学習通信090210
◎「ポン」「ポン」「ポン」と、あちこちで……

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 機械設備は、それが採用される労働諸部門においては、必然的に労働者を駆逐するとはいえ、他の労働諸部門においては雇用の増加を呼び起こすことがありうる。

しかしこの作用は、いわゆる補償説とはなにも共通するものをもたない。

あらゆる機械生産物、たとえば一エレの機械織物は、それによって駆逐された同種の手工生産物よりも安価であるため、絶対的法則として、次のことが生じる。

機械によって生産された製品の総分量が、それによって取って代わられた手工業的あるいはマニュファクチュア的製品の総分量に等しいままであれば、使用された労働の総額は減少する。

労働手段そのもの、機械設備や石炭などの生産に、あるいは労働の増加が必要となるかもしれないが、この増加は、機械設備の使用によって生じた労働の減少よりも小さいに違いない。

そうでなければ、機械生産物は、手工生産物と同じように高価であるか、またはより高価であるだろう。

ところが、減少した労働者数によって生産された機械製品の総量は、駆逐された手工業製品の総量と等しいどころか、実際にははるかにそれ以上に増大する。

四〇万エレの機械織物が、一〇万エレの手織物よりも少ない労働者によって生産されたと仮定しよう。

この四倍になった生産物のなかには、四倍の原料が含まれている。

したがって原料の生産は、四倍にされなければならない。

しかし建物、石炭、機械などのような消耗された労働手段について言えば、それらの生産に必要な追加的労働が増加しうる限界は、機械生産物の総量と、同数の労働者によって生産されうる手工生産物の総量との差につれて、変動する。

 したがって、ある産業部門における機械経営の拡張とともに、まず、その部門に生産手段を供給する他の諸部門の生産が上昇する。

それによって就業労働者総数がどの程度にまで増加するかは、労働日の長さと労働の強度とが与えられたものとすれば、使用された諸資本の構成、すなわちそれらの不変的構成部分と可変的構成部分との比率に依存している。

この比率は、またそれで、機械設備がその事業そのものをすでにどの程度とらえたか、またはとらえつつあるかによって、非常に異なってくる。

炭鉱や金属鉱山で働くように宣告された人間の数は、イギリスの機械制度の進歩とともに、恐ろしくふくれ上がった──もっともその増加も、最近数十年間には鉱山用の新機械設備の使用によって緩慢になっている。

新しい種類の労働者が機械とともに生まれる、すなわち機械の生産者である。

すでに述べたように、機械経営がこの生産部門そのものをも、ますます大きな規模で支配下におく。

さらに原料について言えば、たとえば、綿紡績業の嵐のような進展が、合衆国の綿花栽培およびそれとともにアフリカの奴隷貿易を温室的に促進しただけでなく、同時に黒人飼育をいわゆる境界奴隷制諸州(フランス語版マルクス注 ──「境界奴隷制諸州とは、北部諸州と南部諸州とのあいだの中間奴隷制諸州のことであり、これらの州は、輸出用に飼育した黒人を家畜のように南部諸州に売っていた」)の主要事業にしたことは、少しも疑う余地がない。

一七九〇年に最初の奴隷人口調査が合衆国で行なわれたとき、その数は六九万七〇〇〇人であったが、それにたいして一八六一年には約四〇〇万人になった。

他方、機械制羊毛工場の勃興が、耕地をしだいに牧羊地に転化させるとともに、農村労働者の大量追放と「過剰化」を呼び起こしたことも、同じように確かである。

アイルランドでは、一八四五年以来ほとんど半減した人口を、アイルランドの地主とイングランドの羊毛工場主諸氏との要望に正確に照応する程度にまで、さらにいっそう削減しようとする過程が、なおこの瞬間にも行なわれている。
(マルクス著『資本論B』新日本新書 p765-767)

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第3章 綿花を育てる人々

 一面の畑。近づいてゆくと、白い花が咲いている。丸い毬のような花だ。「ポン」と音がしてはじける。「ポン」「ポン」「ポン」と、あちこちで花が開く。その様子を、一方で百姓たちが、別の方向からは穢多たちが、見つめている。花は開いてワタになった。モノクロだが、畑一面、白いワタの色で次々と被われてゆく様子が想像できる。「正助、よくやっただ」と父親が言う。百姓たちが思わず駆け出す。穢多たちも駆け出す。そして抱き合う。

