学習通信090220
◎歴史のふるいに十分たえうるリアリティー……
 一九三二年二月二〇日 小林多喜二虐殺される

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反戦反帝の国際連帯のだたかい

一九三一年九月一八日夜、日本の関東軍は、奉天北郊の柳条溝で鉄道をじぶんの手で爆破し、これを中国のしわざだといつわって、とうとう「溝州」(中国東北部)侵略の軍事行動をおこしました。

 一九三二年三月には、カイライ国家「溝州国」をつくって、これを中国とソ連への侵略基地にしたてました。そして一九三七年七月七日には、蘆溝橋事件を理由に、ついに中国との全面戦争に突入、一九四一年一二月八日には真珠湾攻撃によってアメリカに宣戦、それから一九四五年八月一五日の敗戦・降伏まで、じつに足かけ一五年間のながい戦争に人民をなげこんだのです。

 日本人民は労働者階級を中心にして、三・一五事件、四・一六事件によって大きな打撃をうけたにもかかわらず、不屈のたたかいをつづけました。

 さきにのべた対支非干渉同盟の活動は、反戦同盟をへて、日本反帝同盟(一九二七年に片山潜、宋慶齢、ロマンーロランらによって創立された「世界反帝国主義・民族独立支持同盟」の日本支部として、一九二九年一一月七日結成される)にうけつがれ、反帝同盟は、「帝国主義戦争反対」「中国革命の擁護」「朝鮮、台湾の完全な独立」「在日朝鮮人、台湾人の差別反対、生活と権利の擁護」などの要求をかかげて、日・中・朝三国人民の連帯行動と反帝統一戦線のためにたたかいました。

 そして、一九三三年には、国際反戦委員会(一九三二年八月のアムステルダム反戦大会で事務局を常設)のよびかけで、上海で反戦会議がひらかれることになったので、日木共産党をはじめ日本反帝同盟加盟の祖織は、その支持委員会を工場、農村、学校、地域につくって、反帝反戦の活動を全力をあげてくりひろげました。

 秋田雨雀、江口渙、佐々木孝人、加藤勘十、金子洋文らの進歩的民主主義者や左翼社会民主主義者らも「極東平和友の会」をつくって、これに協力しました。

 一九三二年二月二〇日、輝かしいプロレタリア作家であり、共産党員であった小林多喜二がとらえられて、築地警察署で残虐な拷間によっで殺されたのも、かれが文化団体選出の反帝同盟執行委員として、上海反戦会議のために活働していたときでした。同年九月三日、東京の本所公会堂でひらかれる予走の「日本反戦大会」も、発起人であった布施辰治らがことごとく事前に検挙され、会場を警官によって占拠されたため、開くことができませんでした。

しかし、上海反戦会議は九月末日に、国民党と各国帝国主義者の弾圧下に、秘密のうちに上海でひらかれ、イギリス労働党のジャン・マレー卿をはじめ、フランス、ベルギー、ポーランド、アメリカ、宋慶齢末人を中心とする中国代表らか参加しました。これは、戦後一九五二年に北京でひらかれた「アジア太平洋地域平和会議」の前史をなすものとして、大きな意義をもつものでした。

 これら国内の反戦反帝運動と呼応しで、ドイツでは国崎走洞らが「革命的アジア人協会」をつくって反戦運動をおこなっていました。

 しかし、この間、共産党のなかからも、佐野学、鍋山貞親、三田村四郎らが、天皇制権力のまえに屈服して、獄中で「転向」して、労働者階級をうらぎりました。そして、一九三四年の初めごろには、共産党をはじめ全協その他の戦闘的大衆組織も、ほとんど活動できないまでに破壊されてしまったのです。野呂栄太郎(一一月逮捕、拷問のため・翌三四年二月死亡)についで、一九三三年暮、支配階級が共産党指導部にもぐりこませたスパイを摘発して捕えられた宮本顕治は、特高警察の拷問とでっちあげに抗して、さいごまで節をまげず、真実を守って敢然とたたかいぬきました。

 なお、この間、日本の労働運動のもっとも古い、すぐれた先覚者として偉大な足跡をのこし、天皇制政府のために海外に亡命をよぎなくされたのちも日本共産党の創設に指導的な役割をはたし、世界、とくにアジアの反帝反戦闘争のために東奔西走して、生涯を世界革命のためにささげた片山潜が、死の瞬間にいたるまで、思いを祖国の労働者と人民のうえにはせながら、一九三三年一一月五日モスクワで死去したことも忘れることはできません。

東京地下鉄の「もぐら争議」

 労働者は、さきにのべた反戦反帝の不屈のたたかいと同時に、戦争の拡大とともにひどくなる一方の労働条外の切下げや権利のはくだつに抗して、きびしいたたかいをつづけました。一九三二年三月の東京地下鉄の仲間たちの「もぐら争議」は、その代表的なものでした。

 一九三〇年ごろから全協のオルグが東京地下鉄の工作にとりくみ、うどん会、同期生会、ピクニック、学習、映画や文芸サークルなど、いろいろな自主的なサークルをつくる活動をねばりづよくつづけて、ようやく二〇名たらずの全協地下鉄分会かできたのは、一九三一年一一月ごろでした。

