学習通信090209
◎競争によって競争力をつける……

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 われわれは序説において、工業の激動がはじまるとすぐに、どのようにして競争がプロレタリアートをつくりだしたかを見た。

そのころ、織物にたいする需要が増加したために、競争によって織り賃が高くなり、そのため片手間に布を織っていた農民は、織機によっていっそう多く稼ごうとして農業を放棄するようになったのである。

われわれはまた、競争が大規模経営制度によってどのように小農民を駆逐し、彼らをプロレタリアに転落させ、そしてその一部を都市へひきいれたかを見た。

さらに競争がどのようにして小ブルジョアジーを大部分没落させ、同じようにプロレタリアに転落させたか、そしてどのようにして資本を少数者の手に、人口を大都市に集中させたかを見た。

これこそ、競争が近代工業において完全にその姿をあらわし、自由にその結果を展開して、プロレタリアートをつくりだし、拡大していった方法と手段なのである。

そこでこんどは、すでに存在しているプロレタリアートにたいして、競争がどんな影響をおよぼすかを考察しなければならない。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p122-123)

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競争力をつける王道は「競争すること」。
競争を促進するには「機会の平等」が不可欠

 では、私たちは未来に向かって、具体的に何をすればよいのでしょうか。
 まず、ここまで何度も出てきた「稼ぐ力」を高めること、つまり生産性を高めるにはどうしたらよいかを考えてみましょう。

 この問題は、そう簡単に答えが出る問題ではありません。世界中どの国も、生産効率をよくして競争力を高め、もっと経済発展したいと考えています。しかし残念なことに、そのための万能薬は存在しません。そんな薬があったら、誰も苦労などしないでしょう。ただ経験的に一つ確かなことがあります。それは、競争力をつけるための王道は「競争すること」だということです。

これはみなさんの経験からも実感できるのではないでしょうか。人生のなかで自分が進歩した、成長したという時期は、やはり厳しい競争に巻き込まれて努力していたときのはずです。その時期は、間違いなくつらいと思います。しかし、そのつらさのなかにある前向きなプレッシャーによって、私たちは前進してきたのです。

 日本の産業を見ても、これは明らかです。競争力のある自動車や電機・電子といった産業は、規制による保護などはないか極めて少ない産業です。常に、世界の最先端のマーケットで競争しています。

 逆に、これまで生産性がなかなか伸びないといわれていた産業はどういうところでしょうか。典型的なのは銀行と一部の農業です。これらの産業が、がっちりと政府に保護されてきた分野であることはいうまでもありません。こうした現実からもわかるように、競争力をつけるには「競争すること」が重要なのです。

 ということは、政府が行うべきことの第一は「競争を促進すること」になりますが、実は政府が「競争しろ」などといちいちいわなくても、私たちは本来的に、自分や家族の生活、あるいは自分の会社をよくしようと競争し、頑張るものです。したがって、政府が「自由にしていいです」といえば、競争はおのずと促進されることになります。

 ただし、そのときに重要になるのは、それに挑戦するチャンスは多くの人に平等に与えられていなければならないということです。いくら自由にやればよいといっても、自由にできる人が一人しかいなかったら競争になりません。チャレンジできる人がたくさんいることが、競争を促進し、競争力を高めることにつながるのです。

 そこで重要になってくるのが、誰でもチャレンジする機会がある、という「機会の平等」という考え方です。

 競争によって競争力をつけるという「競争のメカニズム」を利用することは、先に述べた一九九〇年代以降のグローバリゼーションの時代において、圧倒的に重要になってきています。世界のマーケットにおける競争の激しさ、競争のあり方は、それ以前とは根本的に変わりました。

そのなかで、日本の経済は従来の「追いつき、追い越せ」というキャッチアップ型のやり方から、今度は自分たちで先を切りひらいていくフロンティア型に変わっていかなければなりません。そのためには、先を走っていこうという人たちがたくさん出てくるような環境をつくる必要があります。こうして道をひらきながら、国内だけでなく海外でも競争していくことが重要になります。
(竹中平蔵著「あしたの経済学」幻冬舎 2003.1.30刊 p52-54)

