学習通信090212
◎いま! 山宣……

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 三月三日──全国農民組合の大会へ、政獲労農同盟唯一人の代議士として挨拶するために、あわただしく下阪した宣治は、これが愛する家族との最後の団欒になるかもしれぬと心の底でひそかに感じつつも、宇治の自宅に立寄って二枚を過ごした。

 朝、彼よりも早く起きて身たしなみの薄化粧をほどこした妻の千代は、ひさしぶりに会ったせいが、やはり美しかった。ガラス戸ごしに柔らかな早春の日射しがあふれている食堂で、宣治は家族たちにかこまれて、紅茶にパン、それに林檎という軽い食事を共にした。千代が次々と焼いて差出すトーストを、男の子たちは、宣治の倍も食べた。
「ほう、大きくなったな英治──ちょっと来てごらん」
 彼は、これから中学へ登校するという長男と肩を並べて縁側に立って見ながら、ニコニコと妻を振返った。
「干代、こいつはもうすぐ俺よりもノッポになるぞ」
「まさか──まだパパの肩までしかありませんわ」
 千代も二人を見くらべながらニコニコと笑った。その長男や他の子供たちが立去り、?の不自由な治子たけが残ったとき、宣治は、ふと彼女の横顔を喰入るようにやさしい眼で見つめてから、かるく瞼をとじた。
「治子──パパは、お前だけが気がかりなんだ。でも、お前も大きくなったなあ……」

 まもなく、大阪へ行く宣治の身の廻りを整えるために、洋服箪笥から背広を取出した千代は、このとき偶然にそのポケットから畳の上に落ちた小さな手帳を拾い上げていた。手帳に挟んであった二、三枚の名刺を、もとのように挟みなおそうとしたとき、その頁に書込まれていたメモの字が、いきなり不吉な棘のように千代の瞳に突きささった。
 《道を歩くときは太いステッキを持って歩くこと》
 《狭い路地へ入るときは、なるべく真中を歩くこと》
 《亀井貫一郎、柔道三段──彼と歩けばまず大丈夫か》
 千代は、いまさらのように、最近の夫がどんな危険にさらされているかを悟って、青ざめた顔色で、その場に立ちすくんだのだった。むろん、それまでにもこの《花やしき》へ、右翼のゴロツキが肩肱を怒らせて押しかけてきたことは一再ならずあったし、千代もその程度の脅迫には馴れていた。たが、そんな場合、肩一つ動かさずに悠々としていた夫が、いつのまにか自分自身でこんなメモを書くようになったのには、何か深い理由があるはずたった。

 「千代、何を覗いているんた。はゝゝ、亭主の素行調べか」
 いつのまにか宣治が、ワイシャツの袖を通しながら、すぐ傍に立っていた。
 「あなた……」
 真剣な千代の瞳に気づいた宣治は、咄嵯にその意味をのみこんで、妻の肩をやさしく押えながら噺いた。
 「大丈夫だよ、千代──皆は俺に護衛をつけるといってきかないんた。たがこの忙しいときに、そんなことで同志の手を一人抜くのは贅沢たからね。なあに、俺は代議士になってから計算してみると、世界一周するほど日本中を駆けずり廻ったが、またこんなにピンピンしている。そう簡単にやられやしないさ」

 やがて身支度を整えた宣治は、《花やしき》の中庭伝いに、別棟の隠居所にいる母のタネを訪れた。むろん千代も一緒だった。
「お婆さん、では行ってきます。もうすぐ議会が終りますから、そのときにはゆっくり骨休めに帰りますが、留守中、千代や子供たちをよろしく頼みます」
「ああ、これから大阪どすか、ほんまに御苦労さんどすな。しっかり、やってきとくれやす」
 置炬燵にあたっていたタネは、わざわざ縁側まで出てくると、背の高い宣治の姿を見上げながら何度もうなずいてみせた。それは、生まれてから一度も息子を叱ったことのないこの老婆の、さりげない──だが亡き亀松のぶんをもこめた、激励の言葉たったのだ。

