学習通信090129
◎地球はいま、とんでもない危機に見舞われています。……

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自然がぼくにマンガを描かせた

 ぼく宝塚という町で育ちました。幼少年期をそこで過ごしたわけですが、いじめられっ子≠ナしたし、戦争にも突入したし、すべてよいことばかりだったなんてとても言えません。だから決して昔に戻りたいとは思いません。

 けれども、いまから思うと、まわりに自然があふれていたことはありがたいことでした。幼いころ、駆けずりまわった山川や野原、夢中になった昆虫採集は、忘れられない懐かしさと輝きを、ぼくの心と体の奥深くに植えつけてくれたのです。ぼくのペンネームの「治虫」も甲虫のオサムシになぞらえたものです。

 子どものころの自然のすぱらしさ、豊かさはいまでも鮮やかに蘇ります。

 ほんの少し以前まではどんな小さな町にも雑木林とか原っぱがあって、ガキ大将といっしょに日暮れまで走りまわって遊べる幻想の王国でした。そこは宇宙基地でもあり、探検隊の行く秘境でもあって、空想がどこまでも広がっていく無限の場所だったのです。

 ちっぽけでも、あったかい家のすぐかたわらに、そんな場所があって、そこから子どもの夢は縦横にはばたき、まっずぐ宇宙めざして飛び出していくことができたのだと思います。

 林の向こうに真っ赤に大きく揺らめきながら沈んでいく夕日や、風のざわめき、青い空に高く流れる白い雲──そんな自然にふれたとき、たとえ幼くても、ぼくはいつもやさしい気持ちになっている自分を感じていました。大人になったいまだって、それは同じ。きっとみんなそうだろうと思います。

 人間がどのように進化しようと、物質文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはないし、どんな科学の進歩も、自然を否定することはできません。それはまさに自分自身=人間そのものの否定になってしまうのですから。

 マンガの中で未来社会をずいぶん描いてきましたが、それはぼくの中の自然≠ェ土壌となって、宇宙の彼方にも飛んでいく、あるいは小さな虫の中にも入りこんでいく想像力を育んでくれたからこそだと考えています。
 豊かな自然の記憶が、仕事に追いまくられる都市生活者となったぼくを、体の奥の湧き水のように潤してくれているのでしょう。

 連載している『ルードウィヒ・B』では、幼い日のベートーヴェンが、いつか耳の聴こえなくなることを予感し、世の中の自然と生き物の音や鳴き声のすばらしさを記憶にとどめようとするシーンを描きました。その時、彼は、ほとんど神≠感じるほどの感動を、体中を耳にして受けとめているのです。

 思えば、『鉄腕アトム』を描きはじめた昭和二十六、七年ころは、ものすごい批判が教育者や父母から集中し、「日本に高速列車や高速道路なんて造れるはずがない」とか、「ロボットなんてできっこない」とか、「荒唐無稽だ」などと大いに怒られ、「手塚はデタラメを描く、子どもたちの敵だ」とまで言われたほどでした。

 ぼくはそれでも描きつづけたわけだけれど、批判の猛烈な嵐の中でも、我慢しながら描きつづけることができたのは、たとえロボットの激しい戦いを描いていても、ぼくは自然に根ざした生命の尊厳≠常にテーマにしてきたからだと思います。

 生命のないところに未来はない。それなのに地球はいま、とんでもない危機に見舞われています。

 ぼくは『火の鳥』(未来編)で西暦三四〇〇年──地球は急速に死にかかっていて、荒れ果てた地面の下に高層ビルが林立する未来都市を描いたけれど、その都市の名前は永遠の都≠ニ名づけられています。つまり、襲ってくる不安を忘れるために未来人たちが永遠≠ニ名づけたわけです。

 でも、地球の現状を思うと、三十五世紀どころか、二十一世紀さえあやうい、という不安に苛まれている。この作品からたった二十年余しかたっていないのに、ぼくの危機感はそれこそ急展開で深まってしまった。

 地球の死とはすなわち、具体的にはぼくたちの子や孫や隣の子どもたち、きょうは元気で笑ったり泣いたり大さわぎをして、大人を困らせもするけれども、同時にかけがえのない未来人である子どもたちが、この地上からいなくなってしまうということなのです。それはあんまりひどすぎる。

 地球は今、息も絶え絶えの星になってしまいました。いったい、いつの間にこんな事態に陥ってしまったのでしょうか。人類はどこで針路を誤ったのでしょう。
(手塚治虫著「ガラスの地球を救え」光文社文庫 p12-16)

