学習通信090205
◎見えるものも見えなくなる……

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《潮流》

暦のうえではもうすぐ春ですが、まずは「冬物語」から。シェークスピアの戯曲です。さいたま市の彩の国さいたま芸術劇場が本日まで、唐沢寿明さん主演で上演しています

▼シチリア王リオンティーズは、妻が不義をはたらいたと誤解した。忠実な部下のいさめにも耳を貸さない。証拠もないのに妻の死刑を求め、ついには妻は無実≠ニいう神のお告げも「うそ」と断じてしまう

▼次々と身に起こる不幸で、やっと目が覚めるものの後のまつり。まるで凍りついてしまったような王の心に、暴虐な権力の本性がみてとれるでしょう。いまでも、世論や正論を切り捨てる権力者は多い

▼「冬物語」には、道化の次のせりふもあります。「権力っていうのは頑固な熊だけど、お金を餌にすれば鼻面とって引きまわすこともできるんだ」(訳・小田島雄志)。なるほど、いるいる、あるある。いまなら、お金の誘惑に弱く、企業からの献金などにむらがる政治家や政党です

▼国民の税金の約三百千億円を山分けする、政党助成金の誘惑にも勝てません。民主主義のコスト≠ニ称し、〇九年予定で自民党は百五十七億円、民主党は百十八億円。彼らは、議員の数を減らして「みずから身を削るべきだ」といいます。身を削るのなら、助成金をなくせばいい

▼先の道化の言葉を借りれば、定額給付金も「お金を餌に」する一手でしょう。こちらは、連立のコスト≠ニもいわれます。自民が仲間と頼る公明をつなぎとめるための餌代に、税金から二兆円!
(「赤旗」20090201)

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王様の宮殿を照らすあのお日様は、私たちの貧しい小屋にもお顔を隠すことなく、同じように光を与えて下さいますって。(冬物語)

 本来はシチリアの王女として生まれながら、王が妻の浮気でできた子どもだろうと疑った結果捨てられて、ボヘミアの羊飼いに拾われ、その娘として美しく成長したパーディタ。そして、ボヘミアの王子が鷹狩りのときに羊飼いの村に入って出会い、一目惚れしてしまい通い詰めます。

 ところがボヘミア王からすれば、王子が羊飼いの娘と恋愛しては困るわけです。それで変装して、パーディタが祭りの女王になっている毛刈りの祭りに出かけます。すると二人はまねごとだけれども結婚式を挙げようみたいなことを言っている。王が王子に向かって、「そのことを父親は知っているか」と問うと、王子は言ったら反対されるから言わないという。そこで王が変装をかなぐり捨てて王子をしかりつける。パーディタに対しても、王子と知って近づいて誘惑したのだろう、「魔法を駆使する女め」とまで言います。そして王が帰ったあとに、彼女が、

これでなにもかもおしまいだわ!
でも私、そうこわくはなかった、一、二度、もう少しで
王様にはっきり申しあげようかと思ったぐらいですもの、

と言って、続けるのがこの台詞です。

 お日様から見たら、王様とか、羊飼いとか、区別しません。これも一歩どころかお日様の位置までずっと引いて見ると、そういうことが分かります。これも身分、肩書きにとらわれていては、見えるものも見えなくなるということでしょう。

 シェイクスピアには、このように人間はすべて平等といった人間観をのぞかせる台詞がしばしば出てきます。人間社会に上下関係がある以上、どうしても権威におもねたり、下の者を軽蔑したりする傾向が見られますが、このパーディタの台詞を忘れてはならないように思います。

 だいぶ前の話ですが、私は勤めていた大学の大学病院に普通の外来患者として行ったことがあります。長時間待たされている間に、一人の老婦人が看護婦さんに激しい言葉で怒鳴りつけられているのを目撃しました。思わずそばに寄って、「ちょっと君、患者をもっと人間扱いできないのか!」とたしなめる口調で言ったところ、その看護婦さんは私をにらみつけると、じゃまだと言わんばかりに突き飛ばし、去って行きました。彼女はおそらく多忙をきわめていて、老婦人や私にかまっていられなかったのでしょう。だが、もし私がここの大学教授であるという身分を明かしたら、彼女の態度も変わっていたろうな、という思いが胸を横切り、苦い不快感を残しました。

