学習通信090216
◎科学的社会主義の経済学と労働組合活動家……

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 ジョン・ドハティがマンチェスターで紡績工として働きはじめたころは、一八〇〇年につくられた団結禁止法のために、労働組合を結成すること自体が犯罪だった。ノッティンガム州やヨーク州でひろがったラダイト運動の波は、マンチェスターヘもおしよせ、機械のうちこわしや工場の焼きうちなどもおこっていたが、しかしジョンはこれには加わらなかった。ジョンだけでなく、紡績工たちは全体としてラダイトたちの運動を支持していなかった。かれらは技術をもつ熟練工だったから、そういう強味を利用して賃上げをかちとることができたし、じっさい、そういう経験をすでにもっていたのである。

 一八〇〇年に団結禁止法がつくられる前にも、同じような法律がすでに何十回もつくられていた。いちばん最初は、一七二六年の法律だった。こういう法律が何回も手直しされてつくられていたということは、各地で労働者の団結がひろがっていたことの証拠だったし、ストライキという戦術も、ストライキという言葉が使われるずっと前から、労働者たちにはおなじみの闘争方法だった。一八〇〇年の団結禁止法はこれまでの同じような法律を総仕上げしたもので、そのころにはストライキという言葉も、もう完全に労働者のものになっていた。

 ジョンが働いていたマンチェスターの町のすぐ南どなりにストックポートという町がある。イギリスの工場労働者の最初の労働組合は、一七九二年に、このストックポートで結成された。それは綿紡績工場の紡績工の組合だった。この経験はすぐマンチェスターや、マンチェスターの北東のオールダムという工場町へもひろがり、つぎつぎに紡績工の組合がつくられていった。すこしおくれてとなりのヨーク州でも毛織物工の組合がつくられた。組合ができるとすぐストライキがはじまった。

 一七九五年、マンチェスターでは組合を結成したばかりの紡績工たちはつづけざまに二回のストライキをたたかい、二回目のときには約一カ月のストライキののちに、とうとう賃上げをかちとることができた。こういう経験は団結禁止法ができても、けっして消えてしまうものではない。公然と労働組合と名のることはできなくても、紡績工たちはいろいろな名前をつかい、あるいは組織をまったく秘密にして、たたかいをつづけた。

 団結禁止法が禁止しているのは、賃金引上げや労働時間短縮などを目的とする団結である。労働者がおたがいに金をだしあい、積立て基金をつくって、病気や失業のときに助けあうという互助組織なら、団結禁止法にはふれない。こういう互助組織にも長い歴史があった。ストックポートの紡績工組合も、その前身はこういう互助組織だったし、そしてこの互助組織の時代からストックポートの紡績工はストライキの経験をもっていたのである。団結禁止法のもとで労働組合は互助組織へもどった。しかし一八〇一年にも一八〇二年にも、マンチェスターの紡績工はストライキをたたかい、賃上げをかちとっていた。

 それだけではなく、互助組織という形のまま組織もひろがりはじめていた。一八一〇年には、いままでマンチェスターとかストックポートとかオールダムとか、町ごとに組織されていた紡績工組合があつまって、ランカシャーという州全体の連合体がつくられた。この連合体の最初の要求は、州全体の紡績工の賃金をまずマンチェスターなみに引き上げることだった。だが要求はいれられなかった。ステーリーブリッジという町からはじまったストライキはやがて州の各地にひろがり、三万人の紡績工がこれに参加した。

 ストライキ中の労働者はそれぞれの町でデモ行進をおこない、工場や工場主の家を包囲し、大声で要求をくりかえした。工場主はスト破りの労働者を使い、作業をつづけようとしたけれども、工場主もスト破りの労働者も工場から一歩も外へでられず、かんづめ状態となって、作業の継続どころではなくなってしまった。警察も手をだせないありさまだった。ストライキにはいっていない工場の労働者からはぞくぞくと闘争資金のカンパがおくられてきた。ストライキは四か月つづき、カンパの合計は一万七〇〇〇ポンドにたっした。しかし資本家側もがんばりつづけた。ついに闘争資金も底をつき、紡績工のなかにはストライキから脱落して職場復帰をするものがではじめた。