分会員たちは、分会機関紙や職場新聞をつくり、あらゆる方法で、職場の要求、不満、できごとを知らせあうなかで、ついに、勤務時間を七時間にしろ、女子の給料を一円五〇銭に、詰所を地上に、駅に便所をつくれ、現場手当一五円、現金出納係手当三円をつけろ、生理休暇をあたえろ、入営、演習のときは休職にして除隊後は元給で復職させろ、出征中の給料は全額支給しろ、など二五項目の要求をまとめてストライキを準備しました。

交渉委員をはじめ、すべて民主的にえらばれ、全員の部署、任務もみんなできめ、争議戦術をはなしあいました。その結果、一九三二年三月一九日の夜半、終電車四台を上野の地下鉄の入口にとめ、最前部には鉄条網をはりめぐらして、「さわると死ぬ」と貼りだし、三週間分の食事や日用品をはこびこんで、全員一五八名が車内にたてこもりました。一〇代から二〇
代のわかい労働者、とりわけ婦人労働者が中心でした。

 こうして、二〇日始発からストライキにはいり、「闘争日報」や「家族への手紙」がガリ刷りで発行され、また外部とは、激励のモナカのなかに、銀紙でつつんだレポートをいれたりして連絡がとられました。このストライキを知って、東武、西武、小田急でも出征兵士にたいする要求がだされはじめたので、これをおそれた陸軍省の圧力もあって、四日目になって、会社は「出征兵士は欠勤とし、軍隊支給との差額を支給する」「入営兵士は除隊後ただちに原職に復帰させる」「女子の賃上げ、山札手当、神田、浅草に便所をつくる」などをみとめました。しかし、官憲は卑怯にも争議がおわると。

 「赤色分子」の名で、先頭にたってたたかった共産党員や活動分子をとらえて投獄しました。

 この「もぐら争議」は、もし、労働者の切実な諸要求を土台にして、一人ひとりの自覚と創意にもとづいて、周到な準備がされるならば、どんな困難な条件のもとでもストライキは勝利しうることをおしえています。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p81-84)

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 パン屋って言えば、水産学校の生徒さんたちのことも忘れられんね。昼休みだの、休み時間になると、若竹町の坂ば、生徒たちがわらわら一目散に店に飛びこんで来るの。
「腹空いた、腹空いた」
 って。勝手に箱に銭こば投げ入れてね。みんないがくり頭でね、どの顔みてもめんこくて、赤の他人と思えなくてね、ボタンが取れていればボタソばつけてやったり、あんまり頭の毛が伸びていれば、バリカン持ち出して刈ってやったりしたもんだ。みんな、「小母さん」「小母さん」つてなついてね。客が混んでくると手助けしてくれる生徒さんもいた。こんまい店では、こんまい店の楽しさがあるっつうことね。

 でも、しょっちゅう混むわけじゃない。客が切れる時は、店の見える茶の間で、裁縫なんぞしたり、炊事仕事をしたりして、店番ばした。夕食のあとは、これまた大変だった。

 一応客の少なくなる時間だから、子供らがわだしに、聞かせたい話があって、さあ大変なの。多喜二も幸もチマも、みんな一斉に口を聞くの。一人が、
 「今日、学校の先生は、廊下でげってころんだの」
 などと話し出せば、他の者が、
 「おれは、自分の顔を絵に描いて、うまいうまいとほめられて、黒板に貼られた」
 だの、
 「わたしは読本を読むのがうまいから、今度学芸会に出してやるって、先生に言われた」
 だの、とにかく友だちと遊んだことから、町で見た犬の喧嘩の果てまで、わだしに聞かせるわけ。

  一人の話か長くなると、
 「あんね、母さん。母さんつたら」
 と、ほかの者か口を出す。するとまたほかの者が、
 「おれのほうが先だぞ、ね、母さん」
 と割って入る。お互いに語ったり、笑ったり、その賑やかなこと。そうなるともう店に来た客に気づかず、わだしもまた、「うん、うん」とその話を聞くわけ。

 たまりかねた客が、店と茶の間の障子ば開けて、怒ることもある。時にはなんぼ叫んでも出て行かないので、餅だのパンだの失敬して行く客もいて、気がついた子供だちか、
 「母さん、パン盗られた」
 「母さん、餅も盗られた」
 と言う。で、わだしが言うの。
 「盗んだじゃないべ。なんぼか腹空かしてたんだべ」
 そう言うとね、子供たちも、
 「そうだなあ、そうかも知れんな。大声で喋ってて悪かったなあ」
 と、みんな素直に反省するの。

 でも次の日またお喋りするわけ。あの頃は楽しかったねえ。あのお喋りは、近所でも有名になった。中でも一番ふざけん坊の多喜二、が、あんな死に方をするとも知らんでね、わだしは、この子供らが、ぞっくり大きくなったら、今月はチマの家、今月は三吾の家、今月は多喜二の家と、布団の皮を剥いで、洗い張りしてやったり、打ち直して綿を入れてやったりしてやるベーつて、夢みてたの。

