成するという特徴は残った。それは資本主義の発展に基づく巨大資本の集中という資本の要求に合致するものであった。それは広範な国民から少ない資金を数多く集中し、巨大な資本金を集中し、資本の拡大の要求に応えるものであった。

 ところで、この株式会社の最高議決機関は株主総会であった。それは株式会社制度の原則に従い、出資した株主が集まって、その資本金を託す最高経営者を決定し、その企業経営の方針を決定する最高機関である。この株主総会には出資者である株主がそれぞれ一票を行使することができる。その株主の投票ですべての議案が決定される。

 しかし、その株式が国内、あるいは国外まで分散し、そのそれぞれが、少数の株式しか所有しないようになればその株主総会に出席することはかなりの困難性を伴うことになる。それは株式の所有が分散すればするほど難しくなる。そうなるとこの議決権の行使は、誰かに委託されることになる。このことによってもっとも有利な立場に立つのは、企業経営のトップに立っている最高経営者である。なぜなら株主総会はその最高経営者によって招集されるからである。企業の最高経営者はその招集状に委任状を同封し、それを最高経営者に委任するようにすれば自ら株式を過半数持っていなくても、株主総会を牛耳ることが可能になるだけでなく、必然となる。こうして、企業の最高経営者は、自らの思うような議決を獲得することが可能になる。このようなことからバーリとミーンズは「所有と経営の分離」論を主張した。

 このような理論展開から所有と経営の分離が主張され、企業の経営者支配論が議論された。しかし、これは株式会社における株主総会が経営者の支配になるということを主張しているだけであって、それが資本の支配を、すなわち、企業活動が剰余価値の追求から離れるということを証明するものではなかった。

 すなわち、どのような説明が行われようと近代株式会社が巨大化し、巨大な独占企業として経済界に存在し、その独占企業体としての活動が資本主義経済に大きな影響力を持ってきたことには変わりはなかった。そのために、独占による弊害が国民の側から主張され、いろいろな国でいろいろな形で独占体の活動に国家権力による規制が主張され、それが独占規制の動きとなって、国民の世論を動かし、多くの資本主義国で反独占の法的規制が行われることになった。

 それゆえ、このようなバーリとミーンズの「所有と経営の分離」論は資本と経営の人格的分離を証明していたが、それは巨大企業が資本の利潤追求の欲求から免れるものではなかった。それは資本主義社会での資本の欲求をなくすものではなかった。しかし、巨大な資本を集中した巨大企業は、社会の重要な生産の機構になっており、まさに経営学者ドラッカーが指摘するように「社会的存在」となっていた。ここから巨大な資本を集中した巨大企業と、社会的存在としての巨大企業との矛盾が発生する。それは巨大な資本としての要求と、社会的存在としての企業の責任との矛盾である。すなわち、社会的存在としての企業は、社会に対して一定の責任をもって、商品を供給することが必要であり、そのことによって社会を安定させることを必要とする。

 このような矛盾に直面して、「企業経営者の社会的責任」論が展開されるようになった。それは、巨大な企業の最高経営者にその社会的責任を自覚し、その社会的責任に恥じない行動を行うことを主張するものである。たしかに、アメリカにおいて、巨大な財産を築いたロックフェラーやフォードは自らの財産の大部分をロックフェラー財団やフォ一ド財団に寄付し、その収益金の一部を慈善事業に寄付をするという行動に出た。しかし、それは、ロックフェラーやフォードの個人資産を相続税にとられず、財団を支配することによって企業を支配する戦略であったことは現在明らかになってきている。それゆえ、その行動を見て、「社会的責任」を企業経営者が目指しているものとは思えない。それは独占批判へのちょっとした隠れ蓑であったと言わなければならない。

 このように考えてみると、「経営者の社会的責任」論は、その社会的存在に相応しい行動をとるべきだということを論じていても、その実行力ははなはだ疑わしいものである。それはちょっとした隠れ蓑以外の何ものでもないと言わなければならない。巨大企業のその社会的存在に則っての行動を導き出す規範としての役割を期待することは、とうてい出来るものではない。

三 大企業の積極的合理化論
──略──

四 日本の株式会社の独自的問題

 日本では第二次世界大戦が終わるまでは、株式会社の株式を国民大衆が持っているということはほとんどなかった。このことが後に展開される株式の民主化という過程に大きな陰を残している。大戦が終了した後に、日本を占領したアメリカ軍は、日本の民主化の一環として、農地改革や労働運動の促進とともに、財閥の解体を行った。戦前の財閥は持株会社としての財閥本社が株式会社を所有して、それによって日本経済全体の支配を行っていたのであるが、アメリカ占領軍は、財閥本社から株式を放出させるとともに、一九四七年の独占禁止法の制定によって、事業会社の株式所有を禁止し、銀行の持株を相手会社の五%以下に制限して、日本経済の民主化を図ろうとした。