 玄関を出て、かなり歩いてから何気なく振返った宣治は、すでに見送人の引込んた《花やしき》の門前に、千代たけがポツンと一人佇んで、こちらを見つめているのに気づいた。
「千代、戦士を見送るときには、そんな寂しそうな恰好をするものではない!………」
 唇をグッと噛みしめた宣治は、そのまま後をも見ずに、駅に向う宇治橋の方へ突き進んで行ったのたった。

 京阪電車で約一時間──大阪についた宣治は、タクシーを拾って会場へ駈けつけた。

 全国農民組合の大会は、大阪の天王寺公会堂で、異様な殺気をはらんで開催されていた。立錐の余地もないほど農民たちで一杯に溢れた薄暗い会場の正面には、虐げられた貧農の要求を大書したスローガンが何本も吊下げられていた。その左右には炎のような赤旗が林立し、さらに農民組合独特の昔ながらの筵旗(むしろばた)が何本も押立てられていた。むろん両側の壁ぎわがら出入口にかけては何十人かの警官隊が、顎紐をがけてものものしい警戒陣を布いていた。

 ここ二、三年来の政治情勢の険悪化と田中内閣の弾圧とは、農民たちの上にも、暗雲のように重苦しく被いがぶさっていた。無産党の分裂は、そのまま農民祖合の分裂でもあった。二年前に日農から、社民系の《日本農民総同盟》と日労系の《全日本農民組合》とが分裂し、昨年、それでもまた輝かしい闘争の伝統と最大の組織をもっていた日展そのものが、あの三・一五の大弾圧で血みどろな打撃を受けねばならなかった。たが、農民たちは屈しなかった。大弾圧で根こそぎ活動家を投獄された直後、不死身のような姿で立上った日農は、逆に、一旦分裾した全日農との合同に成功し、十万人の組織をもつ《全国農民組合》として再出発した。人口の大半が農民であり、しかも貧農であった当時、反動政府にとって、この十万人の大組織は、まさに恐るべき存在であった。この過程で、宣治自身もまた、日農から全農へと加人していたのである。

 宣治が会場へ入って行くと、あちらからも、こちらからも割れるような拍手が起った。
「山宣!」
「頑張ってくれよ、山宣!」
 農民たちは、彼こそが、この苛烈な弾圧下で、自分たちの生活を真剣に護ってくれる唯一人の代議士だということを知っていたのである。

 まもなく宣治は、政獲労農同盟代表としてのメッセージをのべるために、演壇に立った。以前から彼は水谷のような、いわゆる大向うを唸らせる型の雄辨家ではなかった。彼の演説は、ときとしてユーモアをまじえた平易な講演ふうのものが多かった。だが──この日だけは、まるで別人の感があった。この日、宣治は、すばらしい演説とはどういうものであるかということを──それは一人の魂の叫びが、数百人の魂かいかに打つことたということを──脳中から奔る闘志とともに示したのである。

「諸君!──この大会を見るとき、諸君の階級的精神は、勇敢な議案に現われています。この無産階級運動への勇ましい門出を象徴する大会に、祝辞をのべることは私の光栄とするとこ ろであります。我々の戦闘は日に日に激しくなり、今まで我々の味方として左翼的言辞を弄していた人まで日に日に退去し、我々の頼みになると思っていた人まで我々の運動から没落して行きました。彼らは、合法主義たとか何たとかいって、去って行きます。しかも、これらの人人にたいして、支配階級は公認し、保護をあたえています。たが、こうした人々にたいして、我々のあたえる言葉はこうである──卑怯者、去らば去れ、われらは赤旗を守る!………」