 ねえ、あんたさん、わだしの願いは、欲張りな夢だったべか、無理な夢だったべか。そんなつもりはなかったども、あんな小っちゃな夢でも叶えられんかった。

 ところで、多喜二って子はね、わだしから言えば、威張ってるみたいだども、ほんとに心根の優しい子だった。学校で、「自分の夢」つていう題で綴り方ば書けって言われたことかあった。そん時、多喜二は何て書いたと思うかね。

 「うちの母さんの手は、いつもひびがきれて、痛そうです。着物も年がら年中、おんなじ着物を着ています。水産学校の校長先生の奥さんは、茶色の着物だの、紫色の着物だの、あずき色の着物だの、取りかえて着ています。そして町さ行く時、時々人力車に乗って行きます。ぼくは、ぼくの母さんにも、よい着物を着せて、小樽の町中、人力車に乗せてやりたいです。これがぼくの夢です」
 といったようなことを書いたのね。とにかく誰にでも、
 「母さんば人力車に乗せたい」

 「母さんば人力車に乗せてやりたい」
 って言うもんだから、これ有名な話になったったね。ああそう、あんたさんも誰かに聞かされたか。

 優しいって言えば、多喜二が小樽の拓銀に勤めて、初めての給料もらった時のことだけどね。弟の三吾に、中古のバイオリンを買って来たの。何でも給料の半分もしたって聞いたけどね……。

 ああ三吾かね。これまた優しい子で、こんまい時から唱歌だの、ハーモニカが好きだったの。でも、うちじゃあ、ハーモニカも買ってやれんかった。三吾はなあんもねだらんで、人からハーモニカば借りて、いきなり「空にさえずる鳥の声」の歌を吹いてね、みんなばぶったまげさせたことかあったの。

 兄の多喜二は、慶義あんつぁまのお陰で、商業学校にも、小樽高商にもやってもらえたんだども、三吾は小学校しか出んかった。はあ、三吾だって、商業学校さだって中学校さだって行ける頭だったども、何せ末松つぁんがパンやら餅を、飯場に背負って行くだけでも大変な体だったから、自分から行きたいとは言えんかったのね。わだしもやってやりたいとは思ったども、口に出したところで、うちのかまどが許さんかったから、黙っていた。

 昔は、長男と次男の扱いが、それだけちがったのね。慶義あんつぁまも、三吾のことまでは面倒みてやるとは言わんかった。

 だども、多喜二としては、おとなしく引っこんでいる三吾が、どんなにか愛しかったんだべ。ある時、三吾が、水産学校の先生が弾いているバイオリンの音を聞いた。あんまりきれいな音で、ぶったまげた。そして、弾いている人の手を、一生懸命見てたんだべな。あんまり一生懸命見ているんで、その先生が憐れに思ったんだべな。ちょつくらさわらせてやろうと、
 「ちょっと弾いてみるか」
 と貸してくれた。一緒にいた多喜二は、(バイオリンなんか持たされても、弾けるわけはない)そう思って見ていたんだって。
 ところが、何ちゅうことかね、「サクラ サクラ」を、一曲弾いてしまった。むろん、少しはつっかかったども、とにかく弾けた。そこでそこにいた者たち、がぶったまげて、大騒ぎになった。
 「天才だ」
 「凄い天才だ」
 という噂が、ばっとひろがった。

 末松つぉんがその話ば聞いて、何か思案していた。そしてある日古道具屋に行ってみた。中古なら安いべと思ったが、末松つぁんには高くて手が出んかった。そのことを、末松つぁんは、そっとわだしに聞かせてくれたの。わだしは何げなく多喜二に、
 「お父っつぁんは、バイオリン買いに、古道具屋に行ったんだと。だども高くて買えんかったんだと」
 って、言って聞かせた。多喜二はそん時、
 「ふーん」
 と言ったきりだったから、心にとめていたとは思えんかった。

 ところが多喜二は、初給料をもらったその日で、バイオリンをかついで帰って来た。
 みんな飛び上かって喜んで三吾はバイオリンを抱きしめて、頬ずりをして喜んだ。それば見て末松つぁんは、肉の落ちた肩をふるわせて泣いていたっけ。
 あん時のうれしかったこと。
 (ああ、生きていてよかった)
 わだしは、しみじみと思った。わだしらは貧乏かも知れん。亭主の体は弱いかも知れん。人から見れば、何の値もない一家かも知れん。しかし人間生きていれば、こんなうれしい目にも遇える。そんな喜びはそのあとにも何度もあった。むろん、それを打ち破るあの多喜二の辛い目にも遭ったども……。とにかく、毎日明るく楽しく暮らした家たった。

 そうそう、あんたさん、多喜二はバイオリンを買って来ただけではない。ある学校の音楽の先生に頼んで、三吾のバイオリンの先生になってくれるように、ちゃんと頼んで来てくれた。それを聞いた時うれしくてね。三吾が初めてバイオリンを習いに行く日は、わだしは赤飯を炊いて祝ってやった。だってさ、それは三吾の入学式の日だもんね。三吾が、ぴょこぴょこ踊るように、バイオリンかついで行く姿を、末松つぁんとわだしは、いつまでも見送っていたっけ。