 一八一〇年の団結禁止法下の大ストライキは労働者側の敗北に終わった。しかし、非公然の組織は完全につぶれたわけではなかった。ランカシャー各地から四〇名ほどの代表があつまって構成されていたマンチェスターの闘争本部は解散されたが、ふたたび町ごとの闘争がつづいた。マンチェスターでは一八一一年に、ストックポートでは一八一三年と一四年に、ストライキがたたかわれた。

 ジョン・ドハティがやってきたころのマンチェスターはこういう状態だった。そしてジョンがきた翌々年、一八一八年の七月、マンチェスターではまたもやストライキがはじまり、ジョンもこれに積極的に参加することとなった。かれの組合活動はこのときからはじまるのである。

団結禁止法の廃止

 一八一八年のストライキは、資本家側の賃金切下げに抵抗する受身のたたかいだった。資本家側は、紡績工の賃金はほかの労働者にくらべて高すぎると宣伝し、二〇ないし二五パーセントの切下げをはかってきたのである。マンチェスターの紡績工たちは、各工場から二名ずつの代表をえらんで闘争本部をつくり、闘争資金をあつめ、ピケ隊を配置し、ストライキに突入するとともに、連日のように街頭デモをくりかえした。はじめ紡績工の勢いに圧倒されて操業を中止していた資本家側も、八月の末ごろから政府や警察の応援をうけて態勢をもりかえし、スト破りをやといいれて操業を再開し、これを阻止しようとする組合側と大乱闘となり、軍隊まで出動して弾圧にあたった。

 ジョン・ドハティはこのときピケ隊に参加し、乱闘のなかで、六人の仲間とともに警察に逮捕されたが、これを救いだそうとする二千人の労働者は投石をくりかえしながら監獄までジョンたちのあとを追いかけていった。けっきょくジョンは懲役二年の有罪判決をうけ、一八二一年一月まで入獄し、またこのストライキも労働者の敗北に終わることとなった。

 ジョンの入獄中もストライキは波状的につづいていた。しかしやはり団結禁止法があるかぎり、労働者のたたかいはどうしても散発的となり、また弾圧をうけやすかった。団結禁止法の廃止をまずかちとろう。出獄してきたジョンは、一方で非合法に組合の組織化をすすめながら、もう一方で団結禁止法撤廃のたたかいの先頭にたった。さいわい議会のなかでも自由主義的な議員がこの法律の廃止を主張しはじめており、一八二四年二月につくられた団結禁止法の効果を調査する小委員会は、廃止を支持する議員でかためられ、この法律を廃止すべきであるという報告書が提出された。

 その理由はいくつかあげられていたが、いちばん基本になっていたのは、「経営者と労働者は、賃金や労働時間にかんして、こういう法律の制限をうけることなく、両者が適当と考える協定を結ぶ完全な自由をもつべきだ」という考え方だった。ジョンは、この報告を支持して議会への請願運動を組織した。もちろん資本家側は、団結禁止法の廃止に反対する請願を提出した。

 議会内部での自由主義的な議員の活躍と、全国各地の労働者の請願やデモなどの運動と、さらに進歩的な知識人の言論活動とがうまく結びついて、ついに一八二四年六月、団結禁止法を廃止する法律が成立した。そこでは、一八〇〇年の団結禁止法を廃止するときめられただけでなく、労働者の団結を制限するような普通法の規定も廃止されたのだった。これは、イギリスの労働者階級がかちとった歴史的な勝利だった。

