学習通信090128
◎利害の衝突や、それを乗り越えて……

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戦いとしての一揆

 一味神水(いちみじんすい)の儀式を通じて一味同心を得た後、一揆を結ぶ。その場合の一揆とは、日常的な通常の方法(通常の話し合いなど)では解決が不可能であると考えられる問題を解決することを目的にしている。

 起請文がそうであるように、一揆は私たちの言うところの訴訟とは異なる側面を持っている。それは人と人との契約や信頼だけを基準にした現実的な方法というだけでなく、神水を回し飲みすることで神慮(しんりょ)(神の意志)によって結びつく、とされた点である(ただし、江戸時代になるとかなり薄らいでいくようだが)。

なぜ現実を超えた集団が必要になるか。それは、どのような目標を立てようと、個々ばらばらに存在する現実の利害は必ず対立し、一致して一つの行動を起こすことはできないからである。

そこで「一味神水」という儀式をおこない、それぞれの社会的諸関係を断ち切ったところで、集団を超越的なものにしたのである。

今は言葉や論理で「大義名分」を作り出すが、当時は一揆を結ぶことで行動を起こした。大義名分に比べ、一揆は理屈をこねる必要もなく、方便としての嘘をつかなくても済む。

何より大義名分に比べ、一揆そのものが恒常的でないため、永続的な「敵」を作り出すことにはならない。一揆は、当面の目的が達成されればよいのである。

 中世の「評定会議」では公正さを保つため、訴訟当事者との個人的関係や感情を断ち切り、権威や権力からの影響を遠ざける、というシステムが作られたことを書いた。一揆の基本はこの、個々の日常的な関係の切断にあると思われる。

とはいっても一揆を結ぶその当事者どうしの関係は、極めて日常的な場合がある。たとえば中世では、「ー族一揆」というかたちで戦闘に参加することもあった。

また中世村落は江戸時代に比べてはるかに独立性が高く、若者たちは村の軍事力でもあり、集落同士の戦いには村人が結束して戦った。

一方、一向一揆や法華一揆は、彼らを根絶やしにしようとする織田信長への、信仰集団による反乱であった。どちらにせよ非日常的なつながりといっても、村落内の人々は見も知らぬ者どうしではない。しかし一揆とは、どのような地縁血縁があろうと無かろうと、個人的な都合や利害を断ち切った集団なのである。

 むろん一揆集団が訴訟集団として談判に成功した場合、その利益は個々が受けとることになる。しかし一方で、死をもいとわないことがあり、個人的レベルで見れば損失でしかないこともある。

一揆は個人的利益を結果することはあるが、個人的利益を目的にしたものではないのである。

むしろ一揆の歴史を見ると、一揆行動の積み重ねが村落や階層や集団の状況を外に伝え、外部者の理解につながり、時には次々と合流して一揆がふくれあがり、広い範囲でさまざまな共同体の状況を改善していっている。一揆は積み重ねの中で初めて意味を持つものなのだ。
(田中優子著「カムイ伝講義」小学館 p147-149)

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年貢銀納めぐり議論
 意見まとめに庄屋も必死

 近世後期に入り、幕府や藩の支配体制が崩れてくると、民衆の不満が次第に表面化し、各地で百姓一揆がおこるようになってきます。この丹後地方でも文政五年(一八二二)に宮津藩領下でおこった打ちこわしをはじめ、各地で大規模な一揆が起きました。

 しかし民衆運動は一揆のみに限らず、負担軽減を求める訴訟として各地で粘り強く、かつ驚くほど周到な手続きで展開されていたのです。そこで、ここでは久美浜代官所の支配に置かれていた村々による、年貢銀納をめぐる運動のひとこまに注目してみました。

負担軽減求め代官所に願書

 久美浜代官所領では慣例として年貢全体の三分の一を銀で納める方式が採られていました。そのため村々では米を銀に換算する際の値段を低く押さえることによって負担を軽減したいと常に願っていたのです。