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地球環境問題

人類の活動が地球を破滅させる

 現在、環境問題がさまざまに議論されています。一口に環境問題といっても、地球温暖化・オゾン層の破壊・熱帯林の減少・酸性雨・有機化合物や有毒金属による地球汚染など、多くの問題にわたっており、対策も個々の問題に応じて異なっています。逆に、原因はただ一つです。人間の諸活動が、環境問題を引き起こしているからです。地上に人類が現れて以来、地球環境は汚染され続けてきたと極論を言う人もいます。実際、人類の手で多くの種が絶滅させられました。しかし、人類も自然に生まれてきた生物の一つですから、その活動が環境に影響を与えるのは必然なのかもしれません。

 ただ、人類は生産活動を行うという点で他の生物とは異なった存在であり、自然では作り得ない物質を生産し、その大量消費を行うようになったのも事実です。その結果、人類の活動が地球の環境が許容できる能力と匹敵するほどのレベルに達しており、自然では浄化しきれない人工化合物があふれ、新しい生命体を作る試みすらし始めています。人類は、意識しているかどうかは別として、環境を根本的に変えかねない事態を招いているのです。

 かつては、「環境は無限」と考えられていました。つまり、環境の容量は人類の活動に比べて圧倒的に大きく、すべてを吸収処理してくれると思ってきたのです。だから、廃棄物を平気で海や空に捨て、森林を切り、海や湖を埋立て、ダムを造ってきました。しかし、環境が無限でないことを、さまざまな公害によって学んできました。また、陸にも海にも砂漠化が進み(海にも砂漠化が進み、海藻が枯れています)、自然の生産力が落ち始めています。確かに、このままの消費生活を続けると、地球の許容能力を越え、カタストロフィーが起こるかもしれません。人類の未来は、環境問題の危機をいかに乗り切るかにかかっていると言っても過言ではないでしょう。二一世紀は、まさにこの課題に直面する時代となるに違いありません。

「借金」を子孫に押しつける

 この環境問題の原因は、無責任に大量生産・大量消費の社会構造にしてしまった私たちの世代の責任であると考えています。自分たちは優雅で便利な生活を送りながら、その「借金」を子孫に押しつけているのですから。借金の最大の象徴は、原子力発電所から出る大量の放射性廃棄物でしょう。電気を使って生活を楽しんでいるのは私たちですが、害にしかならない放射性廃棄物を一万年にわたって管理し続けねばならないのは、私たちの子孫なのです。あるいは、熱帯林を切って大量の安い紙を使っているのは私たちであり、表土が流されて不毛の地となってしまった大陸や島に生きねばならないのは子孫たちなのです。環境問題は、すべてこのような構造をもっています。この点を考えれば、せめて子孫たちの負担を少しでも軽くするような手だてを打っていかねばなりません。

 この地球環境の危機に対し、「原始時代のような生活に戻れ」という主張をする人がいます。大量消費が原因なのですから、それをやめればいいという単純な発想です。しかし、それは正しいのでしょうか。いったん獲得した知識や能力を捨てて、原始時代の不安な生活に戻れるものなのでしょうか。生産力の低い生活に戻れば、どれほど多くの餓死者が出ることでしょう。はたして誰が、それを命じることができるのでしょうか。たぶん、答えは、そんな知恵のない単純なものではないと思います。なすべきことは、現在の私たちの生き方を振り返り、いかなる価値観の変更が必要で、そのためには、科学がいかなる役目を果たすべきかを考えることではないでしょうか。

解決のヒント
──「自然にやさしい科学」を

 環境問題を引き起こした原因の一つは、現在の生産様式が自然の論理に合っていないことにあります。ある意味で、かんたんで楽なやり方しか採用してこなかったのです。

 例えば、現在の生産方式の多くは、工場(プラント)を集中化し、巨大化した設備で大量生産を続けるという方法がとられています。その方が、生産効率が高く、省力化できる、つまり安上がりで大量に生産ができるという経済論理が優先されているのです。そのために、政府が基盤整備に投資を行い、それに合わせて輸送手段を集中し、都市へ人を集めるというふうに、社会構造まで含めて巨大化・集中化に邁進しています。その結果、少量ならば自然の力で浄化できるのに、大量に工業排出物を放出するため、海や空気の汚染を深刻化させたのです。