 これは、穢多集落で暮らした武士、竜之進の覚え書き、とされている箇所だ。竜之進は穢多の仕事を初めて知り、次に農民の仕事を知った。それはむごい、厳しい側面を知るというだけではなく、武士階級が決して味わうことのできない喜びを知ることでもあった。

 暮らしをよくしようとする百姓たちが自分たちの力で学問をし、文字を読み、学び、実験を重ね、一人で黙々と努力し、やがて灯りが見えてきたところで人々を説得し、多くの人の力を結集し、新しい産業を作りあげるまでの過程を、竜之進は見てしまう。百姓たちの力はついに、日常生活に潜む人々のあいだの憎しみまでを乗り越える。

 ワタは百姓と穢多の力を結集して一挙に収穫され、荷造りされて城下に運ばれる。だからといってすぐに利益になるというわけにはいかない。百姓たちは今度は、欲の張った商人だちとかけひきしなければならない。

 江戸時代は、食糧以外の産業の現場に、百姓たちの能力が全開した時代であった。その様子はなるほどこういうものであったろうと思う。いいことばかりではない。能力を発揮したところで搾取が待っている。しかし闘い続ける。それを、「生活」について何も知らない武士のまなざしから見ているのである。

百姓──多様な能力を持つ人々

 『カムイ伝』の中心はそのテーマから言って、決して農民ではない。むしろその周辺の人々である。にもかかわらず、なんと農民が生き生きと描かれていることだろう。江戸時代の農民は、抑圧されるばかりで細々と貧しく生きていた、というわけではない。『カムイ伝』はそれを教えてくれる。農民はあらゆる職人的能力を身につけ、賢く、論理的で、強靭で、柔軟性に富み、何より、人と関わりながら目的を果たしてゆくことに長けている。一揆はもちろんのことだが、江戸時代の歴史を見ていて驚くのは、その産業に示した農民の能力である。

 米や野菜や保存食のみならず、家を作る、屋根のカヤを育てる、竹や藁で各種各様の道具を作る、布を織る、下肥で肥料を施し、さまざまな工夫で水を供給する、何でも自分で修理する──個人の能カも高いがそれだけではない。村の経営に関しては、辛抱強く時間をかけて人と話し合い、問題が起こらないように物事を決める、というコミュニケーション能力にも優れている。寄合と呼ばれる村の議会は、全員一致の結論に達するまで何日も話し合ったことが、歴史や民俗学の資料でわかっている。多数決という方法は村にとっては、どうしても全員一致の意見に達することのできないときに取られた「いたしかたない方法」であって、決してほめられる事態ではないのである。多数決は人間の歴史にとって最善の方法ではなく、二の次三の次の方法だったのだ。ともかく、これらの能力は、地主と小作など身分差があるにせよ、農民全体の傾向として見られた。

 江戸時代の農村が成し遂げたことの一つに、農業技術の飛躍的な向上がある。新田開発や塩田や砂糖絞り、煙草や茶の栽培、飢饉の際の救援食物としてのサツマイモ栽培、薬としての朝鮮人参栽培、灌漑設備の工夫等々、限りがない。その中で『カムイ伝』に見られるのは、刈り取り後の稲こき機械の発明、桑の育成、養蚕と絹糸作り、下肥システムの確立や干鰯による肥料の改善、そして綿花栽培と綿糸・木綿布の生産である。なかでも綿花栽培のくだりは非常に感動的で、しかも強調して描かれている。では実際、江戸時代ではあのように綿花が栽培されていたのだろうか?

 じつは江戸時代こそが日本の歴史上唯一の「綿花の時代・木綿の時代」だったのである。「もし宇宙のかなたから見まもる眼があったなら、白い綿花が徐々に農地をうめていくさまを興味深く追ったことだろう。おそらく、稲作が何世紀かかけて日本中に拡がっていったのと似た動きが、より短期間にこの国土に起こったとみてよい」と、林玲子は書いている。江戸時代に入って、真っ白な綿花が急激に日本中に拡がったのである。綿花は室町時代に国産が模索され、江戸時代に大量に生産され、江戸時代が終わると同時に消えた。綿花は三味線と同じように、江戸時代を象徴するモノである。綿花の国産化の定着は、江戸時代にしか見られなかった現象なのだ。その過程はすべて農民によっておこなわれた。農民が種から実験を繰り返し、肥料を試し、さまざまな種類を作り出し、糸を紡ぎ、またその紡ぎ機械を改良してゆき、機織りの技術を向上させていったのである。工業が農村から分離したのは近代工業が成立してからであって、かつて農村とは、加工技術を含む「ものづくり」の現場だったのである。