 さあ、それからというもの、三吾は毎日毎日、熱心にバイオリンの稽古に励んだの。でもね、あんたさん、わだしらの家は、店のほかは、たったの二間だったもんね。三吾がバイオリンを弾く傍で、多喜二は本を読んだり、小説を書いたりしていた。バイオリンと小説書くのが同じ部屋では、小説書くほうはやりきれたもんでないべし。

 わだしはそう思ったどもね、多喜二はただの一回だって、「うるさい」なんて言わんかった。三吾がつっかかり、つっかかり、同じ所を弾いていても、多喜二は眉根も寄せない。多喜二はそんな優しい兄貴だった。多喜二って子は、どのきょうだいにも、荒々しい言葉は使わん子だった。何でも静かに言って聞かせる子たった。

 けどね、三吾がね、
 「母さん、おれ、たった一度だけあんちゃんに叱られた」
 と、わだしに言って聞かせたことがあった。それはね、三吾のバイオリンがかなり上手になった頃の話だけどね。いつものとおり、茶の間で三吾がバイオリンの練習をしていた。そこへ多喜二が外から帰って来た。その多喜二が、
 「三吾、そこのところ、そんな音色でいいのか?」
 って、聞き咎めたんだって、三吾は明るい子で、
 「あ、いいんだ、いいんだ。本番の時はちゃんといい音色を出すから」
 って答えたんだって。すると、怒ったことのない多喜二が顔色を変えて怒った。今まで聞いたこともない大声で、
 「三吾!練習で出せない音色が、どうして本番の時に出せる!? そんな態度なら、バイオリンをやめてしまえ!」
 って、怒鳴ったんだって。怒鳴られて三吾はふるえ上がった。そして、人が聞いていようがいまいが、バイオリンを手にしたなら、本当に真剣に弾かなければ、音楽に対して失礼なのだと、身に沁みて思ったっていうの。

 ああ、この三吾ですか? それがねえ、お陰さまで、東京交響楽団とかで、第一バイオリンを勤めるようになりました。いいお嫁さんをもらってね、今も東京に住んでいます。

 え? 多喜二もバイオリンを弾いたのかって? いやいや多喜二は弾かんかった。多喜二は小説を読むのと、書くのと、そしてそれに、絵を描くのが大好きだった。

 多喜二が死んでから、いろんな人が多喜二の描いた絵ば見て、
 「絵の道に進んでも、大家になれたね」
 って、感心してくれたっけ。それはそうと、三吾が言ってたことがある。
 「母さん、あんちゃんは、一体どこでバイオリンを聞き分ける耳になったもんだべ。ちょっといい音を出すと、『三吾、今日は調子がいいではないか』つてほめてくれた。もし、あんちゃんがバイオリンを習ったら、おれよりも、なんぼかうまくなったべな」
 ってね。わだしの息子ながら、多喜二は何やってもうまかったのね。
(三浦綾子「母」角川文庫 p52-61)

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 きょうは、私は小林多喜二と、かれと一緒にたたかって、若くしてたおれた人たちについて話したいと思います。多喜二については、たびたびの記念日でさまざまな側面から語られております。しかし、いま土井大助さんの詩もいったように、まだ語りつくされてはおりません。それは、日本の歴史がすすみ、日本の革命運動が発展すれば、その新しい角度から、いろんな研究が進むからであります。同時に私は、小林多喜二の活動した時代に、小林や私たちと一緒にたたかった人びとのなかで、二十歳前後の若い時期に、非常に苦しい条件下でたたかい、たおれた人たちについてふれたいと思います。

 小林の生涯は、知られているように革命作家として、また党員文学者として生きぬき、たたかいぬき、そして敵権力の拷問に殺された不屈の生涯でした。かれの生涯は、長いものではありませんでしたが、かれの生涯と、かれが残した作品とは、今日、日本共産党が五十周年の記念を迎えた時点でみますと、いっそう新しい光をはなっております。

 きょう私が話したいと思うのは、この小林のこととともに、その時期の、若い革命的詩人であった今野大力、今村恒夫、また当時、演劇運動で働いて、やがてソ連で死んだ杉本良吉、こういう人たちについてであります。

 ちょうど一九三二年の春、文化運動にたいする弾圧がありました。そのとき約五十人の活動家──その多くは日本共産党員でありました──が逮捕され起訴されました。また、四百人ぐらいの人びとが逮捕されて、警察署につかまっていた。手塚英孝の研究によれば、これら四百人の留置された日数をあわせますと約三十年ぐらいになるというくらいの長期拘留で
した。私自身も、一九三二年の春、日本共産党員であるらしいということが特高警察につかまれて、地下活動にはいりました。その時地下活動にはいった人たちは、小林多喜二、さきほど多喜二・百合子賞を受けた作家としてここで挨拶いたしました手塚英孝、杉本良吉、詩人の今村恒夫、その他、今日では党を裏切りました西沢隆二たちでした。