 わあーっという喚声と、嵐のような拍手が鳴りやまず、宣治はしばらく唇をかんで立往生しなければならなかった。

 「諸君! ──無産階級の議員として出ている人々は、日々何をしているか。彼らは諸君をだましているのです。明日は議会に死刑法──治安維持法が上程されます。私は、その反対のために今夜東上します。反対演説もやるつもりたが、質間打切りのために、やれなくなるでしょう。じつに今や階級的立場を守る者は唯一人です。だが私は淋しくない。山宣ひとり孤塁を守る! しかし背後には多数の同志が──」

「中止! 中止ツー」
 臨監の警部が叫んた刹那、会場全体が巨大な憎しみの坩堝と化して燃えたぎった。
「警官横暴! 警官横暴!」
「やめるな、山宣!」
「政獲労農同盟ばんざ──いッ」

 無数の、半生を泥田の中で苦闘してきた皺の深い顔が、頑丈な肩が、日焼けした真黒が腕が、狂ったように揺れうごき、打振られ、怒号と拍手がいつ果てるともなく続いた。

 その凄じい拍手を浴びて壇上に立っているのは、もはや宣治であって寛治ではなかった。いわばそれは、《山宣》という名ふ借りた日本プロレタリアートの意志の権化たったのである。
(西口克己「山宣」大坂山宣会 p414-420)

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1929年6月執筆
階級戦士としての同志山本宣治



 同志山宣が、その尊い生命をまで犠牲にするにいたった階級闘争のために、その全生活を捧げるようになったのは、けっして、ある突発的な、「ドラマティック」とでもいいうるような「動機」からではない。

 それは、あたかも、地におちた一粒の種子が雨にうるおい、光をあび、あるいは嵐におそわれつつもついには天を摩する大木にまで成長したと同様に、一歩一歩深くつよく発展したものである。わたしはいま、静かにかれの発展のあとを回顧してみようと思う。

 同志山宣が、現代社会の隅ずみにまで根を張るところの「虚偽」にたいする闘争を志したのは、遠く、アメリカ遊学中のことであって、かれはこれを生物学者として「顕微鏡の中より」果たさんとした。しかし、このとき、すでにおぼろげながら、社会主義的世界観を把握していて、それが如上(じょうじょう)の決意を基礎づけたことは、かれみずから近親者に語っていたところである。

 一人の生物学者として、性教育および産児制限運動をはじめるや、かれは現代社会にたいする批判的立場からこの問題を取りあつかい、あらゆる機会をとらえて旧道徳およびブルジョア的性教育にたいする闘争に利用した。

 学校の講壇、医師会、小学校教員会議、青年団ならびに公開講演会等々におけるかれの活動は実に真摯にして勇敢なものであった。

 かかる信念のもとに実践にはいったかれが、晩年において、現代社会の徹底的批判者である唯一の階級──労働大衆こそ事をともにすべき階級であると確信するにいたったということは、あまりにも当然のことである。

 かくして大正十二、三年頃より、性教育、産児制限運動を目的として、京都、大阪、神戸等の労働者団体との関係が始まったのである。当時設立された大阪労働学校に講師として参加したときが、かれが階級闘争の戦士としての第一歩をふみだしたものといい得るであろう。

 この第一歩は、かれの最初の意図よりもはるかに大なる意義をむすんだ。当時、わが国の無産階級は、政党結成を当面の問題として闘っており、そのために解放運動に理解と熱意を有するインテリゲンチャの利用と糾合を重要なる一つの手段としていたのである。その雰囲気にかれがはいりこんだとき、かれは必然的に、解放運動上におけるかれの役割を、より広範な戦線にまで拡大せざるを得なかった。政治研究会、フェビアン協会、労働農民営の設立等々におけるかれの活動はかくして招来せられたのである。

 かように、労働者団体と関係をむすび、したがってまたその闘争場面を拡張したということが、必然的にかれのいだく社会主義的世界観を、より深化、発展せしむるところの条件となった。ちょうどその頃より急速に加重してきたブルジョア学界のかれにたいする露骨なる迫害は、拍車となってかれを勇躍させた。かくして戦士としての同志山宣は質的転化──性教育を主眼とする労働者団体との関係から、全幅的解放戦の輝ける闘士への──を終えた。大正十五年の中頃が転化の時代で、これ以後のかれは、その全生活をあげて無産階級運動にささげていたのである。