 工場を分散させ、小規模施設とすることが、まず第一歩です。それでは生産力が落ちると反論されそうですが、小規模でも同じ生産力を保つ研究が必要なのです。そのヒントは、科学の技術化は、一通りだけではないという点にあります。むしろ、今までは大規模生産しか考えず、それに適した技術しか開発してこなかったといえるかもしれません。もうけるという経済論理が、科学技術の中身を決めてきた可能性があります。「自然にやさしい科学」とは、従来とは異なった、小規模でも高い生産性をもつ原理や技術の発見という意味を込めています。

 また、巨大化・集中化は「画一化」につながっています。全国いたるところで、同じ物が売られ、同じテレビ番組が流れ、同じビルが建ち並んでいます。画一化された文化の中で、画一化された生活を送り、画一化された製品に囲まれている結果が、大量消費構造を支えているのです。それぞれが、独自な生活スタイルをとり、固有な文化を生き、独特の生産様式をつくり出す、という価値観の転換が必要だと思います。そのような「多様性」の中で生きるためには、どのようにして太陽や風や海流や地熱など自然のエネルギー利用を行うか、人工化合物でなく自然物を利用するかなど、やはり「環境にやさしい科学」が望まれることになるのです。

解決のヒント
──生体反応を利用した技術

 その可能性は、エレクトロニクス技術による「マイクロマシン」という、生物が採用している生体反応を利用するのに似た方式にあるかもしれません。虫は、あんなに小さな体なのに、実に精巧な機能をもっています。例えば、蚊は、一センチにもならない体であるにもかかわらず、獲物を探すための三種のセンサー(二酸化炭素用=人の呼吸、赤外線用=人の体温、乳酸用=人の汗)、毛細血管の位置を探る超音波センサー、皮膚に穴を開けるノコギリ状のパイプと鋭い針の二重構造からなる口吻(ふん)、針の先端部が血管で止まるように血漿(しょう)を検知するセンサーをもっています。もし、私たちが、これだけの機能をもつ機械を作ろうと思えば、非常に巨大エネルギーを使う機械となってしまうでしょう。ところが、蚊は、それを見事に作り上げているのです。マイクロマシンは、そのような小型でエネルギーをあまり使わない生物機械を実現することをめざしています。ヒントは、電気エネルギーを使って機械を動かすのではなく、生体反応をもっと利用することにあります。

 また、原子一個一個を制御するナノテクノロジーも、新しい工学機械の可能性を拓くかもしれません。マイクロマシンやナノテクノロジーなどから、大量生産・大量消費とは異なった論理で生きる社会をめざす必要があると考えています。

解決のヒント
──電気エネルギーからの脱却

 電気エネルギーはクリーンで取り扱いやすいので、今や何もかも電気で動く機械が作られています。ここでも「画一化」が進んでいるのです。しかし、電気エネルギーの利用は、実にむだが多いのです。

まず、石油やウランから取り出された熱エネルギーを電気エネルギーヘ変え、再び電気エネルギーを熱やモーターの運動に変えるという、二段階の変換を行っています。エネルギーを変換するたびにロスがあり、本来使えるエネルギーの半分程度しか使っていません。また、原子力発電所は危険なので都市から離れた遠隔地に建設されており、長い距離を送電するための送電線や鉄塔などの設備建設が必要だし、送電中のロスもあります。しかし、現在の生産体制は電気エネルギー利用を前提として組み立てられており、それに適した技術しか開発されなかったのです。

「自然にやさしい科学」とは、電気エネルギー一辺倒から、自然に密着したエネルギー利用の科学への転換を意味しています。
(池内了著「科学の考え方・学び方」岩波ジュニア新書 p176-182)

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地球温暖化の抑止と社会進歩の立場
 小野 秀明

 はじめに

 地球温暖化を抑止するために、各国は現在、当面する削減目標の実行とともに、二〇二〇年、二〇五〇年を展望した二酸化炭素の排出削減目標の検討を進めています。五〇年後、一〇〇年後という先ざきの地球と人類社会のあり方について、いま世界で真剣な議論が続けられています。

 日本共産党は、党の綱領で、地球環境の破壊を資本主義の体制的な矛盾の深刻な現れと位置づけ、この問題を資本主義の枠内での民主的改革と未来の社会主義への変革を通じて、根本的に解決する展望を明らかにしてきました。ここでは地球の温暖化を抑止する課題を、社会進歩の立場から考えてみたいと思います。