 小林の地下活動のなかで、有名なかれの作品「党生活者」が書かれました。この「党生活者」は、小林がなくなってから初めて発表されたものであります。そして、戦後初めて、完全な形で発表されました。

 このなかに描かれておりますのは、ある軍需工場の臨時工にたいする首切りに反対する闘争を、日本共産党の細胞、今日の党支部が指導する。その主人公は、「私」という名前で出てくる、佐々木安治という名前の人物であります。この時期は、中国にたいする日本の侵略戦争が始まって、日本の軍国主義がますます凶暴にふるまう、階級的な労働組合運動の合法性がない、いわんや日本共産党は、日本共産党員ということがわかれば長期に投獄され、その指導者は死刑・無期というような状況でした。このときの工場の情勢を描く小林多喜二の筆つきというものは、全体として時代にたいして、けっして消極的、悲観的でない。しかし同時にあまい見方もしていない。

 この作品は、いくつかの点で戦後の文学界で非常な論争の対象になったものであります。そのなかには笠原という、佐々木と一緒に住んでいる婦人にたいする作者の描き方、態度の問題がしばしば論じられてきました。その描き方が正しくない、目的のために手段を選ばないような描き方だ、という全面否定の批判が、一部の人からありました。

 私は一昨日、この作品を久しぶりに読みかえしてみましたが、全体としていまでも、あきないで生きいきと読み続けられる、そういう生命をこの作品はもっております。

 一部の人は、この作品は、地下生活をしている主人公、佐々木の姿はよく描かれている、その母親の姿もよく描かれている──このお母さんについては、さきほど山本学さんが朗読しましたように非常に感動的な描写がいろいろあります──しかし、工場の描写、これはだめだ、こういうことをいう人がいます。

たとえば、日本共産党を裏切って党から除名された小田切秀雄、かれは、最近では日本共産党から出ることが非転向なんだ、日本共産党にとどまることは「転向」なんだ、屈服なんだ、こういうことを書くところまでいっております。かれは、その前は、あのトロツキストを擁護して、そのなかで、ヘルメットとゲバ棒で大学を変えようとしている学生、かれらの闘争は、なかば成功している、そして、堕落した革新政党に代わって、これは現代の明るい希望だと、こういうことを書いておりました。その後は、すこしほめ方を変えてきまして、かれらは必ずしも、まだうまい方法を発見していない。こういうふうに変わりましたが、かれは「党生活者」をどういうふうに批判しているか。それは、いま申しましたように、主人公と母親は描かれているが、ほかは完全な「観念的な設定」だ、形象性がないというわけであります。

 もちろんわれわれは「党生活者」をけっして弱点のない作品だとはいいません。さっきいいましたような、笠原という婦人の描き方ですが、彼女は、共産党員として地下活動にはいっているわけではありません。普通に勤めている婦人です。勤めているけれども、地下活動中の主人公といっしょに暮らしている。そして、そのなかで、いろいろ悩み、また苦しみながらともに生活し、そして、おしまいには勤め先をクビになって喫茶店に勤めながら生活費をかせぐ。こういう婦人であります。その笠原と佐々木の関係の描き方には、たしかによくわからぬ点が残るという弱点があります。

また作品に書かれた範囲でも描き方に不足がありすぎて、二人の結びつきの過程をふくめて、二人の状態がよく描写されていないことが、未完に終わったこととあいまって、この作品についての解釈の余地を大きくしていますが、それは地下生活そのものを防衛するために、作者小林を追及している警察に現実的なヒントを与えまいとする心理が、フィクションを意図したとしても小林の描写力をにぶらす一つの要素となったということもあったかも知れません。

 従来、この作品をおもに主人公と笠原の愛情の問題という角度からだけ論じる傾向がありました。戦後、一部の人びとから笠原という婦人のあつかい方が、きわめて非人間的で、目的のために手段をえらばない、人間軽視であるなどという攻撃がなされ、これにたいしていろんな論争があって、多くの「党生活者」論が書かれました。笠原の描き方の欠点をとらえて、そのように断定することに私も反対してきました。私は以前に「『党生活者』の中から」その他で書き、それは私の論文集にのっておりますから、同じことをくりかえしません。蔵原惟人君も書いております。

 また、工場そのものの状態をどういうふうに描いているかという点でも、けっしてたんなる「観念的な設定」ではない。「党生活者」によると、この工場は、いまで申しますと朝八時から夜九時まで働いて、当時のお金で一円八銭にしかならない。こういうひどい、十三時間労働の中の超低賃金であります。いまは貨幣価値は変わっておりますが、それにしても。この作品を読みますと、「夜の六時から九時までは一時間八銭で、しかも晩飯を食う二十分から三十分までの時間を、会社は夜業の賃金から二銭或いは三銭(わざわざ計算をして)差引いてさえいた」、そういう状況が描かれています。そして労働者が毎日帰るときには、賃金の支払いに会社は「端数の八銭を、五銭一枚に一銭銅貨を三枚ずつつけて払った」。その銅貨を数えて渡すのにたいへんな手間がかかり、労働者は仕事が終わってからも一時間も待たなければならなかった。