 かれが解放運動のかがやける指導者にまで発展した経路において無産政党問題を中心としての労働者およびインテリゲンチャの働きかけを見おとすことは大なるあやまりであるが、それと同時に、かれ自身の思想的、理論的発展を理解せずして、かれの勇敢なりし晩年を物語ることはできない。かれは暗殺されるその最後の日まで、解放運動に深く関係すればするほど、その戦闘的唯物論、弁証法的世界観の徹底的把握に努力した人である。



 労働組合の先覚分子と関係をむすんだのは、たぶん大正十一年であったと記憶する。最初の関係は当時の日本労働総同盟の野田律太君、三田村四郎君等であった。

 大阪労働学校の開校は、大正十一年六月であるが、第一回(大正十一年六月)、第二回(大正十一年九月)、第三回(大正十二年一月)、ともにかれの講師たる名がのっていない。しかるに、大正十二年四月号の雑誌『解放』によせたかれの論文「卑屈なる自称知識階級」──ニコライの『戦争の生物学』の訳書序文をもらうためにアインシュタイン博士を訪問した記事──のなかに、知識階級は卑屈で駄目だが、労働階級のあいだにはすばらしい秀才がいるとて、野田、三田村、大矢の諸君と交遊のあることを記している。これらを総合して考うるに、当時すでに右の諸君と交遊はあったけれども、労働学校とはまだ結ばれていなかったようである。

 大正十二年にいたって、前述の諸君の紹介によって大阪労働学校の講師となり、日本労働総同盟に関係することとなったのである。

 次いで十三年度にはいり、京都、堺、神戸等の総同盟経営の労働学校の講師となるかたわら、信州文化青年同盟、日本農民組合、全国各大学の社会科学研究会等に関係し、各地を講演行脚した。

 労働者学校におけるかれの受持は生物学であった。その内容はかつて講師だった同志社大学におけるとほとんど同様であったが、そんなことは問題ではない。ただ、労働学校の講師として当時の戦闘的労働者──労働組合員に接触したかれが、そこに現代社会にたいする徹底的批判階級たる労働者大衆の生活を見るとともに、これらの生徒を通じて、闘争本拠たる労働組合の集会や闘争の実践に参加する機会を得たということが重大な意義を持つのである。これらの関係がもたらした生活視野の拡大は、労働者階級にたいするかれの従来からの期待と信頼とを、より高めたのである。以来、かれは労働者たちの各種の要求もつとめて快諾したようである。たとえば、大正十三年四月京都労働学校の校長に就任したことや、各地の労働団体主催の集合、講演会、演説会等に参加したり、メーデー、ストライキ等にも応援に出かけたごときである。

 前にもちょっとふれたように、かれのこのような一歩前進は、さらにより広範なる闘争への参加を要求される結果を生んだ。すなわち、大正十三年六月創立された政治研究会に勧誘されて会員となり、ついでフェビアン協会の設立に参加した。また、京都在住のインテリゲンチャの間に一つのサークルを設け、毎週一回会合して政党問題に関する座談会をひらいた等々、労働者団体、農民団体、研究会、フェビアン協会等の主催する集会に同志山宣の姿を見ないことはまれなくらいであった。

 この年の十月、オール関西の労働学校によって関西労働学校連盟が組織されたとき、かれはおされて執行委員長となり、その機関紙を主宰した。この頃よりかれは名実ともに関西における労働者農民教育運動の有力なる指導者となった。