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4 一九九五年以降
──市場原理主義ヘ

(1)「雇用の安定」から「雇用の流動化」ヘ

 バブル経済の崩壊後、一九九〇年代後半から政府・財界は、「市場原理主義」への傾斜を強めます。雇用・労働分野でも、規制緩和の大合唱を始めます。その中心は、従来の日本型雇用慣行を全面的に見直すことでした。過度な雇用保障や労働関連の規制が自由な市場を阻害しているとし、労働法や労働協約の規制撤廃を主張したのです。実際には、経営者だけが法規制から自由になって、思い通りに振る舞えるようにしたいというのが本音でした。具体的には、自由に雇用調整できる「雇用のポートフォリオ」を作り出すことでした。ポートフォリオというのは財布を意味します。財布の中に、一万円札、五千円札、千円札や、百円玉などの小銭を入れておくように、雇用も多様化して、必要に応じて、正社員、契約社員、パートなどを使い分けようとする、企業本位の発想です。

 その綱領的文書となったのが、日経連(日本経営者団体連盟。後に経済団体連合会と合同して日本経団連をつくりました)が一九九五年に提言した、「新時代の『日本的経営』」でした。そこでは雇用を@長期蓄積能力活用型、A高度専門能力活用型、B雇用柔軟型の三グルーブに分けるという提案です。AとBの有期雇用を軸に雇用を流動化させ、@の正規雇用は縮減するという方向でした。

 ここでは、従来の「雇用の安定」という原則が、「雇用の流動化」へと大きく転換しています。経済団体は、一九九〇年代、雇用・労働分野の規制緩和を主張します。その筆頭項目には、労働者派遣と民営職業紹介の規制緩和(とくに対象業務のネガティブ・リスト化)を挙げ続けます。派遣法の一〇年の経験を踏まえて、それを一層拡大して正規労働者を含めて雇用流動化を推進しようとするのが、日経連一九九五年提言の意味でした。

 一九九六年には派遣法改正がありました。政府は、労働側にも配慮し、派遣対象業務を一六から二六に増やす部分的改正にとどめました。ところが、徹底した緩和を求める市場原理主義者から猛烈な反撃を受けます。そこで一九九六年三月、一層の規制緩和を行う計画を閣議決定し、一九九七年には民営職業紹介事業の対象職種を原則自由化するという規制緩和を、法改正ではなく、職業安定法施行規則の改正という「禁じ手」を使って国会審議抜きで強行してしまったのです。

 橋本龍太郎内閣が進めた「六大改革」(一九九六年)は、従来の日本型システムの全面的見直しを標榜するものでした。労働分野では、従来の制度・慣行の部分的見直しにこだわる労働省やそれに近い論者(高梨昌氏ら)と、市場原理主義の立場から全面的な見直しを主張する行政改革委員会などとの「対立」が先鋭化することになりました。後者の立場を具体化する方向で、一九九八年には、労働基準法の改正(有期雇用の上限規制緩和と裁量労働拡大など)が行われました。一九九九年には、連合を含む労働団体が一致して反対したのに、派遣業務を従来の限定列挙(ポジティブ・リスト)方式から原則自由化(ネガティブ・リスト)方式に転換する大改定が強行されました。また、二〇〇〇年には労働契約承継法などがリストラ促進関連法案として成立しました。

(2)雇用をめぐる政策的対立

 さらに、小泉内閣(二〇〇一年〜二〇〇六年)の五年間に進められた「構造改革」では、市場原理主義的な規制緩和が徹底されました。単に非正規雇用を拡大するにとどまらず、正規労働者も自由に雇用調整できるようにするという議論が強く主張されました。安定した雇用にこだわり、正規労働者の利益を代表する「抵抗勢力」として、労働組合も批判の
対象となりました。

 まず、「解雇の自由」が焦点となりました。市場原理主義者は、正規労働者についても解雇自由化を主張し始めます。二〇〇三年の労働基準法改正論議では、労働基準法改正の中に解雇自由を認める規定を盛り込むことが大きな争点となりました。しかし、その意図は実現せず、二〇〇三年に成立した改正労働基準法第一八条の二は、当初予定された解雇自由の規定を削除し、濫用的な解雇を無効とする従来の判例法理を追認する内容にとどまりました。

 次に、一九九九年の派遣法改正では、労働側の反対に配慮して一定の規制(新自由化業務については派遣期間を一年に限定する「一年ルール」が導入される)が導入されました。二〇〇三年には、この規制部分について、@派遣期間を最長三年に延長するとともに、A法的根拠が明確でなかった「紹介予定派遣」を派遣法本文によって根拠づけるなど、経営者団体の強い要望にこたえた改正が盛り込まれ、従来、除外されていた製造業も派遣対象業務化されることになりました。