一 人類の生存基盤にとって猶予ならない危機

 ヒマラヤ山脈の氷河の予想を超える減退や、季節のめぐりと身近な生態系の変化など、日々のニュースのなかで、地球の温暖化は多くの人びとが実感できるものとなってきています。「温暖化は疑う余地がない」と、国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は、第四次評価報告書(二〇〇七年一一月)で明確な結論を明らかにしました。

(1)地球規模の気候変動は始まっている

 産業革命以来の平均気温の上昇は、約〇・八度です。これまでに排出されてしまった分の温室効果ガスによる気温の上昇は、今後少なくとも数十年にわたって続きますが、すでにさまざまな異変と被害が起こっています。

 世界では、台風(ハリケーン)の大型化、干ばつと豪雨という両極端の気象現象、それによる農作物の深刻な不作などの影響が生まれています。世界の気象災害の被災者は年間二億六〇〇〇万人に達し、これは一九八〇年代の二倍の水準です。平均気温を等高線のように結ぶ「等温線」は、いま一〇年当たり五六`bの速さで、北半球では北極へ、南半球では南極へむけて、移動しています。

 日本では、真夏日が大幅に増え、四〇〇_以上の豪雨の回数も九〇年代後半から増加しており、洪水の被害は年間六〇〇〇億円に、台風の年間被害額も七〇年代の三五倍に達しています。農作物の作柄への影響や、地元名産の魚が漁場から姿を消すなどの影響も広がっています。人類はすでに地球温暖化の被害とのたたかいに直面しているのです。

(2)このまま排出増を続ければどうなるか

 二一世紀を通じて、気温上昇をどの段階で食いとめることができるかは、二酸化炭素の排出量を人類がどれだけの速さで、どこまで削減できるかにかかっています。IPCC評価報告書によれば、現在のペースで二酸化炭素の排出量を増やすなら、今世紀末には気温の上昇は四度、最大では六度も上がるうえ、むこう数世紀にわたってさらに上昇を続けます。この場合、人類を襲うシナリオは危機的です。

 海面の上昇は二一〇〇年には平均五九aに達する可能性があり、以後、さらに上昇を続けます。台風と高潮によって、地球上で膨大な土地が侵食をうけるか、水没します。海抜〇b以下に住む住民は、世界では六億人、日本でも東京、名古屋、大阪などで四〇〇万人に達しています。水没により世界の三億三〇〇〇万人が家を失うと予測されています。

 豪雨と干ばつという気象の極端化は、さらにすすみます。アマゾンの熱帯雨林はサバンナ同様の草原へと変貌します。水不足に見舞われる人は世界で一八億人増え、農業生産の減少で、栄養失調患者も六億人増えます。日本では、高温障害で稲の受粉が妨げられ、米の生産が広範な地域で難しくなる一方、世界的な食糧危機のもと輸入確保も困難になります。

(3)温暖化を加速するシステムが動き出す

 いま世界が注目しているのは、地球の気温の上昇が、ある地点まですすむと、気温と海水面の上昇を劇的に加速する自動装置がはたらきだすことが、わかってきたことです。

 その一つは、南極とグリーンランドの氷床が予測を超える速さで消失していることです。氷床は、厚さ数千bもあり、岩盤の上をごくゆっくりと滑って海へ押し出されています。ところが融水が増えるなどして、氷床がまとまって海に滑り落ちる現象が確認されてきました。グリーンランドの氷床が海へ崩落すれば、海面は七b前後も上昇し、世界の沿岸部の大都市が海面下に没します。一方、氷が消えた岩盤や水たまりは、高い効率で太陽光を吸収し気温の上昇を強めます。

 気温の上昇を加速する要因として、海が酸性化して植物プランクトンが激減し、二酸化炭素を吸収する能力が落ちることなど幾つもの予兆が指摘されています。最近のデータから、「氷床崩壊の加速、熱帯雨林の減少、北極の永久凍土の融解はすべて、単独であるいは相互作用を通じて『臨界点』を到来させる恐れがある」と警告されています。これらの暴走的で加速的な作用は、いつ、どれだけの速さですすむのかが定められず、IPCC評価報告書には、「(海水面上昇が)予測より大きくなる可能性も排除できない」など事実の指摘にとどめられてきました。

