学習通信090126
◎この非人間化してゆく今日の社会で……

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 これがマンチェスターの旧市街である──私は自分が書いてきたものをもう一度読み返してみて、それが誇張であるどころか、少なくとも二万ないし三万の住民をふくんでいるこの地域の、不潔さや荒廃や、住むに耐えないありさまや、清潔さや風とおしや健康にたいする配慮をまったくあざ笑うような町づくりの仕方をはっきりとしめすのには、まだまだ鋭さが足りないということを、みとめなければならない。

そしてこういう地域がイギリスの第二の都市、世界第一の工場都市の中心に存在するのだ! もし万一の場合、人間が身体を動かすのに最低どれだけの空間があればよいか、また呼吸するのに最低どれだけの空気──そしてなんとひどい空気だろう!──があればよいか、最低どれだけの文明で人間は生存できるのか、ということを知りたいと思ったら、ここへ来さえすればよい。

もちろんそれは旧市街のことである──そしてこの土地の人びとは、この地上の地獄の恐るべき状態について話しかけられると、それは旧市街のことだといって気休めにしている──しかしそれがなにになるのか? ここでわれわれの嫌悪とわれわれの憤慨をもっともはげしくかきたてるものは、すべて比較的最近生じたものであり、工業時代のものである。

旧マンチェスター時代からの数百戸の家屋は、もとの住民からはとっくに捨てられている。ただ工業だけがいまそこに泊まりこんでいる労働者の群を、そこにつめこんだのである。

ただ工業だけが、農業地域やアイルランドから雇いいれられた集団のための宿を入手するために、こういう古い家屋のあいだにあった小さな土地を、建物でふさいでしまったのだ。

ただ工業だけが、こういう家畜小屋の所有者に、彼らだけが金持になるために、これらの家畜小屋を高い家賃で住宅として人間に賃しだし、労働者の貧困を利用しつくし、数千人の健康を害することをゆるしたのである。

ただ工業だけが、やっと農奴身分から解放されたばかりの労働者を、ふたたびたんなる材料として、ものとして使用することを可能にしたのであり、そして労働者を、ほかの人にはあまりにもひどすぎる住居にとじこめ、また高い家賃を払ってもこれを荒廃させてしまう権利しかないような住居にとじこめることを可能にしたのである。これらの労働者がいなければ、これらの労働者の貧困と隷属とがなければ、工業は存在しえないのに、その工業がこういうことをしたのである。

この地域がもともと劣悪な条件のところにつくられ、その後の改善の余地もほとんどなかったのは事実である──しかし地主や行政当局は、その後の建築のときになにかを改善しただろうか? 逆に、ほんの片隅でも空いていれば家を建て、余計な出入口があれば建物でふさいだ。

地価は工業の繁栄とともに上昇し、それが上昇すればするほど、住民の健康や快適さを考慮することなしに──どんなバラックでもひどすぎるということはない。もっとましなバラックの家賃が払えない貧乏人はいつでもいる──ただ最大限のもうけだけを考えて、ますます狂ったように建築がすすめられた。しかし、とにかくこれは旧市街のことだ。そういってブルジョアジーは安心している。それでは新市街(the new town)はどうなっているのか、見てみよう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p92-94)

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 都市における劣悪な居住環境をスラムと呼ぶなら、スラムには二つの種類のものが考えられる。

一つは老朽、過密や上下水道、特に排水のような都市施設が不十分であるため、物理的に不衛生、不健康な都市環境であり、いま一つは住居や都市施設等は完備しているのにもかかわらず、近隣に対する無関心、疎外感から、非行、性犯罪等の多発する都市環境である。

前者は発展途上国に多く、これをフィジカル・スラムと呼び、後者はアメリカのような高度工業社会に見られるものでソシアル・スラムと呼ばれ、新しい社会問題となりつつある。

都市評論家として著名なJ・ジェコブス女史は、商業地区、住居地区等のような用途地域制があまりに純粋に実現され、都市機能が単純化することを恐れ、彼女は都市における用途の或る程度の混在を主張する。

ニュー・ヨークのグリニッチ・ビレッジはこの用途の混在した庶民の街であるが、彼女がこの街の保存のために勇ましく闘ったのも、この理由によるものと考えられる。彼女は街の中に誰かがなんとなく見はっていること──ストリート・ウォッチャー(street watcher) の存在が大切であるという。

ソシアル・スラムの発生は、用途地域制のゆきすぎと街並みの構成の不都合さから、死角だらけの不安な空間をつくり、ストリート・ウォッチャーの存在を許さないような建築計画がその原因の一部であると考えられている。高層アパートの自動運転のエレベーターの中、深夜のすいた地下鉄の中は、ウォッチャーのいない危険な空間であり、このようなことは街並みの構成の在りかたによって起こりうるのである。

 何年か前、イタリア南部の田舎町で、自動車が道標にぶつかって動けなくなったことがある。ふと気が付くと、どこから出て来たのか多数の住民が、ある者はワイヤー・ロープー、ある者はスコップを持ってわれわれを救けてくれるではないか。後で考えてみるとこの静かな早朝の田舎街で誰が何処から見ていたのであろうか、不思議に思うほどであった。

またある時、ヴェネツィアの知り合いのイタリア人とその子供達を連れて、サン・マルコ広場に出たことがある。子供達は喜々として、あの舗装の模様沿いに鬼ごっこをしたりして、しばし遊んだ後、いよいよ寝る時間になって広場の脇の住いに帰ると、子供達は二階の方に向って「ボナ・ノッテ」と大声で叫ぶ。一斉にそのあたりの窓という窓が開いて、沢山の顔がその子供達に「おやすみ」の挨拶を交わすのである。

ちょっとした物音、人々の声などに敏感に反応するイタリアにはまだまだストリート・ウォッチャーが存在し、街を住民のみんなで静かに見はっているのが実感としてわかった。このような地縁によって結びつけられた近隣意識は何もイタリアでなくとも世界中到る所に見られ、わが国の地方都市にもまだまだ健全に存在していると思われる。

しかしながら、街並みの構成の手法の中で、内外の空間秩序を流動させて計画的にこのような近隣意識をうまく醸生させたのは、何といっても京都の街並みであろう。「おもて」で遊ぶ子供達は、格子ごしに母親の領域にあり、「おもて」で行われる日常の行事、掃除、植木の手入れ、水まきをはじめ、祭事その他はここに育ってゆく子供達の社会教育の場としても重要であったのである。

 しかしながら、どの国でも工業化が進むにつれてこのような地縁的近隣意識は崩壊する方向に向うことは残念ながら事実である。

なんとなく見はられているような近隣意識よりは、大都会の匿名性や非情性の方が遥かに若者の心を打つ。

また、公務員宿舎や大企業の社宅のように地縁に関係なく組織のヒエラルキーをそのまま持ち込むような集団社会や、自らがつくり出した街並みでなく与えられたコンクリートの箱の中に入らなければならない住宅公団の大集合住宅群のような社会──いずれも人間形成の場として、大きな問題をはらみながらも、現実は非人間的な都市環境へと驀進していることも事実である。

如何にして、この非人間化してゆく今日の社会で再び人間本来の生活を取り戻すことができるのであろうか。また、われわれの住む環境をより美しく、より住みやすくすることができるのであろうかについて、深く考察する必要があると思われるのである。
(芦原義信著「街並みの美学」岩波現代文庫 p64-66)

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◎「これらの労働者がいなければ、これらの労働者の貧困と隷属とがなければ、工業は存在しえないのに、その工業がこういうことをしたのである」と。