 ただちにたくさんの労働組合が公然と姿をあらわし、ストライキがはじまった。マンチェスターでも一八二四年七月から一二月までに、紡績工、染色工、製靴工、鋳物工などがストライキにはいった。なかには暴力的な傾向をもつものもあらわれた。ジョンは暴力には反対し、統制のとれたストライキをよびかけたが、長いあいだ抑えつけられていた労働者の怒りは、なかなかおさまらなかった。

 こういうストライキの予想外の高まりにたいして、団結禁止法の廃止に努力してきた自由主義的な議員の一部にも動揺が生じた。資本家はもちろん、新聞の一部にも、労働組合の活動の「ゆきすぎ」を非難する声がではじめた。これに便乗して、早くも団結禁止法を復活しようというたくらみさえあらわれた。

 ジョンはただちにこういうたくらみに反対し、マンチェスターに全マンチェスター職人委員会を組織して議会への訴えを開始した。しかし議会はこういう訴えをとりあげようとはせず、一八二五年七月、団結禁止法廃止法の修正をおこなった。この修正は、団結禁止法の全面復活ではなく、労働者の団結権はひきつづき保障されてはいたが、しかしそれにいくつかの制限をつけたものだった。たとえばストライキのときに、暴力や脅迫行為をしてはいけないとか、就業しょうとするものを妨害してはいけない(ピケ禁止)とか、団結の目的は賃金と労働時間の問題に限定すべきであるとか、そういう制限がいくつかつけられた。それは、一八二四年法にくらべるとあきらかに後退だった。ジョンは一八二五年法成立のしらせをきいて、ある国会議員にあててつぎのように書きおくった。

 「暴力の問題について労働者のあいだに考え方の違いがあるのは事実です。しかし労働者は自分たちのなかで、やがてはもっとも有利で合理的な行動の路線をみつけてゆくでしょう。しかし法律の力でこれを押えつけようとすると、われわれの団結はいっそう大きくひろがり、資本家にとっても政府にとっても、ますます厄介なことになるにちがいありません。」
(浜林正夫著「労働者階級の誕生」学習の友社 p171-181)

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なぜ労働運動の発展の合法則性を問題にするのか

 これまで学んできたことからもあきらかなように、マルクスの「労働組合−その過去・現在・未来」は、労働組合運動の発展の歴史的傾向を定式化したものです。それは、科学的社会主義の労働組合論の「原点」ともいうべきものでしょう。この「原点」を念頭におきながら、わが国の科学的社会主義の理論陣営では、一九七〇年代以降、労働運動ないし労働組合運動の発展の合法則性という観点が重視されてきました。この観点が重要であることをはじめに提起されたのは故堀江正規さんです。堀江さんは、『講座・労働組合運動の理論』でつぎのように書いています。

 「労働組合運動についての科学的認識に到達するためには、(そして、そうすることによってのみ、運動の『終局目標』にむかう発展に役だつような、理論的な結論が生まれる)その発展の全過程を、唯物弁証法的世界観のすべての前提に結びつけ、またとくに、マルクス経済学や階級闘争の戦術にかんする理論の助けをかりて観察する必要がある……われわれがそれをやらないでいると、実証主義や修正主義がその場所をふさいでしまう結果になる」。

 堀江さんの問題意識は、すでに労働組合運動は二百数十年をこえる歴史をもつが、それは偶然的に成長したり衰退したり、また発展してきたわけではないということです。労働組合運動にも独自の発展の法則性があるのであって、この点に十分に着目することが、理論のうえでも実践のうえでもきわめて重要である。さもなければ、ゆきあたりばったりの「実証主義」や、運動の「終局目標」への道すじからはずれた「修正主義」におちいってしまうだろうというわけです。

 労働組合運動も社会の一構成部分ですから、社会の成長および発展の基本法則によって規制されます。労働組合運動は資本主義制度とともに成長し発展してきました。だから、労働組合運動は社会発展の法則や、資本主義の経済的諸法則、階級闘争の法則によって規制されることになります。そこで堀江さんによれば、労働組合運動にかんする科学的認識を得るには、労働組合運動の合法則的な発展方向を確定するには、唯物弁証法的世界観をもとに、マルクス主義経済学や階級闘争の理論に依拠する必要があるというわけです。