 そういうふうな、当時の軍需工場の現実をつかんだ作者だけが描ける、奴隷的な状況が生きいきと読者に伝わってくる。

 佐々木の像が生きいきと描かれているというのは、けっしてただその心境──まったく個人生活がなくなって、水にもぐっているようなという心象だけでなく、外界との関係について、佐々木と軍需工場のなかでの日本共産党員である仲問たちの大衆のあいだでの活動との関係を当然ふくむものです。どういうふうにして、戦時下の政治的無権利状態での軍需工場のなかで、首切り反対闘争をすすめ、また当時の侵略戦争に反対する闘争がすすめられているか、佐々木や細胞員たちの大衆活動の労苦、その前進と挫折──こういう状況は、全体としてやはり今日でも私たちをあかず読ませる描写力をもっています。だから、この作品が書かれて四十年以上たっているのに、私たちは全体として非常に興味深く読むことができる。それはやはり小林の描写の力が、全体として現実性をもっているからです。

 もちろん、細胞の仲間の人物の描き方に、まだ個性的に非常に深く、像として彫られているとはいえない点はありますが、しかし、それらの部分はけっしてたんなるつくりものというのではありません。かれ自身、こういう作品を書くのを、ただ机の上の調査で書いたんでなくして、地下活動にはいる前に、かれは藤倉電線という毒ガスよけのマスクをつくっていた軍需工場に行って、直接、そこの労働者と、いろいろ話し合っている。かれはそのころまだ、二十八歳でありましたが、そこの、若い男女労働者の諸君は、多喜二のことを「おじさん」「おじさん」と読んで、おじさん、あたいたちのことを小説に書いておくれと、いっていたんですね。小林は、君たちが、うんと立派な闘争をすれば立派に書けるが、そうでなけりや書けないからがんばれと、こういうふうにいったそうであります。

 作品のなかではこの工場の名前が倉田工業となって出てまいりますが、全体としてそれまでの日本の、文学運動になかった侵略戦争下での軍需工場の労働者の状態と、それを指導する党細胞、佐々木をはじめとする党活動家、そういう革命闘争の新しい現実と人物を描いているわけであります。

 しかし、ここで私がとくに指摘したいのは、さっきのべた小田切の議論についてです。小田切はこういういい方をするわけです。この作品における工場の描写はたんなる「観念の設定」で、失敗していると。そういう前提から、それが、かれは作家の目で現実を見ないで、自分が従わなければならない「政党の見地に」「制約」されて見たから書けなかった、「誤算をふくんだ政党の目で作者が強引に現実を割り切ろう」としたから、表現の「空疎な抽象性」にとどまるしかなかったんだというのです。当時、日本共産党はコミンテルンの支部でありましたが、そのコミンテルンが「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」という方針、いわゆる三二年テーゼというものを出しましたが、小田切は念入りにも、当時の日本共産党の指導部は、三二年テーゼを具体化する能力がなかった、したがってその党の一人である小林も、それに制約されて書けなかったといいます。

 しかし私はこの点で逆なことがいえると思います。もちろん三二年テーゼは全体としては、日本の絶対主義的天皇制の緻密な分析と地主的土地所有制度、独占資本主義等についての全体的考察の上に、日本革命の性格を、「社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命」であるという、戦略的展望の広範な理論的な基礎づけをおこなっています。こういう正しい側面が三二年テーゼのもつ主要な面でありますが、同時に、欠陥もありました。その欠陥の一つは、当時日本の情勢について革命的情勢が切迫している、日本では近いうちに「偉大なる革命的諸事件がおこりうる」だろう。こういう見通しもふくまれていたわけでありますが、今日となってみればこれは一面的主観主義的な評価であったことは否定できません。ほかにも弱点はありましたが、それはただ、その文章だけがもった欠陥というだけでなく、当時のコミンテルンが革命運動の全般的情勢にたいして、主観主義的な、過大な評価をやり、日本の運動にしてもやったわけであります。

 ところが、小林が描いた「党生活者」のなかの、倉田工業の闘争はどうかと申しますと、そのなかには結局は当時の侵略戦争にたいしてはっきりした態度をとらない社会民主主義者の動きであるとか、あるいは会社の直接の手先が労働者にばけて、労働者の中で革命的分子をさぐり出し、労働者の闘争を妨害するとか、いろんなことがあって、そのなかで首切り反対闘争は、盛りあがりの機運はあったけれども、結局は挫折してしまう。臨時工のかなりが首切られる。こういう状況になるわけであります。

けっして工場の情勢は、革命的情勢が切迫しているというふうな描きかたではなくて、全体として現実的にさまざまの困難が意識的に描かれている。戦争がおこったなかで、当時の支配階級が、この戦争は労働者階級にも役に立つ戦争だ、こういうデマゴギーが労働者の中にどんどんはいっているとか、十何時間労働といういろいろ苦しい労働条件、そういうなかで、労働者はほとんどお互いに話し合うような、十分な時間もとれない。そういうなかで共産党が活動する、非常に困難な情勢を書いております。

