学習通信090213
◎われら誓いをあたらしくせり……

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共産党と先進的な労働者への大弾圧

 一九二八年二月に、はじめて、普通選挙がおこなわれました。無産政党はそれぞれ候補者を立ててたたかいましたが、共産党は多くの党員を労働農民党から立候補させ、この選挙のなかで、はじめて、公然と党署名のビラをまいて、「帝国主義戦争反対」「天皇制打倒」「労働者・農民の政府樹立」「中国から手をひけ」とうったえました。

 当時の若い労働者や学生は、このビラを手にしてはじめて、日本にも共産党があることを知り、非常な感激と興奮をおさえることができなかったものです。非合法機関紙「赤旗」が創刊されたのも、この年の二月一日でした。ですから、選挙運動にたいする弾圧と妨害は、とりわけ、労働農民党に集中されました。

演説会場の演壇のそばには、臨検の警察署長がサーベルを杖に腰かけていて、候補者や応援弁士の発言を「不穏」と判断したら、たちまち、「弁士中止!・」と叫んでやめさせました。これに応じなかったら、その場から検束です。聴衆のあいだから、おもわず「横暴!」などと叫ぶと、何メートルかおきに、アゴひもをかけて監視しているポリ公が、胸ぐらや腕をつかんで場外につまみだすといったありさまでした。

臨検の署長の考え一つで、演説会を解散させたり、「総検!」と叫んで、主催者も弁士も聴衆も、そっくり総検束してブタ箱にほおりこむことまでやりました、にもかかわらず、選挙の結果は、無産政党から八名が、四七万一〇〇〇票をかくとくして当選、うち労農党は一八万七〇〇〇粟で最高の得票数をえて、山本宣治ほか一名の当選をかちとりました。

 さきにのべた資本家の「合理化」や地主の収奪にたいする労働者と農民のはげしい抵抗や、弾圧をもってしてもおさえきれなかった選挙の結果、とりわけ、共産党の公然とした活動におどろいた田中内閣は、選挙がおわると三月一五日の未明を期して、一道三府二七県にわたって千数百名の共産党員とその支持者をいっせいに検挙、そのうち四八四名を治安維持法違反の名で起訴しました(いわゆる「三・一五事件」)。そして四月一〇日には、労働農民党、日本労働組合評議会、日本無青年同盟の三団体にたいして治安警察法で解散を命じました。

 しかし、検束をまぬがれた市川正一、渡辺政之輔らは、党再建に努力し、同年末には「赤旗」が再刊され、同時に評議会加盟の組合は「日本労働組合全国協議会」(全協、一二月)を半非合法で再建し、無産青年同盟にかわって共産青年同盟ができました。共産党にたいする迫害と追及はますますきびしく、ニ八年一〇月には、書記長の渡辺政之輔が中国からの帰途、台湾の基隆(きいるん)で警官に包囲されて一命を絶ち、国内では国領伍一郎ら幹部がとらえられました。それにつづき、翌二九年三月五日には、国会にあって「ひとり孤塁をまもって」治安維持法の死刑法への改悪に最後まで反対して、勇敢にたたかっていた労農党の山本宣治が、神田の旅館で右翼暴力団の手でさし殺されました。

 一九二九年四月一六日、市川正一をはじめ党指導部と多数の党員活動家が、ふたたび全国いっせいに検挙されて、共産党は大きな打撃をうけました(いわゆる四・一六事件)。

 労働農民党の再建も大山郁夫らによって新党準備会の形ですすめられ、一九二八年一二月には新党「労働農民党」の創立大会がひらかれましたが、大会三日目に禁止されました。その後、大山郁夫らによって新労農党が結成(一九二九年一一月)されましたが、当時、共産党はコミンテルン第六回大会(一九二八年)のあやまったセクト主義的な方針にもとづいて、これに反対したため、統一戦線の一つの形態として、進歩的な民主主義勢力を結集することもできませんでした。

 共産党と戦闘的な大衆団体への大弾圧によって、天皇制政府は、いよいよ、満州侵略への道をふみだしたのです。「アカ攻撃」は、まさに「戦争のまえぶれ」でありました。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p78-80)

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雛祭り

 三月三日は、雛祭りである。
 芭蕉は、「もゝ引の破をつゞり笠の緒付かえて」、「おくのほそ道」へ旅立つにあたり、芭蕉庵を「人」にゆずった。

草の戸も住替る代ぞひなの家

 その「人」には娘があったのであろう。主人がかわると、わびしかった「草の戸」も、雛をかざられて華やぐにちがいない。

 今のように、布で美しくあしらった内裏雛を飾るようになったのは、江戸の中期からで、昔は紙で作った紙雛の遊びだった。『源氏物語』の「若紫」の巻などに、光源氏が若い紫の上と雛をつくって遊ぶ場面がある。源氏は人形の絵をかいて色どりをし、鼻に紅をつけたりする。若紫も、人形を源氏に見立てて参内させて楽しんでいる。『枕草子』の「うつくしきもの」に、「瓜にかきたるちごの顔」や「雛の調度」をあげているように、人形も「瓜人形」や、柿の葉ジンジョ(秋田)などの自然物でもよかった。