細作とはどういう仕事か

 綿布の原料である綿糸は、ワタの花から作られる。ワタの花が落ちる。すると子房がふくらむ。六〜七週間で皮が破れると、そこから白い毛の繊維があふれてくる。

 そこに至るまで、綿花は多くの水と肥料と手間を必要とする。今のように化学肥料や殺虫剤があるわけではない。水と肥料にはタイミングがあり、雑草や虫や病気やかびを取り除いていかねばならない。肥料は干鰯であった。 鰯漁がうまくいかなければ綿花は育たなかった。漁業の人手とシステムと流通も、綿花を支えていたのである。そしてようやく収穫する。ボール状の綿花には種子がついている。その種子を手で、あるいは繰綿機にかけて取る。繰綿機は日本の発明だと言われていて、いまでもラオスなど東南アジア諸国の農村で使われている。

 種子を取った原綿は実綿の三分の一ほどになる。綿はセルロースからできていて、そのセルロース分子が集まって「ミクロフィブリル」というものを形成し、さらにこれが集合して綿繊維を作っている。この原綿を弓の弦にからませ、弦をはじいてほぐし、紡ぎ車で糸にしてゆく。これが糸紡ぎである。

 さてそこから今度は布にしてゆくわけだが、その前に、このワタの花つまり綿花はどのように栽培されるのか、花になる前を見てみよう。現在でも世界各地、とくに中国、米国、パキスタンで綿花の栽培が盛んにおこなわれている。しかし日本ではまったくといっていいほどおこなわれていないので、ここでは江戸時代の農書『綿圃要務』で栽培の過程を見てみたい。

 江戸時代は農書が盛んに書かれた時代であった。農民が積極的に農業技術マニュアルを書き、決して閉鎖的にならず、技術を共有しようとしたのである。『綿圃要務』は一八三三年、大蔵永常という農民が書いた綿花栽培マニュアルである。大蔵永常の故郷九州の日田地方では綿作がおこなわれており、永常の祖父はそれに熟達していた。激しい夕立にあったとき、「綿どもが生き生きとしてよろこびあへる」と、まるで子どもを見るような目で綿花を見ていた祖父の姿を、永常は忘れられない。綿花栽培のような手のかかる農業は、子どもを育てるような気持ちで励んで初めて高い収穫を得られると、祖父を思い描きながら永常は書いた。

 まず種蒔きである。綿の種は麦を刈った後に、その場所に蒔くのがいいという。もしまだ麦を刈り取っていないなら、麦の根によせて蒔く。そのために、まず麦を蒔くときの畦の作り方を、道具まで示して具体的に指導している。秩序正しく蒔いた麦は、その種の位置の通りに麦の穂が出る。その麦の根に寄せて、綿花の種を蒔くのである。農作業は確かに手間がかかるが、このように他の作物との関係を作りながら能率化させることも、重要なことがらだった。恐らく土や養分との関係で、作物どうしの組み合わせにも、経験的なノウハウがあったと思われる。

 貯蔵しておいた種を蒔く前に、綿で数珠つなぎになった種をばらばらにする作業がおこなわれる。私は大学の畑に綿花を作っていたが、確かに前の年の綿花から種を選り分けてそれを使う場合、種は綿の繊維で数珠つなぎになっている。綿花の繊維は丈夫で、それを分けるのは一苦労だ。

 江戸時代ではその際、小便と藁灰を使った。灰を小便で溶き、それを種にまぶしてもむと、種はきれいに分かれる、という。これは種をばらばらにする方法だが、小便と灰という組み合わせは、肥料の役目も果たした。やせた土地の場合、さらに種を蒔く溝に灰肥(はいごえ)を敷いたり肌肥(はだごえ)を入れてから蒔く。肌肥とは、種に直接触れる肥料なのでこういう。灰に人糞尿をまぜたもの、あるいは草や葉や塵芥(じんかい)に屎尿(しにょう)をまぜて腐らせたもの、あるいは草や葉を腐らせたものに灰をまぜたものをいう。「おき肥」とも言い、根に置く方法もとる。