 だからもし小林が、本当に現実をリアルに見る、こういう作家でなくて、小田切のいうように、コミンテルンの日本についての文書は全能なものだった、革命的情勢が来るといっているのだから来るにちがいない、ということで、その工場の情勢を主観的に、そしてそこだけバラ色の描きかたをしたとするならば、小林は批判されなければなりません。しかし反対に、この文書が誤って主観主義的に過大な分折をしている情勢について、小林は作家の目を通じて、そういう誤りに影響されないで、むしろ、より現実的にとらえているのであります。これは、すぐれた作家というものは、かれのリアルな目をもって情勢を生きいきと描こうとすれば、真実に近づかざるをえない、その特殊な力をもっているということの証明であります。

そしてしかも、あの戦争の状況のなかで、侵略戦争反対、こういう正しい立場からの闘争、これを描きえたということは、かれの属する日本共産党が、コミンテルンの指導や三二年テーゼのもっとも正しい側面に断固として立ち、当時、他のどの政党もかかげえなかった侵略戦争反対の旗を、敢然とかかげていた、ただ一つの党であったからであります。小林の作品には、天皇制の問題は直接出てきておりません。それは、発表を予想したものでありますから、とうてい天皇批判は文章には書けなかった。しかし、天皇制下の侵略戦争、軍需工場の悲惨さ、ひどい奴隷的な状況ということについては、全体としては鋭い糾弾の目をもって的確にこれを描いた。

しかも、こういう戦時下の労働者への専制支配と苦汗労働の状況や困難な闘争を描きつつも、作者の姿勢は歴史を変革する階級の前衛としての不屈の闘志と未来への確信につらぬかれていました。

 それは、かれが日本共産党員だから描写をさまたげられたのではなくて、逆に日本共産党員であったから、戦争にたいする基本的に正しい見方、労働者階級の未来への確信というものを身につけていたから、これを正確に描くことができたのであります。だから、小林が自分の属する日本共産党の政策に制約されて、コミンテルンの指示の立場を生かせないために、あの軍需工場の状況が書けなかったんだという式の小田切の見方は、二重の重大な時代錯誤に立っているのであり、その根底には、コミンテルンを聖化して、これとの対比で日本共産党を悪罵しようとする卑しい性根が、つよく動いています。

 今日、「党生活者」が書かれて四十年以上たっているのに、なお、日本の近代文学の中の不朽の作品の一つとして、生命をもちつづけているということは、全体としてこの作品が歴史のふるいに十分たえうるリアリティーをもっているからであります。

 そしてこれは今日から見ましても、あの侵略戦争にたいする当時の労働者階級の前衛としての鋭い告発の文学です。そしてあの時代に、こういう作品を書く革命作家がおり、そういう作家が属した党が日本共産党であったということは、日本共産党にとっての一つの名誉であるだけではなく、日本歴史のなかでの、一つの名誉であると私は考えるのであります。

 今日、この侵略戦争の性格は明確でありますが、それでも日本の現在の首相は、これが侵略戦争であったかどうかということをまだはっきり言うことさえできません。かれの本音は、そうでないといいたいのです。わが党の不破書記局長が、今度の国会で、この点でするどい追及をやりました。この帝国主義侵略戦争の責任者である専制的な天皇制政府は、一九四五年のポツダム宣一言によって侵略戦争であることを認めて降伏したわけでありますが、田中首相はその文書さえ、はっきりと認めようとせず、当時力がたりなかったから、ポツダム宣言は修正できなかったんだ、こういうことさえいっております。

小林多喜二がこの作品を書いた時期から、多くの歳月がたっているのに、あの侵略戦争を日本の支配階級かやったということさえ、日本の政治ではまだ確認されていない、ということは、日本政治のもつ、支配者のもつ反動性というものがいかに根深いかということを、あらためて証明しているものであります。人民の立場からみれば、非常に明瞭な専制支配と侵略戦争の犯罪性をおそれるところなく指摘した小林の文学は、四十年たってなお現在の支配階級にたいしても鋭い告発の文学となりえているのであります。かれは、軍事的警察的天皇制の野蛮な警察官僚に拷問されて、文字通り殺されました。この事実自体が、当時の絶対主義的天皇制の暗黒支配の野蛮さがどの程度のものであったかを、この革命作家の偉大な犠牲的な最期という歴史的な記録によって、永遠に告発しているのです。

 しかし、かれの雄々しいたたかいというものは、かれの作品の世界を通して後世の人びとの心に生きつづけているだけではありません。かれは凶暴な拷問に屈しないで、一言も組織の秘密をもらさないで、たたかいぬいた。共産党員としては当然でありますが、しかしこの毅然とした頑強な精神は、その後少なからぬ共産党員が、警察や獄中でがんばり、拷問や長期の虐待のなかでも党の旗と組織を守り、革命家──共産主義者としての信念を守る場合、非常に大きな力になりました。これも日本の革命運動のけっして忘れてならない革命的伝統の一つであります。