 こうして財閥本社から大量の株式が放出されたのであるが、戦後疲弊しきっていた日本経済の中で、国民がこれを買いとる余裕などはなかった。それでも、これらの大量の株式は従業員を中心とした縁故者によって買い取られるか、名目上証券会社での所有になっているが、事実上の自社株の所有となっていた。しかし、朝鮮戦争によっての日本経済の復活とともに、一九四九年ならびに一九五三年の独占禁止法の改正によって事業会社ならびに金融機関による株式所有の緩和が行われると、同時に、戦後いくつかの会社に分割された三菱商事が一九五四年に大合同して再出発したように、かつての財閥系の会社が復活した。この時、例えば三菱商事が四倍弱という大増資を行い、その増資した株式を三菱グループの各社に第三者割り当てをするなどしていわゆる三菱グループ形成の基礎を作るとともに、いわゆる「安定株主政策」を行った。これが戦後に行われた「安定株主政策」の第一段階である。

 その後、日本経済は復興を遂げ、日本政府は、一九六一年にOECD(経済協力開発機構)に加盟するとともに、日本企業の資本取引を自由化することを約束した。そこで日本の大企業は外国資本に乗っ取られないために対策を取り始めた。その時に、一九五〇年代後半から始まった高度成長期の過剰蓄積がもたらした六五年の不況期に山一証券の経営が悪化して倒産寸前に至った。この窮地を救うために、日本銀行からの特別融資を行うとともに、金融を引き締めた。金融の引き締めによって銀行からの借り入れが困難となった大企業が、資金調達のために株式の大量発行を行った。その結果証券会社の手持ち証券は急激に増加した。その窮状を救うために、六四年には金融機関を中心に日本共同証券が設立され、さらに六五年に証券会社を主体に証券保有組合が設立され、両者で四二〇〇億円を超える株式を棚上げにした。

 六〇年代の「安定株主政策」はこの日本共同証券ならびに証券保有組合の凍結株を引き取るという形で始まった。このことで、市場に出回る株式の減少が株価を支えることを知った大企業は、さらに「安定株主政策」を推進し、市場からそこで取引されている浮動株を買っていくことによって「安定株主政策」は日本の大企業に定着していくことになる。このような「安定株主政策」によって日本の大企業の株式の多くはグループ内の各社によって、所有され、所謂「株式の相互所有」という現象が支配的となった。

 このことは、前に述べた株式会社の最高議決機関は「株主総会」であると言うことが形骸化されることを意味している。その結果、日本の大企業の最高経営者たちは、欧米とは異なって、株主総会の支配を恐れず、株主対策や配当政策は形だけのものとなってしまった。それは、株式会社の経営は、経営者グループの思うままに行われるということになり、株式会社の株主総会は完全に形骸化し、形式的に行われるに過ぎないことになる。それにつけ込んで暗躍したのは、いわゆる「総会屋」である。それは自分勝手に経営をしている経営者のスキャンダルにつけ込み、暴力団などと結びついた「総会屋」が株主総会を彼らの利益の場にしようとしたのである。

 このように考えてみると、日本での株式会社の性格は、欧米とは異なって、株主総会の決定に従う最高経営者では無く、経営層の独自の利益に従う。ということは個々の株主ではなくまさに巨大資本の利益を代表するものとしての最高経営者の利益に従って、企業経営が行われることを意味している。日本の経営層は従業員の利益をも無視し、株主の利益も無視をする。その意味では巨大資本そのものの利益を純粋に代表する日本の経営者層の行動を明らかにする課題がある。このことが派遣社員の無原則的利用とか、臨時社員の大規模な利用とか、従業員に長時間労働を課するとか、そして従業員には成果主義という評価方法を導人し、従業員のそれぞれを競争させることになり、戦後日本経済の復興とその発展を支えてきた日本の作業システムを破壊しようとしている。そして、大量の派遣社員を利用することによって、企業の中に蓄積されるべき技術・技能が無くなることもおそれない経営手法がとられている。

 現在の大企業の経営者の背景は、このような無責任な利益、それも最高経営者の利益の追求を求めるものであるといわねばならないであろう。
(「経済 2008 9月号」新日本出版社 p79-87)

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◎「階級的労働組合と革新民主勢力が、貧困と社会的格差の広がりに対し、非正規の労働条件改善と組織化、大企業の社会的責任の追及など、国民的反撃を開始し」と。