学習通信090121
◎“企業悪”……

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波 音

◇説明責任

 日系ブラジル人を労働力として受け入れた地域では、学校や社会から孤立してしまう子どもたちが大きな問題となった。一部、非行化するグループもあり、対応に追われる担当者らから「企業は結果的に教育や治安のコストとリスクを社会に丸投げしている」といった批判の声も聞かれた。

 景気が悪化する中、今度は日系人労働者が職と住を失いつつある。「二重のコスト丸投げでは」と気をもむ自治体やボランティアらに向け、企業はここに至った事情をていねいに説明すべきではないか。悪者のイメージが定着してしまっては、誰も何も聞いてくれなくなる。(坂)
(「日経 夕刊」20090121)

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総選挙勝利を党史に刻む年に
「党旗びらき」での 志位和夫委員長のあいさつ

──以上略

国民世論と財界・大企業の関係でも大きな変化が起こった

 国民世論と財界・大企業との関係でも大きな変化が起こりました。歴史的にみてみますと、かつて一九六〇年代から七〇年代の時期に、財界・大企業が、自分たちが引き起こした公害=環境破壊の責任を認めず、「石油ショック」が起こると、「千載一遇のチャンス」といって買い占め・売り惜しみという悪徳商法にまい進するという横暴勝手を繰り返し、これらの“企業悪”――大企業が引き起こす社会悪にたいする警戒と批判が日本社会に大きく広がったことがありました。

 そうした社会的な雰囲気を変えたのが、一九八〇年代前半の「臨調行革」でした。その司令塔となった経団連名誉会長の土光敏夫氏を中心に、「民間大企業こそ、その仕事ぶりでも、生活ぶりでも、日本社会の模範だ」という一大キャンペーンがおこなわれました。土光夫婦がメザシをおかずに食事をしている風景が宣伝され、“メザシの土光さんに学べ”という掛け声が日本社会を覆っていきました。そうして「社会的復権」をはたした財界・大企業は、その力を背景に大企業中心・国民犠牲の政治をおしすすめていったのであります。

 ところがいま、流れが変わってきたではありませんか。財界・大企業が引き起こす“企業悪”にたいして、再び日本社会から大きな批判の声がわき起こっています。不景気とはいえ、つい最近まで巨額のもうけをあげ、巨額のため込みをおこない、大株主には巨額の配当をつづけている大企業が、労働者から職も、生活も、住居もとりあげて、真冬の巷(ちまた)に放り出す。これはあまりに社会的責任を無視した横暴勝手な行動ではないか。こうしたきびしい批判が広くわき起こっています。財界・大企業は苦労して得た「社会的復権」を、いま自らの手で覆しつつあるのであります。

「ルールある経済社会」
――この綱領的展望に国民的共感が

 これが長らく自民党政治の「司令塔」だった財界・大企業の現状であります。彼らはいま、日本資本主義のゆがみと脆さが世界経済危機のなかで噴き出し、その路線が破たんするなかで、先の見通しを失い、国民世論からも孤立しつつあります。

 こうした中で、財界・大企業の横暴に正面から立ち向かう日本共産党の立場が輝きをましています。「外需頼みから内需主導への転換を」というわが党の主張は、与野党をこえてすべての政党がいわざるをえなくなっています。「ルールなき資本主義」を正そうという綱領的展望が、広く社会的に共感を呼ぶ状況が生まれています。みなさん、この大きな変化に確信をもって、今年を、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」への大きな一歩を刻む年とするために、ともに奮闘しようではありませんか。(拍手)
──以下略
(「赤旗」20090106)

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大機 小機

派遣労働者の解雇と会社法

 世界金融危機は実体経済を大きく覆い、社会の最も弱い層から犠牲者が続出し始めている。とりわけ日本で目立つのは大企業による派遣労働者の解雇だろう。日ごろ、株主価値よりも雇用が第一と言っている企業が、人間の生存を脅かすような決定を下すことには、強い違和感を禁じ得ない。しかしそこには、会社法制における労働者の位置付けが正社員についてさえも軽視される日本の実情が背景となっているようだ。

 会社は株主のものであり、経営者は株主の代理人である、といった会社法の古い見方からすると、会社法と労働との接点は乏しい。土地や建物などを買うのと同様の感覚で労働を「買う」という発想が中心である。あとは社会政策的な保護の対象として労働法があるにすぎない。

 しかし、こうした発想によったとしても、有限責任利益を享受する株主の存在が債権者に劣後(他にくらべて比べて劣りおくれること)することは明らかである。とりわけ破綻処理のような状況になれば、被害を受ける債権者が現実化する状況であるために、加害者としての株主責任が問われこそすれ、株主主権などとは言えない。こうした考え方は、契約上いつ切られてもよいような文言が存在する派遣労働者には通用しない、と言えるのか。

 会社の目的とはそれぞれの会社が有する使命、ミッションの最大実現であると考えるなら、労働者も経営者も派遣労働者もそうしたミッション実現組織の正当な構成員ということになり、権限の相違は立法政策の問題にすぎないことになる。派遣労働者も生身の人間としての生存がかかる会社法上の特殊な債権者であり、会社として十分な配慮義務があることになる。

 特に欧米のように株主が個人である点にこだわる社会では、株主とは人間であり、消費者であり労働者である。ドイツでは労働者は経営の中枢に位置付けられる。フランスでも合併などには労働者の合意が必要だ。英国も法制上労働者の地位は非常に高い。米国も個人株主中心の社会である点で欧州と軌を一にする。

 会社法が労働を論じるのは当然のことである。会社法に労働概念がなく、労働法に企業概念のない日本の法制の基本的考え方が、派遣労働者の犠牲を安易に肯定する発想の基礎にある。厳しい生活を強いられる労働者よりも株主の方が大事という発想が正しいのかどうなのか、しかと考えるべきであろう。(盤側)
(「日経」20090121)

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◎「財界・大企業が引き起こす“企業悪”にたいして、再び日本社会から大きな批判の声がわき起こってい」ると。