保護的措置の全面否定
 労働・雇用分野の規制緩和政策は、一九八〇年代後半からのそれと、一九九〇年代後半のそれとの間で、「流れ」が大きく変わったといえます。派遣法改正をめぐって、その流れの変化が劇的に現れました。一九八五年に派遣法が制定されて以降、一九九五年頃まで政府と労働組合の立場を代弁してきたのが高梨昌氏でした。ところが、一九九六年以降の派遣法改正について、高梨氏は、「本来、例外的な労働者派遣」の無原則的な拡大に反対する立場を示すようになります。

 これに代わって、より徹底した市場原理主義的立場から「雇用の流動化」を軸に、正規雇用の全面的見直しを提言する論者(小鳥典明氏やハ代尚宏氏ら)が現れました。彼らは経営者団体の意見を代弁し、政府の中でも、厚生労働省よりも経済官庁に近い立場で議論を展開します。そこでは、@独自の労働法分野や原理を認めず、契約の自由を優先する「アメリカン・モデル」の規制緩和を国際的に確定した方向とすること、A従来の正規労働者の雇用慣行を嫌悪し、その保護的措置を全面的に否定すること、Bその反対に、あたかも非正規労働者の支援者であるかのように自らを位置づけ、雇用保障全体を大きく引き下げようとする点で共通した論議を展開しています。

 政府・労働省も、全面的規制緩和論に押されて一九九六年法改正を進め、その後、時間をおかず、一九九九年に派遣業務の自由化を推進しました。審議会段階では、それまで労働側(「連合」だけが代表を出していた)も賛成し、全会一致となるのが慣例でしたが、同年の改正では、労働側の反対を無視して審議会の意見が対立したまま、審議が強行され政府原案がつくられました。政府の立場が大きく転換した画期でした。

(3)「労働市場法」論

 こうした二つの流れのなかで、新たに、雇用の流動化の方向に軸をシフトした「労働市場法論」が唱えられることになりました。主な論者は、諏訪康雄氏と菅野和夫氏です。労働省職業安定局の下に設置された雇用法制研究会専門部会(座長・菅野和夫氏)の「報告書」(「今後の労働市場法制の在り方について」九八年一〇月)は、実際の労働立法に関連づけて労働市場法論を具体化したものです。そこでは、市場原理主義やそれに近い視点から、新たな法分野として「労働市場法」構想が提示されています。二一世紀における日本労働法体系の全面的再編を企図した野心的な内容でした。

 「労働市場法」論によれば、一九八五年以隆一九九六年までの労働立法は、一つの企業での長期雇用を意味する「雇用の安定」を前提にしてきましたが、「雇用の流動化」を前提にする労働市場の出現が不可避だとされます。この前提で、自立した個々の労働者を支援することに、新たな「労働市場法」の意義があるとしています。確かに、ハ代氏や小鳥氏の議論とは違った装いですが、その論理は、市場原理主義の考え方と多くの点で共通しており、一九九〇年代に入っての政策基調の変化を敏感に反映しています。

 それは、労働者を個人化して企業外の労働市場での競争に投げ込まれる存在とし、そうした個別労働者への支援として抽象的な対応策を提言するだけの内容です。とくに違和感を覚えるのは、@解雇を含めて使用者責任について不問にしていること、A非正規雇用労働者について「同一価値労働同一賃金」の考え方を極力否定すること、B労働組合は企業別正社員組織以外にないことを前提にしていることなどです。

5 「労働ビッグバン」と矛盾の顕在化

 二〇〇六年一二月、ハ代尚志氏を会長とする「労働市場改革専門調査会」(以下、「専門調査会」)が、経済財政諮間会議の下に設置されて「労働ビッグバン」の議論を進めています。派遣などの規制緩和を一層進めるとともに、労働基準法、職業安定法の民主的原則や労働者保護規定を解体的に緩和することが、その狙いです。その反面、企業外の地域労働組合などの団体交渉制限など、労働組合を企業内=正社員雇用に閉じこめる狙いも示唆されており、法理や政策の一貫した論理さえも無視されています。

 労働者派遣の規制緩和を例に挙げれば、本来、労働者派遣は派遣期間が終われば、派遣先に直接雇用されるテンプ・ツー・パーム(from temporary work to permanent work)が原則です。ところが、「長期の派遣」を認めることが議論されています。とくに派遣先従業員との同一労働同一待遇が世界の派遣法に共通した規制であるのに、『差別を温存したりすることなど、派遣先に好都合で、「派遣なりの論理」さえも平気で無視した内容です。

