学習通信090122
◎生存をつづけるために繭をつむいでいるとしたら……

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蚕から布まで

 綿も絹も古い起源を持ちながら、しかも日本の近代産業のもとになったものだ。すでに綿花や肥料については書いたが、農村における産業を描くとき、『カムイ伝』には共通した特徴がある。それは原料の栽培・育成のみが描かれ、完成品になるまでの行程は描かれていない、ということだ。

 具体的に言えば、綿の場合は綿花をつんだのち綿繰り機にかけて綿の種を取り除き、「綿打」「篠巻」「糸紡ぎ」「かせ糸」「糸染め」、そして問屋、呉服屋までの過程をたどる。それについては、第三章で述べたとおりである。染めるための植物染料を作るにも多くの過程がある。藍や紅花や山桃などを育て、葉や花や樹皮を採取し、発酵させたり煮たりして、染料液を作る。その液の中に糸を入れて長時間煮る。あるいは媒染を組み合わせて浸けたり干したりすることを、何日もかけて繰り返す。その「染め」の過程は、『カムイ伝』には描かれない。

 ようやく染め終わった糸を充分乾かし、織機にかける。まず経糸を、長さを計算しながらかけてゆく。経糸がかかったら、そこで初めて織機の前に座り、織ることになる。

 ここまでが非常に手間がかかるために、慣れている人は、織機に座ったあとはあっという間だ。ただし織りの技術が、糸をすくいながら織るすくい織りや、さまざまな糸を入れながら文様を織り出すものになると、数か月かかる。このような「織り」の過程も、『カムイ伝』には描かれない。

 絹の場合、桑を栽培して出荷するだけの農家は、桑を売ればおしまいである。桑の栽培と養蚕をするところまでをおこなう農家は、マユを売る。マユを買い取った業者はそこから糸を取って売る。糸から染める、あるいは織る業者がまた別にいる。このような分業システムが整うまでは、農村ですべての工程をおこなっていたが、分業が成立すれば専門化する。

 『カムイ伝』が描くのは綿花で言えば栽培とつみ取りまでであり、養蚕の場合はマユ作りまでである。この背後にはすでに見たように、肥料の採取と流通システムがあり、また製品が完成するまでの職人技術があり、それを販売する流通システムがあった。正助は何もかも初めておこなっているのではなく、江戸時代にすでにこれらのシステムが存在しているその社会の中で、花巻村に綿花栽培や養蚕を広めている、ということになる。そうでなければ、すべての工程をおこなわねばならない。

 「わしら玉手生まれはこの音をきかなきゃねつかれんもんじゃ」とスダレは言う。「この音」とは、蚕が桑の葉を食べる音である。桑を食べた蚕は幾度もの「眠」に入りながらついにマユを作る。『カムイ伝』が描かないこれ以後、蚕が入ったマユから人は糸をとる。『養蚕秘録』によると、マユができてから五〜六日後に、沸騰した鍋の湯の中にマユ一升を四〜五回に分けて入れる。マユが煮えたときに箸でかきまぜながら、すべてのマユの糸口をとり上げる。

とり上げた糸口の半分は鍋のふちにかけておき、残りの半分の糸口を手にとって糸をとる。そして竹製のわく(丹波、丹後、但馬の方法)あるいは、大小の車(奥州の方法)に巻いてゆく。糸が細くなったら、かけておいた糸口をとって均等の太さになるよう調節する。わくにとった糸はさらに大きなわくに巻き次に糸束にする。こうして生糸ができあがるのだ。糸はさらに「撚り」にかけられ、強靭にしたあとで織られる。

 生糸は白が最上とされた。真っ白な生糸は中国製だった。白い生糸からできた白い絹織物は、染めたときに素晴らしく美しい色になるのである。糸には麻や樹皮や綿や絹などいろいろあるが、絹が尊重されるもっとも大きな理由は、その染め色の美しさである他の糸や布では絹の出す色の神秘的な深さにはとてもかなわない。だからこそ、絹糸を化学染料で染めるのは論外だ。糸の質を大切にしていないことになる。日本の「襲(かさね)の色目(いろめ)」という、自然を布に写す文化は、絹なしでは存在できなかった。

 『源氏物語』に「透き給へる肌つき」という言葉がある。絹の向こうに光源氏の肌が透いて見える、その涼しさ美しさを表現したものだ。透ける布で色を二重に重ねることも襲の色目の決まりに従ってなされた。布の「透ける」感覚は、日本の文学に頻繁に出現する、日本文化の特徴の一つである。そしてこれもまた、絹無しには存在しなかったのである。

 絹織物は、単に交叉させる平織りばかりでなく、撚り方、織り方でつるつるの布になったり、透き通ったり、厚く丈夫になったり、しなやかで軽くなったり、しぼのある素朴な布になったり、文様を織り込んだりと自由自在である。これは生糸が他のどの糸より細く長いからだ。人間の美意識と技術力しだいで、あらゆる性質の布になる、というところが、絹のすばらしさだった。