 天保の改革の後、ペリーが来航して開国を迫った年の六年前に当たる弘化四年(一八五一)の十月上旬、村々はそれまで宮津・峰山の米値段と久美浜の小作米取立て値段の平均と定められていた銀納値段を、以後は宮津・峰山の分は二割引にして換算してほしいと、代官所領全体の代表者である郡中代(兼久美浜村庄屋)、ならびに数カ村でつくった組合村の代表者である惣代庄屋の名で願い出ました。

 これに対し代官所は十五日に彼らを呼び出し、まずは叶いがたいと返答、また内密で郡中代に、米で納める分のさらに二割を銀で納めれば値段を今までより一割四歩三厘ひいてもよいとの妥協案を示しました。これを受けて村々は次なる願書作成のための評議を開始したのです。

郡中代と惣代庄屋が対立し

 まず郡中代の七郎兵衛・仁兵衛は代官所の妥協案をただちに惣代庄屋たちに示しましたが、彼らは納得せず、逆に久美浜の小作米値段を下げるように要求しました。しかし十九日、仁兵衛は自宅に六カ村の庄屋を招いて説得、彼らは我々の難渋を心得てくれと念を押しながらも渋々了解しました。

 これによって郡中代は意見がまとまったと判断し、翌朝代官所手代の浅井豊助の家へ出向き打診を行います。浅井は採用してほしい換算方式の年季をはっきりさせたほうがいいと助言をします。郡中代は帰るとすぐ惣代庄屋に、年季に関する意見を各村から持ち寄ってほしいと伝え、早速その日の晩に仁兵衛宅で評議を再開しました。

 ところが、惣代庄屋の持ってきた回答は、いま一度久美浜小作米値段について検討しなければ願書に印を押さないという、論議をふりだしに戻してしまうようなものでした。郡中代仁兵衛はさすがに腹を立て、なぜそのような話になってしまったのかと一喝。意見を述べた伊右衛門は黙り込んでしまいました。しかし庄屋たちが引き取ったあと仁兵衛は我に返り、村々が印をおさないとまでいったことは無視できないと考え直し、四ツ時(夜十時頃)もう一度庄屋たちと会所で評議し、翌日も場所を仁兵衛宅にかえて続けました。

 議論はやはり久美浜小作米値段に集中し、願書に盛り込ませたい惣代庄屋側とそうしたくない郡中代側の対立はいっこうに収まらず、このままでは願書提出さえもままならないほどでした。そこでこれをみかねた湊宮村の徳兵衛が「久美浜村の庄屋である郡中代が自村の小作米値段の引き下げに同意するはずがない、だからといってこのままでは願書も出せず共倒れとなってしまう」と出席者を諭し、ようやく評議は郡中代の案に沿った形でまとまってゆきます。

 そして以後も代官所への打診を続け、二十四日には正式に御白洲での願書提出となりました。結果は願書の内容にほぼ沿ったものとなっています。

成長した在方の政治的力量

 以上の経過から、一通の願書提出のため、庄屋たちの間でいかに密度の高い議論が行われていたかがわかります。出来上がった願書を見ただけでは、単に結束した村々の姿しか現れませんが、その舞台裏をのぞけば、村同士の利害の衝突や、それを乗り越えて実現可能な要求を作り上げようとする彼らの必死の姿が見えてくるのです。

 様々な利害を持った村々が議論をたたかわせてゆく、このような在方の政治的力量の高まりが、幕末維新期の民衆運動を広く支えていたのです。
 (宮本裕次・大坂城天守閣学芸員)
(岩井忠熊著「まちとくらしの京都史」文理閣 p220-223)

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◎「一揆の歴史を見ると、一揆行動の積み重ねが村落や階層や集団の状況を外に伝え、外部者の理解につながり、時には次々と合流して一揆がふくれあがり、広い範囲でさまざまな共同体の状況を改善していっている」と。