労働運動の発展の合法則性とはなにか

 ところで、ここでの問題の焦点は、唯物弁証法的世界観、マルクス主義経済学、階級闘争の理論を基礎に、資本主義的生産の展開と労働運動ないし労働組合運動の発展過程との相互関連をどのように把握するかということです。この点について、科学的社会主義の古典に依拠しながら、「労働運動の発展の合法則性」として私なりにかつて整理したのは、要約すればつぎのようなことでした。

 「科学的社会主義の見地にたつと、労働運動の合法則的発展の基底的条件(土台)は、なによりも資本主義的生産の発展過程そのものである。資本主義的生産の発展、資本の蓄積過程は、生産と労働の社会化とともに労働者階級の『数』をたえず増大させ、また、社会的貧困を蓄積することによって、労働者間の不断の競争をぬって、その組織的結集の契機と条件をも発展させずにはおかない。

 だが、もちろん、社会の上部構造である労働運動の発展は、これらの諸条件を土台としながらも、資本家階級の系統的、組織的な『あらゆる反労働者的な術策や奸策』として、『暴行、迫害、禁止、弾圧』など、『農奴制的中世的な方法』や、『労働者を離間すること、彼らの陣列を乱すること、ブルジョアジー側にひきつける目的でプロレタリアートの個々の代表または個々のグループを買収すること』など、『民主主義体制に照応する、純ブルジョア的な、現代的な方法』による妨害に遭遇せざるをえない(レーニン)。かくて、労働組合運動は、資本家と労働者との、資本家階級と労働者階級との、労働運動内の日和見主義的潮流との、激烈な闘争をつうじてしか発展しえない。

 労働運動の発展の合法則性は、漸進的な自然成長的な発展としてではなく、敗北と勝利、停滞と飛躍をともないながら、いわゆる『人類史の弁証法』、階級闘争の弁証法をつうじて貫徹する。労働運動の発展にかんする、すなわち、労働者階級の変革主体としての自己形成にかんする、かかる合法則性は、基本的に今日においても確認されうる、というのが私の基本的立場である」。

 この「労働運動の発展の合法則性」という観点は、今日では勤労者通信大学の『労働組合コース教科書』にもとりいれられ、重視されてきています。そこで、私なりに定式化したこの「労働運動の発展の合法則性」にかんする文章について、重要ないくつかの論点にいささかの解説をくわえ、マルクスの「労働組合−その過去・現在・未来」の学習に、いちおうのしめくくりをつけることにします。

労働運動の合法則的発展を規定する基底的条件(「土台」)

 「労働運動の発展の合法則性」にかんする第一のポイントは、「労働運動の合法則的発展の基底的条件は、なによりも資本主義生産の発展過程そのものである」、ということです。なぜ、資本主義生産の発展過程そのものが、労働運動の発展の「土台」となりうるのでしょうか。

 @それはまず、資本主義生産の発展、資本の蓄積過程は(剰余価値=利潤の資本への転化による資本規模の拡大にともなって、資本主義生産もその規模を拡大し発展します)、「人間的搾取材料」として資本主義的生産関係にくみこまれる労働者階級の「数の多数」をますます増大させることです。しかも、「技術革新」をともなう資本蓄積の過程は、剰余価値生産の方法=搾取強化の方法をもたえず発展させ、その社会的結果として、生産の基本的な担い手である労働者階級のうえに、さまざまのかたちで「貧困、圧迫、隷属、堕落、搾取の増大」をも生み出さずにはおきません。そして、この「数の多数」とあわせてすすむ貧困の蓄積、すなわち「労働者階級の状態」こそ、エンゲルスも強調したように「現代のあらゆる社会運動の実際の土台であり、出発点である」というべきでしょう。