 このような絹織物も、中国の高機(たかばた)を使った技術は他の追随を許さないものだったので、高級絹織物の輸入も江戸時代初期まで続いている。しかし江戸時代に入ると、絹織物は輸入されなくなる。日本が織りの技術を高度に発達させたからである。文様織りだけでなく、織った布に手描き染め、型染め、絞り染め、刺繍がなされるようになり、中国にはない独特の織物を展開するようになるのである。絞りと刺繍をほどこした「辻が花」、風景や花鳥を手描きで染め上げた「風景の着物」などは、世界のどこにも存在しない、江戸時代の日本の職人だけが作り上げた世界である。

 スダレやナナが育てた蚕は、最終的にそのような商品となって、都市で流通したのだった。このような高級品は、マユを育てている農民たちの身を包むことはなかった。織り上がった反物は、各地の市に買い付けに来る江戸の三井越後屋ほどの大手呉服屋の手代の手に渡り、江戸や大坂や京都で売られ、着物に仕立てられる。その流通の過程で多くの商人が潤い、とくに呉服商は両替屋を経営し、札差という富裕な金融業者に育ってゆく。後の財閥や銀行は呉服屋から出現することが多かった。呉服屋は絵双紙屋と手を組んで、浮世絵を宣伝媒体に使い、芝居小屋や遊廓も巻き込んで流行を生み出してゆく。江戸時代の大都市の文化は、呉服屋の富なしでは存在できなかったろう。

 しかし都市にも、呉服屋に行けない人々はいくらでもいた。彼らは古着屋で着物を買う。絹の着物は使い捨ての商品ではなく、質ぐさとしても価値が高かったので、古着として市場を幾度も流れ、袋ものになったり、端切れになったりしながら、最後は灰として売られて畑に戻った。絹織物は高価なだけに、徹底的に使い尽くされるのである。

 絹織物の中には、庶民がよく使う布もあった。「紬(つむぎ)」である。紬を織るための紬糸とは、真綿あるいはくずマユから引き出して紡いだ糸である。真綿こそ、生糸よりはるかに庶民の生活に身近なものだった。真綿とは綿の綿ではない。蚕が作り出したマユを開いて平面にし、たたいて薄くのばしたものである。これを着物の布と布のあいだに入れ、防寒に使った。軽く、非常に暖かいものだ。

平安時代には真綿が各地で作られるようになり、紬も生産された。そして真綿は、着物が使われていた戦後しばらくまで、代表的な防寒素材だったのである。真綿の生産と使用の技術は、日本の衣料にとって重要なトピックである。生糸絹織物は貴族や武家に供給することを目的にしたものであったが、庶民にとって養蚕とは、自分たちの生活の面ではマユの使用、つまり真綿の利用であり、そのことを通じて養蚕技術を高めていったのである。
(田中優子著「カムイ伝講義」小学館 p126-131)

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 しかし、労働力を働かせること、労働は、労働者自身の生命の働きであり、彼自身の生命のあらわれである。

そして、この生命の働きを、彼は必要な生活手段を自分に確保するために、第三者に売るのである。

だから、彼の生命の働きは、彼にとってはただ生存しうるための一つの手段にすぎない。生きるために、彼は働くのである。

彼は、労働を彼の生活のなかに数えいれることさえしない。労働はむしろ彼の生活の犠牲である。

それは、彼が第三者に売りわたした一つの商品である。

したがって、彼の活動の生産物もまた、彼の活動の目的ではない。

彼が自分自身のために生産するものは、彼が織る絹織物でもなく、彼が鉱山から掘りだす金でもなく、彼が建てる大邸宅でもない。彼が自分自身のために生産するものは、労賃である。

そして、絹織物や金や大邸宅は、彼にとっては、一定量の生活手段に、おそらく一枚の木綿の上衣や銅貨や地下の住居に変わってしまうのである。

そして、一二時間、織ったり、つむいだり、掘ったり、〔臼で〕礒いたり、建てたり、シャベルですくったり、石をくだいたり、運んだりなどする労働者──彼にとっては、この一二時間にわたる織布、紡績、採掘、〔臼による〕粉砕、建築、土すくい、砕石は、彼の生命のあらわれであり、生活であるとみなされるであろうか? 逆である。

彼にとっては、生活は、この活動が終わるところで、すなわち食卓で、飲屋の腰掛で、寝床で、はじまる。

これに反して、一二時間の労働は、彼にとっては、織布、紡績、採掘などとしてはなんの意味もなく、彼を食卓や飲屋の腰掛や寝床につれてゆくかせぎ口として意味があるのである。

もし蚕が幼虫としてその生存をつづけるために繭をつむいでいるとしたら、蚕は完全な賃労働者であるということになろう。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p35-36)

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◎「労働力を働かせること、労働は、労働者自身の生命の働きであり、彼自身の生命のあらわれである」と。