 かれが死んだときに、作家の志賀直哉、この人は小林が一度尋ねたことのある人でありますが、小林の死をきいて日記に「アンタンたる気持ち」になったが「不図(ふと)彼等の意図、ものになるべしといふ気する」と書きました。「ものになる」、つまり実現の可能性がある、こういったというんですね。

日本共産党員の文学者が、地下活動をやってつかまって拷問で殺された。これは当時の一般には、共産党の活動をやっているととんでもないことになる、こういう受けとり方をされたでしょう。現に少なからぬ作家、評論家が、日本共産党は小林を犬死にさせた、けしからん、こういう非難をあびせました。しかし志賀直哉は、そうではなくて、なるほど「アンタンたる気持ち」にはなったけれども、「不図彼等の意図、ものになるべし」とのべた。「意図」というのは、日本共産党がかかげた日本の社会を変革するという課題であります。死をもたらした拷問にもたえぬいた、それはどの性根をすえて小林多喜二という作家か、がんばりぬいた。そういう人間のめざした「意図」というもの、そういう課題というもの、これはけっしていいかげんなものでない。それをたたかいぬく、こういう信念、精神をもつ人間があるかぎり、それは実現するかもわからんのだということを、志賀直哉はふと考えたのであります。

この人はもちろん社会主義者ではありません。しかし、この人は日本の文壇の大家の一人であり、リアリスト──現実主義者であった。しかも、戦後のこの人のいろんな活動も証明しておりますように、一定の社会的関心と正義感を失わない作家でした。戦後のいろんな社会的混乱をリアルに描いた「灰色の月」、松川事件への関心などはその一つです。

 この文壇の大家が、小林の通夜に行くだけでも多くの人を逮捕したりする当時の天皇制支配の恐怖政治のもとで、おそれず小林多喜二の母、セキさんに心のこもった弔文をよせたということは、日本文学史のきわめて光彩ある一ページです。

 この小林がかかげた「意図」、理想というものは、日本の歴史でどうなっていったでしょうか。それは、消えることがなかっただけでなく、生きつづけ、さらに今日では歴史の動向として大きく発展しているのです。日本の田中首相は、いまだに天皇制政府のおこなった戦争が侵略戦争であったということをもみとめませんでしたが、しかし、これが不正義の戦争であったことはもはや世界史的な事実であります。それは今日、自民党の首脳がなんといおうと歴史の審判がとっくについた問題です。そして当時、侵略戦争反対をかかげた党は、日本では日本共産党しかなかったという点からみても、この戦争に反対し、たたかいぬいたために小林が殺されたということは、歴史のあゆみからみますと、小林がかかげたこの侵略戦争反対という「意図」は、立派に歴史の過程のなかでその正しさが証明されました。

 当時の日本共産党がかかげた、絶対主義的天皇制反対の「意図」はどうなったでしょうか。戦後、旧憲法のような絶対主義的天皇制は一応大きな打撃を受けました。今日の憲法でのいわゆる「象徴天皇制」はブルジョア君主制の一種であり、反動的な残存物として、主権在民とは矛盾しています。しかしそれにしても、当時、日本共産党がかかげた絶対主義的な天皇制、絶対無制限の権力をもって天皇が統治するといった政治制度というものは、維持できなくなりました。いまでは憲法で主権在民をいわざるをえない。

 反封建的な土地所有制によって地主がたくさん土地を持ち、農民が働いた収穫の半分は地主におさめるという制度も、基本的には崩壊しました。「彼等の意図」つまり当時の日本共産党がかかげていた展望や方針、そのなかには、八時間労働制や労働組合活動の自由の問題もあります。小林の文学に描かれているように当時は十三時間労働制、労働組合もほとんどつくれない状態のなかでしたが、今日では、労働組合活動の自由、八時間の労働制が当然たてまえとなっています。それらの侵害に反対し、もっともっと時間を短縮せよという闘争がおこなわれています。そういうふうに、当時志賀直哉が「ものになるべし」といったものについてみれば、その平和と民主主義の要求からみれば、この半世紀のうちに、日本共産党がめざした主張の正当性を実証する方向に大きく社会は動いたのであります。日本国民の多大な犠牲と、多くの人びとの先駆的な闘争をともないつつ、この半世紀の歴史の巨大なドラマを通して、それは歴史の舞台にしるされたのです。

 日本共産党がかかげた目標は、日本を真に民主的な国にする新しい人民の民主主義革命の遂行だけでなく、それを通じてさらに社会主義の国にするという展望であります。その基本的実現のためには、今後多くの複雑、困難な過程が当然予想されます。それにしても、志賀直哉の感想は、当時においては非常に卓見であったということがその後の四十年の歴史において、非常に生きいきと証明された点で実に興味深いものがあります。
(宮本顕治「小林多喜二とその戦友たち」『網走の覚え書き』新日本文庫 p74-88)

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◎「……、かれのリアルな目をもって情勢を生きいきと描こうとすれば、真実に近づかざるをえない、その特殊な力をもっているということの証明」と。