 Aだが、労働者階級の歴史的発展を規定する条件=土台は、たんに労働者階級の数が増大することや、社会的貧困が蓄積されるということだけではありません。いまひとつ重要なことは、資本主義的大工場の発展が、「生産と労働の社会化」を基礎としてますます増大する労働者階級をして、社会的貧困化に抗議し、集積された資本の社会的力にたいして組織的に結集する素質と条件を、あたえずにはおかないということです。

 周知のようにマルクスは、この増大する労働者階級の「組織的に結集する素質と条件」の成熟にかかわって、『共産党宣言』のなかで、「ブルジョアジーはなによりも自分自身の墓掘人をつくりだす」と含蓄の深い結論を引き出しています。この結論に依拠しながら、レーニンは、これまでもしばしば紹介してきた「ロシア社会民主党綱領草案と解説」(一八九五・九六年)において、増大する労働者が団結して資本と闘争する可能性をもつようになる「諸条件」として、つぎの三つのことを重視しています。

 第一に、生産手段を所有しない無産の労働者は労働力を商品として売る以外に生活の手段をもたないこと。第二に、大工場は共同の労働によって労働者を統合していること。第三に、工場間の労働者の移動は条件の比較対照を可能とし、さらに搾取の同一を納得させ連帯性を強めることです。なお、これらを総括して「綱領草案と解説」では、「まさにこれらの諸条件をあわせたものの結果として、大工場の出現が労働者の団結をよびおこしたのである」と書かれています。

 資本主義生産の発展は、このように労働者階級の「数の多数」を生み出し、彼らを貧困におとしいれ、さらに彼らの組織的結集の素質と条件をも発展させずにはおきません。それこそ、労働運動の「土台」であり、労働運動を動かすいわゆる「深部の力」というべきでしょう。

 日本は一八六八年、明治維新をへて資本主義の道を歩み始め、一九〇〇年代初頭の産業革命による近代的工場制度の成立、一九一八年、第一次大戦終結と独占資本主義の確立、一九四五年、第二次大戦の終了を経て、今日では一三〇余年──、この資本主義の発達史をつうじて、いかに労働者階級の数が「増大」し、「社会的力」をたくわえ、抑圧と貧困化を土台に、団結と運動を発展させてきたか。
(戸木田嘉久著「労働組合運動の原点」学習の友社 p119-125)

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 第四篇で相対的剰余価値の生産を分析したさいに見たように、資本主義制度の内部では、

労働の社会的生産力を高めるいっさいの方法は、個々の労働者の犠牲として行なわれるのであり、

生産を発展させるいっさいの手段は、生産者の支配と搾取との手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属物へとおとしめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自立的力能として労働過程に合体される程度に応じて、労働過程の精神的力能を労働者に疎遠なものにするのであり、

またこれらの方法・手段は、彼の労働条件をねじゆがめ、労働過程中ではきわめて卑劣で憎むべき専制支配のもとに彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間に転化させ、彼の妻子を資本のジャガノートの車輪のもとに投げ入れる。

しかし、剰余価値の生産のいっさいの方法は、同時に蓄積の方法であり、その逆に、蓄積のどの拡大も、右の方法の発展の手段となる。

それゆえ資本が蓄積されるのにつれて、労働者の報酬がどうであろうと──高かろうと低かろうと──労働者の状態は悪化せざるをえないということになる。

最後に、相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の範囲と活力とに絶えず均衡させる法則は、ヘファイストスの楔(くさび)がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛りつける。

この法則は、資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。

したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。
(マルクス『資本論C』新日本新書 p1108)

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◎「労働組合運動にかんする科学的認識を得るには、労働組合運動の合法則的な発展方向を確定するには、唯物弁証法的世界観をもとに、マルクス主義経済学や階級闘争の理論に依拠する必要がある」と。