 大正十四年の初め(一月七日)、日本フェビアン協会主催、京都労働学校後援の演説会が京都市岡崎公会堂に開催されたとき、かれも安部磯雄、秋田雨雀氏等とともに演説し、閉会後一同うちそろってかれの生家である宇治「花やしき」に遊んだことがある。秋田氏の記するところによると、この清遊は一行を結ぶ上にきわめて有意義なものであったようであるが、しかし、かれにとってはかならずしも、秋田氏と同様な気持を植えつけられなかったらしい。というわけは、かれが日本フェビアン協会の中に巣くう無政府主義的分子のダラシない様相を認識する最初の機会も、この時つくられたからである。──今のプティ・ブルジョア文士新居格君などもふくまれていたのだから、当然なことではあろうが。

 この年の三月から五月にかけて、かの総同盟の内紛、評議会の創立問題がおこった。この問題にたいしては、当時もっとも戦闘的なインテリゲンチャの団体であった東西大学の社会科学研究会においてすら、一時は若干の日和見的認識が行なわれたのであるが、同志山宣は、この時もなんの苦もなく問題の本質を理解し、即座に評議会系として活動することを宣言した。ここに一つのエピソードがある。

 評議会の創立に当面した京大社会科学研究会の若干のメンバーが、「この事件のいっさいの資料を蒐集し十分研究した上でなくては、総同盟に加担すべきか、また評議会に参加すべきかを決定することができない」と主張したのにたいして、かれは即座に次のごとく一喝した。

 「いまさら研究の必要はあるまい。評議会が正しいにきまっている。もしそうでないなら、総同盟内の階級分子のみがかくも団結しないだろうし、またかくも組合大衆の支持を得ることはできないであろう。一つの突発事件に直面して、あわてて資料をあつめ、十分な研究をしてでなければ、問題の本質を理解することもできず、また自分の態度も決定することができないというようなことでは、たえず内部的、外部的変化・発展・飛躍に富む解放運動に参加する資格はない。まして、その指導者となることは思いもよらぬことであろう。」

 このエピソードは、同志山宣の面目を躍如たらしめている。事物にたいして、いたずらに枝葉末節に拘泥することなく、その底を流れる事物の本質をまっ先にえぐりだして、それをすべての理解の基礎におく。これがかれの特徴だった。かれにとっては、飛躍に直面して、あわてて資料を集めるのではなく、問題の本質的傾向をつねに注意ふかく観察している──そして対処する、ということがなによりも肝要だったのである。

 左翼戦線の同志諸君と広くまじわることとなったのは、この事件以後のことである。『産児調節評論』を刊行し、野田、三田村、谷口、桂等の諸君との交渉頻繁になったのもこの年である。なお関西のインテリゲンチャによって、大阪に政治経済学会が創立されたのも、たぶんこの年であったと記憶するが、かれも熱心なメンバーの一人であった。

 京大社会科学研究会との関係はますます深く、同年十二月に突発したいわゆる学連事件にさいしては家宅捜索を受けた。こえて翌年四月公判の時には証人として喚問されたが、公判廷において当時の京都特高課長久保田某をかれ一流の快弁で痛快にやっつけたのは有名な話である。

 大正十五年春、労働農民党創立とともに参加し、京都府連合会の教育部長となった。この頃、前後して京大、同大の教職を追われたので、かれもいよいよ純然たる闘士として東奔西走することになった。同年九月には、議会解散請願運動が、日本農民組合京都府連合会の提唱、無産者新聞支持のもとに起こされるや、かれは意識的にかつがれて最初の執行委員長となった。ここで、わたしは、解放運動戦士としての、かれの当時の態度について一言したいと思う。

 元来、三・一五以前のかれは、左翼陣営内における有力なる一活動分子ではあったが、しかし、厳密なる意味での指導者ではなかった。もちろん、形式上は指導的地位──たとえば大正十四年に関西労働学校連盟の執行委員長、議会解散請願運動の執行委員長、さらに後に述べるが昭和二年末に就任した労働農民党京都府連合執行委員長等──に立ったことはたびたびあるけれども、しかし、それはけっして厳密な意味での指導者の立場ではなかった。それは、知名なる一インテリゲンチャとして意識的にかつがれることによって、左翼運動に貢献しようとする態度であった。かく理解することは、だんじて同志山宣を辱しめるものでなく、またかれの人格、識見をうたがうものではない。