 世界の研究者が「不可逆的現象」「臨界点」と呼ぶこれらの暴走にスイッチが入れば、人類には、気温と海水面の上昇をとどめる手立てはありません。

(4)気温上昇を二度以内に抑える

 このような、あともどりが不可能になる気候と地球環境の激変をくい止めるためには、人為的な気温の上昇を二度以内にくいとめることが必要です。これに見合う当面の中長期的な温暖化ガスの削減目標は、一九九〇年を基準として、二〇二〇年までに先進国の排出量を二五〜四〇%減らし、二〇五〇年までに世界全体の排出量を五〇%以上減らすことです。これによって二酸化炭素の排出を地球の自然の吸収量の水準にまず抑え、以後の削減努力でその濃度を長期的に安定化する可能性が生まれます。

 仮に、いまのままの排出増を続ければ、気温の上昇を二度以内に抑えるための二一世紀中の累積排出量を、二〇三〇年すぎには超えてしまいます。また、求められる国際合意と削減が一年遅れれば、大気中に蓄積される温室効果ガスの量がそれだけ増え、未来の地球の気温が押し上げられます。猶予ならない現実に、いま世界は直面しています。

──略──
四 二一世紀の社会進歩と体制変革の見地から

──略──

(4)理性的認識が、真に生かされる新しい社会ヘ

 マルクスは、『資本論』で、社会がとりくむ長期の巨大事業を論じて、資本主義のもとでは、社会は、いろいろな生産部門のあいだでの資本と労働の配分を合理的に解決できず、これはしばしば恐慌として発現する。「社会的理性は、祭りが終わってからはたらく」と論じています(『資本論』新日本出版社新書版E四九七n)。

 またマルクスは、社会主義のもとで、生産によって生まれた社会的富が、社会の構成員と共同の施策とにどう生かされてゆくかというスケッチをおこなったこともあります。この目で見ると、資本主義には、八割、九割という膨大な規模の排出削減への社会改革、しかも地球規模のこの長期の共同事業を、私的利潤の追求を規範にした体制のもとでなしうるのか、という原理的な問題があります。

 温暖化抑止という人類の生存基盤にかかわる長期の事業で、資本主義が理性的な対応ができないのだとしたら、それは、「資本主義的生産様式は、これ以上これらの生産力を管理する能力がないことを白状している」ことになります(エンゲルス『空想から科学へ』新日本古典選書七九n)。

 エンゲルスは、『自然の弁証法』のなかの、人間の生産活動にたいする「自然からの復讐」の一節で、次のようにのべています。

 「われわれは……自分たちの生産的活動のかなりあとになって現れる間接の社会的影響を明らかにすることを習いおぼえてきて」いるし、「これによってわれわれには、こうした影響を抑え規制する可能性が与えられている」。しかし、「この規制を実施するためには、ただの認識以上のものが必要である。そのためには、われわれはこれまでの生産様式と、それとともにわれわれの今日の社会体制全体とを完全に変革することが必要である」(『新メガ版 自然の 弁証法』秋間・渋谷訳、新日本出版社、一一七〜一一九n)。

 エンゲルスのこの指摘から、一三〇年余の時をへて、いま私たち人類は、「自分たちの生産的活動のかなりあとになって現れる間接の社会的影響」の、予想を超える大いなる脅威に直面しています。気候変動というこの脅威にたいして、人類は、世界の科学者の知恵と観測の努力を集め、地球という自然にたいする新しい認識を得て、解決に立ち向かう時代を迎えています。

 しかし、エンゲルスが言うように、「自然の復讐」を招いた人間と自然との関係を克服して、真に理性的な関係を回復するには、「ただの認識以上のものが必要」です。そのためには、根本的には、自然と社会の相互の関係にたいする理性的認識が真に生かされる社会を築くこと、社会体制の根本的な変革が必要だからです。

 社会主義のもとでは、主要な生産手段を社会の手に移すことを基礎として、「生産と経済の推進力」が「資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に」根本的にきりかわります(日本共産党綱領)。これは利潤第一主義の制約をとり払い、自然環境と人間社会との理性的関係を築く事業にも本格的な実現の展望をひらくものです。

 人類は、いま、みずからの生存基盤にかかわる地球の温暖化に直面して、社会の変革を世界的な規模で真剣に模索する時代にはいりこんでいます。日本での温暖化抑止のとりくみの前進と政治の民主的転換は、世界のとりくみの推進のうえでも、地球と人類の危機に解決の道をひらくうえでも、いま切実に求められています。
(「経済 09年1月号」新日本出版社 p50-67)

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◎「五〇年後、一〇〇年後という先ざきの地球と人類社会のあり方について、いま世界で真剣な議論」と。