 綿花は肥料にお金がかかった。二葉が出たときに、綿の根元へ穴をあけ、菜種油やごま油の油かす粉、もしくは干鰯を入れるからである。これらは高価なものだった。その一四〜一五日後、鍬で筋を引き、人糞尿を薄めた「水肥」をほどこす。夏までに三度ほど施肥をするが、早くしないと葉だけ茂って実のつき方が少ないという。綿の場合、肥料のやり方で収穫に大きな差が出るのである。

 この水肥は、小便一斗を水四斗で薄めたもので、生長するに従って小便一斗に水三斗まで濃くする。そのほかの肥料は土地によって異なる。暑い所では、泥に藁を踏みまぜて腐らせ乾燥させた「泥肥」を使う。寒い地方では、草や葉を腐らせたものに藁の灰をませた「焼き肥」を使う。しかし、多くやりすぎると虫がつく。土に粘り気の多い土地では、肥料に砂をまぜることを忘れてはならない、という。水が通りにくいからであろう。根引きも必要で、綿の木が一五センチぐらいになったときに一・五メートルに一〇本ずつ残して他は捨てる。そしてさらに油かすや干鰯を施肥する。むろん草取りもする。

 このように、様子を見ながら手入れを怠らないようにするのが綿作であり、どのような手人れが必要か、を指導するのが農書であった。江戸時代は、農業が、知識と手間によって収穫量に違いが出てくることや、質の高さが市場を動かすことを学んだ時代だった。努力と知恵が人生を変える、という認識が徹底されたのである。

 いよいよ収穫する、それを市場に出す。このとき糸繰り、糸紡ぎまでおこなう家もあり、おこなわない家もある。綿布にまで織り上げる集落もあればそこまでおこなわない集落もある。大規模になってくれば、分業もすすんでいった。綿花の栽培しかしない場合、綿仲買がやってきて、実をつけたままの綿花を買い集める。繰屋(くりや)が多くの人を雇って、繰綿機で実を取り去り「繰綿」にする、その繰綿を綿問屋(わたといや)に売る(問屋は海運、陸運を使ってさまざまな地方に販売する。受け取った先の荷主が店に売り捌(さば)く。店から「綿打」に出すと、綿弓で「打綿」にして、篠巻(しのまき)(篠竹に巻くこと)にする(これを関西では「ぢんき」という)。ぢんきを糸に紡いで枠にかけ、「かせ糸」にする。かせ糸が仲買に売られ、さらに諸地方の織口(織り人)に売られる。織口は縞木綿にする場合はこの段階で染め屋に出し、染め屋からもどってきたものを識る。仲買が織所をまわって布になったものを買い集め、問屋へおろす。問屋から呉服屋へ行く。また糸を染めずに織った白木綿は、仲買から仕入れ屋の手にわたり、そこから染めや絞りなどに出してから、呉服屋へおろす。

 このような過程について永常は、「綿は人手にかかる事十四、五段を経て用をなすものなれバ、国民をにぎはすの大益あり」と書いた。経済活性化とは、働く機会(人手にかかる事)が増え、多くの人が職を得ている状態なのだ。輪人に頼れば国の支出ばかり増えるが、このように自分たちで働いて布を織り上げれば、国内で人を豊かにできる、と永常は考えたのである。この場合「豊かさ」とは、お金を払って外国人を働かせ、その安価な商品を買って自分は遊び暮らす、という豊かさではなかった。いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収人を得られるという豊かさであった。

綿花栽培のはじまり

 日本で綿花の国内生産がはじまったのは、室町時代の一四七九年ごろ、と見られている。その綿花栽培は、一八九三(明治二六)年の綿花輪人関税の撤廃決議および、一八九六(明治二九)年の撤廃実施をきっかけに、急速に消滅した。綿花が日本で作られたのはほぼ四〇〇年間である。

 綿花は紀元前五九〇〇年ごろ、メキシコではすでに栽培されていたらしい。インドも紀元前五〇〇〇年ぐらいまで遡るとされているが、証明されているのは紀元前二六〇〇年のインダス下流モヘンジョダロ遺跡である。同じころペルーで、もう少し後ではアラビアで、綿花が栽培されていた。しかし日本人が綿花の種を受け取ったのはようやく八世紀になってからである。この綿花の種はインド人から直接もらい受けた。