 日も、三月三日と限らなかった。若紫が源氏の人形を参内させて遊んだのは元旦だし、『紫式部日記』には、皇子が誕生して五十日たった十一月一日に、「ひな遊びの具」をそなえたことを書いている。『枕草子』に「三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいまさきはじむる。柳などをかしきこそさらなれ」とあるのは、三月上巳(じょうし)の曲水(ごくすい)の宴で、水辺で遊宴する中国渡来の行事である。昔雛祭りは陰暦だったから、挑の花も咲きはじめたが、太陽暦の三月三日は、桃の花はまだ蕾である。曲水の宴といえば、昨年、平城京址から、りっばな曲水の庭が発掘され、日本でのその起源のかなり古いことがたしかめられた。

 三月五日は啓蟄(けいちつ)の日で、冬ごもりの虫が穴から出るという。虫も今や春を感じる。だが、一九二九年の三月五日は、きびしい「冬」がおそってきた。治安維持法の最高刑を死刑にするという改悪案に正面から反対した山本宣治が、この夜、右翼の一員に暗殺されたのである。山本宣治は暗殺されても、かれのことば、「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない、背後には大衆が支持してゐるから」は、永遠の生命をもちつづけている。

 西口克己の『山宣』を読んだとき、私は山本宣治の生涯にひどく心を打たれた。映画の『武器なき闘い』にも感勤した。文字どおり、命をかけてたたかっていた時代のはりつめた緊張感が、こちらに伝わってくるのである。

 山本宣治は一八八九年に生まれ、京都の宇治で育った。十八歳のときカナダに渡り、働きながら学んだ。生物進化論と社会主義思想に関心をもち、帰国後あらためて三高に入り、東京大学動物学科を卒業した。同志社大学と京都大学で進化論や生物学を教えながら、労働者教育運動や産児制限運動に活躍した。

 山宣は、一九二八年の第一回普通選挙で、労農党から立候補して当選した。このときのいきさつを、谷口善太郎は次のように書いている。

「かれはいかなる場合においても、私生活を犠牲にして党議に服従する事を信条としていた。が、さすがのかれも、この選挙戦に立候補を命ぜられたときほど困却(こんきゃく)したことはなかったようである。当時かれは持病がこうじて喀血臥床中であった。主治医はかれにたいして絶対安静を命じ、あまり病を軽んずると生命の危険を導くであろうことを宣告した。と同時に、かれもまた、別の理由で立候補辞退の決意をしていた。というのは、かれは一個の生物学者であって政治の専門家ではない。何万の大衆の代表者として議会闘争を勇敢に遂行するための最適任者ではあり得ないという意見をいだいていたのであった。これら、二つの理由から候補辞退の決意をなし、それを労農党本部の細迫(兼光)書記長にまで申し出た。ところが細迫書記長から彼の立候補が絶対的必要である旨を訴え、私情においてしのびないが、党のためにまげて出馬してくれという意味の返信があった。書記長の返信を受けとってからの数日間はずいぶんかれを苦しめたらしい。」

 思いあまった山本宣治は、共産党員谷口善太郎と会った。二人が秘密にあった場所は、京都東九条大石橋のミルクホールであった。

「かれは向かい合うとさっそく細迫氏の手紙などを見せて、労農党の連中は僕の苦衷(くちゅう)をわかってくれぬが、君たちならかえってわかってくれると思う、とわたしに訴えた。わたしは困った。というのは、そのときわたしが山本に会ったのは、かれの出馬を要請する共産党の決定を伝えるためであったからだ。わたしは勇気を出してそのことをいった。かれは急にイヤな顔をして黙ってきいていたが、やがて笑いだした。『何のこった、ヤブをつついてヘビだ』といった……山本は静かに手紙をポケットにしまいながらいった。『しょうがないなあ。』こうして山本の出馬はきまった。かれの党にたいする信頼と支持は、このように絶対のものだったのである。」

 山本宣治が七生義団の黒田という男に刺殺されたのは、一九二九年三月五日の夜である。かれは共産党員を死刑にするという治安維持法改悪緊急勅令の事後承認案に反対しようとしたが、西尾末広らによって発言を封じられた。無念の思いで議事堂を出て、神田の光栄館の自室にもどった。芝浦の労働者だといつわって訪ねてきた黒田は、山本がうしろをふりむいたすきに、右頚動脈に凶刃をふるった。山本は黒田にとびかかり、格闘した。その間なお一、ニカ所刺されたが、しがみついてはなさなかった。そして、座敷から廊下、廊下から階段ともつれて、暗殺者ともども階段下までころげおち、ついにこときれた。壮絶な死である。

 のち、渡辺順三は、山宣をしのんで歌をつくった。

胸元に血をたらしつつ
 暴漢を追うて、
階段をころがり落ちて死にき。

相寄りて君をかなしむ。
 悲しみのなかに、
 われら誓いをあたらしくせり。

 山本宣治の墓碑銘には、かれの最後のことば、

『山宣ひとり孤塁を守る、だが私は淋しくない、背後には大衆が支持してゐるから』

が大山郁夫の筆蹟で刻まれた。官憲はこれをくりかえし石膏でぬりつぶしたが、そのたびに同志たちの手で彫りおこされた。
(加藤文三著「昭和史歳時記」青木書店 p55-59)

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◎「若い労働者や学生は、このビラを手にしてはじめて、日本にも共産党があることを知り、非常な感激と興奮をおさえることができなかった」と。