いな、反対にかくのごとき態度こそ真実の指導部にたいする絶対的信頼を表明するものとして、たかく評価すべき態度であって、当時のかくのごとく、真実の指導部となんら組織上の関係を有しない一知名のィンテリゲンチャとしては、最高の階級的忠誠を示したものと断言してよい。かれは尊くも、自己を正当に評価しているのだ。──自分はまだ左翼組織の一員ではない。したがって自分は、まだ完全な左翼指導者としてふるまってはならない。が、しかし、自分はこの運動にかつがれることによって、いくぶんでも左翼に貢献できる立場にある、「左翼」はそれを要求している。自分は命じられた任務に全力をつくすことによって満足しよう──これが同志山宣が当時いだいていた真実の心持だったのである。

 この態度を、ナマジ五、六冊のマルクス主義文献を読んだということをもって、ただちにりっぱな指導者たり得たと心得ている水長輩の思いあがった態度と対比せよ! 階級道徳と階級規律の強き根の上に咲き出でた美しい花であったればこそ、かれは散るべきときには鮮かに散ることもできたのである。



 昭和二年春にいたり、真実の左翼陣営の拡大を、いわゆる第六感によって察知したかれは、これにたいする自分の態度をいかにすべきかに関して頭を悩ましたようである。当時、かれのもっとも親しい某君にたいして「左翼の人々は、一個の卑屈なるインテリゲンチャたる僕にたいして、適当な仕事をあたえてくれる必要がある。今ただちに真実の左翼戦線に投ぜよといわれてもちょっと困るが、厳重なる規律をもって仕事を与えてくれるなら、りっぱにやるつもりだ。僕はいま、一生の仕事と考えていた生物学をすてるにもしのびないし、それかといって左翼運動勃興の今日、それから逃避するということはなおさらやりたくない」ともらしていたということである。とにかく、この年の四月に、雑誌『インターナショナル』の編集人としてかれの名があらわれた。当時の雑誌『インターナショナル』が左翼運動といかなる関係にあったかは知らないけれども、かれの名が中央にあらわれたことは、当時の心境を知る一つの鍵となるかも知れない。

 この年の五月、労農党から京都府第五区衆議院補欠選挙に出馬して落選した。もちろんこの選挙戦は最初から落選は明らかだったのであるが、大衆の政治的教育のために、一身の事情を犠牲にして党議に服して出馬したのである。この選挙戦は労農党に貴重なる経験を残した。この経験にもとづくかれの自己批判は、パンフレット『労働農民党の初陣』の巻頭にかかげている。若い党員たちの観念的戦術にたいするかれ一流の批判は、今日においても十分の価値を残していると思う。

 対支非干渉同盟より渡支代表に選ばれ、そのために宇治署に数日間検束されたのは、この年の八月のことである。このさいに宇治警察署のとったあらゆる不法行為は、かれが議員になって後、第五十六議会において徹底的に暴露したところである。すなわち、「拷問不法監禁に対する質問」としてブルジョアジーの心胆を寒からしめたものである。

 十一月から十二月にかけて、労農党京都府連合会内に水谷長三郎排撃運動がおこり、左翼労働者が漸次台頭するようになってからも、かれはつねに左翼を支持していた。十二月の執行委員会の席上で彼は徹底的に水谷を批判したこともあった。ついで連合会大会で推されてその執行委員長に就任した。