「ワーキング・プア」も
 しかし、一九八〇年代以降の労働分野の規制緩和は、大きな間題を生み出してきました。個別企業にとって短期的には「利点」があったかもしれませんが、社会全体では、企業や政府の責任が縮小しました。その反面、家庭と個人に大きな負担がのしかかっています。公的な社会保障を後退させる政策が同時に進められたために、負担に耐えられる上位層と、耐えきれない下位層の間で社会的格差が大きくなってしまいました。若年フリーターは、大企業が史上最高の利益をあげている、その工場現場で、劣悪な労働条件で雇用不安にさらされながら企業を支えています。朝から晩まで休みなく働いても最低生活費も稼げない「ワーキング・プア」も少なくありません。日本社会の根幹にかかわる重大な問題です。

 とくに、二〇〇三年改正派遣法が施行された二〇〇四年三月以降、製造業務が派遣対象業務となりました。しかし、製造現場では既に「偽装請負」による「間接雇用」が蔓延していました。若年者が「フリーター」として漂流させられている現実が、NHK、毎日新聞、朝日新聞などのマスコミ各社の報道によって社会的に大きく注目されました。派遣解禁されたはずの製造業に派遣が広がらないことから逆に、事実上の派遣である偽装請負の存在が認識されるという皮肉な状況が現れたのです。

 「労働ピッグバン」は、こうした深刻な問題を解決するどころか、経営側の意図に沿って現状追認のため、規制緩和を一層拡大しようとするものです。それは、日本の雇用社会、さらには、社会自体をも崩壊させかねないほどの状況につながると予想されます。
(脇田滋著「労働法を考える」新日本出版社 p145-153)

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「派遣切り」を止めるために政治はあらゆる手段をつくせ
衆院予算委 志位委員長の質問

----------以上略

志位 具体的にただしていきます。

 大企業による大量解雇の波は拡大する一方です。厚生労働省の調査でも昨年十月から今年三月末までに約十二万五千人が職を失うとされています。業界団体の試算によると、製造業で働く派遣・請負の失業は三月末までに四十万人に達するといいます。

 こうしたもとで、職を失った労働者の住居と生活と再就職の支援のために万全の手をつくすことは、もとより政治の重大な責任であります。同時に、これ以上の大量解雇による被害者を出さない、「非正規切り」を止めるために、政治が可能なあらゆる手段をつくすことが今、強く求められていると思います。

 それに取り組むうえで、総理に確認しておきたいことがあります。いま大企業がすすめている大量解雇が、全体として、「万策尽きたうえでのやむを得ない」ものかどうかという問題です。いま大企業の多くは、赤字決算の見通しを出している。しかし、ある新聞にこういう川柳が投稿されました。「赤字だと?黒字の金はどこいった」。大企業はつい最近まで空前の黒字を誇っていたではないか。その金はどこにいったんだ。これは庶民の当然の気持ちだと思います。

 (パネル(1)を出す)これは、製造業の大企業の内部留保と、非正規労働者数の推移を表したグラフです。この十年間に、非正規労働者は一千百五十二万人から一千七百三十二万人に急増しています。それと並行して、大企業の内部留保は八十八兆円から百二十兆円へと急膨張しています。この巨額の内部留保のごくわずか、1%を取り崩すだけで、四十万人の非正規社員の雇用を維持することができます。大企業には雇用を維持する体力が十分にあることは、私は、明らかだと思います。

 私が、本会議で「内部留保のごく一部を雇用を守るためにあてることは企業の当然の社会的責任ではないか」とただしたのにたいして、総理は、「こういう非常時こそ労働者の雇用と生活をしっかり守るよう、最大限の努力をしていただきたい」と答弁されました。この答弁は、大企業には雇用を守るための「努力」の余地がまだある、すなわち、いま大企業が行っている大量解雇は、全体として見るならば、それを行わなければ経営破綻(はたん)に陥るといったような、「万策尽きたうえでのやむを得ないもの」とは言えないということですね。そういう認識のうえでの答弁だと理解してよろしいですね。確認したいと思います。
──以下略
(「赤旗」20090206)

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◎「競争が近代工業において完全にその姿をあらわし、自由にその結果を展開して、プロレタリアートをつくりだし、拡大していった方法と手段なのである」と。