 七九九年旧暦七月、三河にインド人が漂着したのである。それは『日本後紀』に記録されている。背を布で被い、ふんどしをはき、左肩に紺色の布を袈裟のように掛け、年齢は二〇歳前後、身長一六五センチほど、そして言葉が通じない(つまり中国語・朝鮮語も話せない)、と記録された。やがて中国語を話せるようになり、自分から天竺人だと称したことで、インド人であることを確認したのである。川原寺と近江の国分寺に暮らしたという。その彼が草の実を持っていて、それが「綿種」であった。

 こんなふうにドラマティックにことは運んだが、しかしその綿花の種は一年で途絶えてしまった。インドの種子が日本の気候に合わないことは想像できるが、中国でも朝鮮でも、そして日本の江戸時代でもそれを克服している。綿花が根付かなかったのは何より、品種改良ができない農村社会システムだったからであろう。綿花は栄養分の豊富な肥料と丁寧な管理を必要とする。大量の水分も吸収する。それらを用意するには、度重なる実験とその全体を見渡す計画性、潅漑設備あるいはそれに代わる労働力、農業システムの成熟や村落の団結、それらが必要だったはずである。八世紀の日本は、貴族階級が必要と認めれば、資金を役人してその指導的な部署を作った。村落もその指導のもとに動いた。その結果として市場も作られた。絹生産はそのように向上した。しかし貴族階級の価値観は絹に集中していて、木綿を必要だとは考えなかったのだろう。

 その後だいぶたって一四七九年の筑前国の資料に、初めて日本国内生産木綿の記述が見える。高野山三昧院(さんまいいん)の所領であった博多近くの粥田の荘園から、木綿一反が令賢房という僧侶に献上された、と記録されている。当時、「綿」という字は蚕の繭をのばして作る真綿をさす場合が多く、まぎらわしい。真綿はもっと前から日本では各地で生産され、日本人の重要な防寒材料となっていた。しかし一四七九年の事例は真綿ではなく、はっきり木綿と確認される初めての事例だという。

 ところでインド人の木綿が消え去ってから六八〇年後、どうして急に日本で綿花が栽培されるようになったのだろうか。それは、朝鮮木綿の輸入をきっかけにしていた。一五世紀初めごろ朝鮮の木綿生産が急成長を遂げ、朝鮮王朝から日本の使者への回賜品の中心が綿布になったのである。一四七九年の日本における国内生産はその後に起きたので、明らかに朝鮮木綿輸入の結果である。

 中国と朝鮮では、すでに盛んに木綿を生産していた。日本には定着しなかった綿花栽培だが、七世紀ごろにはインドからヴェトナムを経て中国へ入った。中国での需要が高まったらしく、一三世紀あたりからは、中国商人はヴェトナム、ルソン、ジャワなど東南アジア各地で木綿糸と木綿布を購人している。東南アジアではその後ビルマ、インドネシアのバリ島、スンバ島、スラウェシ島東南部、カンボジアに綿花栽培と木綿布生産が広がってゆくが、それは、日本で綿花栽培と木綿生産が広まってゆく時期とだいたい重なっている。中国は一四世紀になると、東南アジアヘの依存を断ち、国内生産に転換する。やがて宮廷による木綿栽培奨励がなされ、木綿の現物税徴収がおこなわれるようになる。

 このようにアジア一帯、とくにいままで木綿を作ってはいなかった中国・朝鮮が木綿生産をはじめたことが、日本に影響を与えたのだった。朝鮮木綿の質が向上するに従って、鉱物資源の豊かな日本は、銅や鉄を支払って朝鮮木綿を購人し続けた。その量があまり多いために危機感をつのらせた朝鮮は、木綿の値段を引き上げた。しかし日本は木綿の購人をやめない。ついに朝鮮の輸出制限は極限に達し、日本は不足分を中国からの輸入に頼らざるを得なくなる。こうして一六世紀前半は、朝鮮木綿から唐木綿(中国木綿)輸人への転換期にあたる。同時に、朝鮮や中国から木綿布を輸人しながら、やがてその栽培と糸紡ぎと機織りを学び、徐々に国産化していったのだった。
(田中優子著「カムイ伝講義」小学館 p67-79)

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◎「原料について言えば、たとえば、綿紡績業の嵐のような進展が、合衆国の綿花栽培およびそれとともにアフリカの奴隷貿易を温室的に促進しただけでなく、同時に黒人飼育をいわゆる境界奴隷制諸州の主要事業にした」と。