 昭和三年二月、衆議院総選挙にさいし、労農党より推されて立候補し、見事当選した。前にもいったように、かれはいかなる場合においても、私生活を犠牲にして党議に服従する事を信条としていた。が、さすがのかれも、この選挙戦に立候補を命ぜられたときほど困却したことはなかったようである。当時かれは持病がこうじて喀血臥床中であった。主治医はかれにたいして絶対安静を命じ、あまり病を軽んずると生命の危険を導くであろうことを宣告した。と同時に、かれもまた、別な理由で立候補辞退の決意をしていた。というのは、かれは一個の生物学者であって政治の専門家ではない。何万の大衆の代表者として議会闘争を勇敢に遂行するための最適任者ではあり得ないという意見をいだいていたのであった。これら、二つの理由から候補辞退の決意をなし、それを労農党本部の細迫書記長にまで申し出た。

ところが細迫書記長から彼の立候補が絶対的必要である旨を訴え、私情においてしのびないが、党のためにまげて出馬してくれという意味の返信があった。書記長の返信を受けとってからの数日間はずいぶんかれを苦しめたらしい。しかしかれはついに医師の勧告を排して断固立候補を決意した。選挙戦後に病が悪化し、数カ月間静養しなければならなかったのも当然のことである。



 三・一五事件、労農党、評議会、青年同盟解散等々、左翼陣営に大暴風雨が襲った。精鋭分子の大衆的逮捕、左翼的組織の破壊等で左翼戦線は一時的危機にさえ陥った。このことは、同志山宣に最後の飛躍をうながさずにはおかなかった。逮捕された前衛の革命的精神の継承者として彼が奮起したときに、かれは名実ともに左翼陣営の指導者となったのである。

 ここでわたしは、ちょっとばかり読者の注意を喚起しておきたい。それは、かれがかかる飛躍的進出をとげた条件についてである。わたしはいま「左翼戦線が大打撃を受けたから同志山宣が奮起した」といった。だがたんなる客観的情勢の変化のみについて説明したので完全でない。なぜならば、たんなる客観情勢の変化によってのみ動いたのなら、かれがとくに真実の左翼指導者として逮捕された、前衛の革命意的精神の継承者として奮起した理由が十分説明され得ないからである。

ここでわれわれの注意すべきことは、彼はこの頃すでに前衛の組織と指導を直接知ることができるという立場にあったことである。いままでの活動においては、まだ解決されていなかったところの自身の立場上の問題がこれによってある程度にまで解決したればこそ、その時のかれは牢乎(ろうこ)として抜くことのできない左翼指導者としての自信をいだくようになったのである。かれは最後まで日本共産党の組織には加盟してはいなかったらしい。

しかし、かれの精神、かれの態度はすでにそれと同一のものであり得たのである。かれが晩年における涙ぐましきまでの活動は、断じて単なるお座なりや、事情やむを得ずかつがれたというがごとき態度からではなかった。

 かれの死力をつくした活動は、この時からはじまった。第五十五議会を終えると、余暇にはニコライの『戦争の生物学』の翻訳を続行しつつ、つねには文字どおり階級闘争の第一線に立って奮闘した。全国的遊説、新党組織準備、労農同盟の結成、香川奪還闘争、等々より、最後の第五十六議会における左翼唯一の代議士としての健闘、さては万国の無産大衆をして憤激せしめた昭和四年三月五日の遭難等々にいたるまでの事実は、生々しくわれわれの脳裡にきざみこまれているから、ここに綴る必要はあるまい。

 とまれ、同志山宣の最後は同志河上博士のいうごとく「あたかも、運動における競争者が決勝線に入るまぎわにヘビーをかけるとおなじ勢いのものであった。かれは実に死力をつくしてヘビーをかけた。そして死の直前において自らを完全に一個の戦闘的マルクス主義者に完成した」のである。かれの没後、日本共産党の中央委員会が、かれをその党員に列せしめる
ことを決議したのは、またゆえなしとしない。
(谷口善太郎「つりのできぬ釣り師」新日本出版社 p126-140)

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◎山宣生誕120年・没後80年
「階級道徳と階級規律の強き根の上に咲き出でた美しい花であったればこそ、かれは散るべきときには鮮かに散ることもできたのである」と。