 そういう思いをするたびに、私はシェイクスピアのこの台詞にしがみつきたくなるのです。
(小田島雄志著「シェイクスピアの人間学」新日本出版社 p141-143)

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労働者だからこそ真理を学ぶことができる

 わたしたちの学習についての考え方は、つぎのようなものです。

 第一に、労働者だからこそ、最高の、正しい理論を学び、真理をつかみとることができるのだ、ということです。

 資本家や当局側の人間は、かれらが資本家階級の立場にたっているかぎり、どれほど頭がよくても、大学を卒業していても、またどれほどむずかしそうな多くの本を読んでも、ほんとうの学習をすることはできないし、真理をつかむことはできません。労働者階級という階級の立場にたつものだけが、ほんとうの学問をし、真理を学びとることができるのです。

 なぜか、といえば、この社会のしくみや、社会を動かしている法則を明らかにする学問はこの社会の人びとの階級的な利害に直接に衝突するからです。資本家階級やその手先たち、あるいは資本家の「学問ある番頭」であるブルジョア学者たちにとっては、真理であるかどうかということより、資本家の利益になるかどうか、資本家階級の支配をおびやかすかどうか、ということがその理論を「正しい」とみとめるか否かの基準になります。

 資本家階級の立場にたつ人に、たとえば、「資本家のもうけの源は、すべて労働者やその他の勤労人民をしぼりあげることによる」「資本主義の国家は、労働者や勤労人民をおさえつけて支配するためのしくみである」「資本主義の社会は、いずれは労働者階級を先頭とする勤労人民の力によって根本から変革される。資本家階級の支配はうちたおされ、搾取階級のない社会主義社会がうちたてられる」などということが、真理としてみとめられるはずがありません。

どの時代の搾取階級、支配階級もそうであったように資本家階級もまた自分たちの支配している社会が永久につづくかのように信じているか、あるいは「もしかしたら労働者階級に、じぶんたちの支配をうちたおされるかも知れない」という不安におびえながらも、ムリにでも自分たちの支配がつづくことを信じようとし、また多くの労働者・人民大衆にも信じさせようとするのです。

 それでは、労働者階級はなぜ、真理を明らかにする理論を学びとることができるのでしょうか。

 労働者階級は、この資本主義社会では、自分のからだ以外はなにものをも──工場も鉱山も土地も店舗も──もっていない無産の階級です。ですから、自分の労働力を他人に──資本家に売って働かされ、搾取されるかわりに、その労働力の代価である賃金をえて生活をたててゆくほかに生きる道がありません。そこで、労働者階級は、この資本主義社会が変革されることによって、失うべきものはなにももっていない階級です。資本主義をうちたおすことによって「労働者階級の失うものは鉄鎖以外にない。得るものは全世界である」のです。

 しかし、労働者階級はただたんに、自分のからだ以外になにももっていない無産の階級だというだけではありません。
(北田寛二著「労働者の学習」労旬新書 p69-71)

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 共産主義者は、自分の見解および意図を秘密にすることを恥とする。共産主義者は、これまでのすべての社会秩序の強力的転覆によってのそ自分の目的が達せられることを、公然と宣言する。支配諸階級は、共産主義的革命におそれおののくがよい。

ブロレタリアは、共産主義的革命において、自分の鎖のほかに失うものはなにもない。彼らが得るべきものは一つの世界である。

 万国のブロレタリア、団結せよ!
(マルクス「共産党宣言」新日本出版社 p109)

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◎「まるで凍りついてしまったような王の心に、暴虐な権力の本性がみてとれる……いまでも、世論や正論を切り捨てる権力者は多い」と。