学習通信090225
◎今どきの若者……

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世代交代の加速度

 かつて、「今どきの若者はなっとらん」という老人の繰り言があった。この言葉は、古くローマ時代の文献にあり、日本では奈良時代の木簡に書かれているらしいから、古今東西を問わず常に語られてきたことがわかる。

 この言葉をそのまま正直に受け取ると、時代とともに、人類は怠け者となり、言葉遣いが悪くなり、礼儀知らずとなり、苦労をしたがらなくなり、より単細胞になり、人類はより退化してきたことになるから、初代のホモサピエンスが最高であったという皮肉な結論になる。そう言われれば、そうかもしれないと思えなくもないけれど、老人とは、経てきた長い年月の中で、それなりの知恵を身につけてきたにも拘わらず、あたかも若い頃からそうであったと自認したがる身勝手な存在、とする方が正しいだろう。「今どきの若者は」という言葉は、老人のみが語りうる特権を持っているのだから仕方がないけれど。

 とはいえ、この繰り言は、老人と若者の間の断絶が比較的少なかった平和な時代の常套語であった。時代の変化がまだゆったりしていたので、老人と若者の間に互いに批判し合う共通した要素があったのだ。それらが何ら見出せなくなった現代においては、もはやこの言葉は死語になりつつある。老人が、「今どきの若者は」と話しかけようとしても、若者に相手にされないからだ。「老齢化時代」となっているのに、「今どきの若者は」と批判できなくなった私たちの世代は、なんだか損な世代と思わざるを得ない。

 いっとき、「今どきの若者は」に換わって、「新人類」という言葉が流行ったことがある。若者たちの言動を理解できなくなった大人が、新しい種の人類が出現したかのごとく騒ぎ立てたときに使った呼称である。確かに、この呼称は時代が重大な転換点を迎えたことを意味していた。というのも、「新人類」という呼称は、老人ではなく現役の大人が、それほど歳も違わない上司が部下の若者に対して使ったからだ。それまでの世代の断絶が五〇年間隔であったのが、一気に二〇年以下となったのである。世の移り変わりがいかに加速されたかがわかろうというものだ。

 さらに、「新人類」という言葉には、互いに理解し合おうという心情がいっさい込められていないことにも注意すべきだろう。とにかく、大人にとって若者は「お手上げ」の存在になったのだ。それに比べ、「今どきの若者は」には、相互批判の精神がまだ健全にあったことがわかる。「自分の若いときはそうではなかった」と言外に匂わせ、反撥した若者がうまく引っかかってくれれば、得々と昔話をしようという魂胆(「対話精神」というべきか)が秘められていたからだ。「新人類」には、そのようなセンチメンタリズムはいっさいなく、世代間の断絶が深くなるだけである。これでは、若者は親に向かって金属バットやゴルフクラブを振り回すしかなく、老人は若者から離れてゲートボール遊びに興じるしかないではないか。

 ところが、もはや「新人類」も死語になってしまった。おそらく、新人類が増えすぎてうようよしているために、具体的な誰かを指すことができなくなってしまったためだろう。逆に、下手に「新人類」などと言おうものなら、「パソコンもまともに扱えない旧人類」と言い返されるのがオチである。さて、このリストラの時代、「旧人類」たる大人どもは、「絶滅」の道を歩みつつあるのだろうか。世代交代はかくも加速されているのである。

 それをこのように嘆くことすら、もはや時代遅れなのかもしれない。現代においては、世代の断絶は一ケタを切ってしまったからだ。娘が高校生の頃、学年が一年下だけの下級生に対し、「このごろの若い子は」と呼んでいた。奇妙にも言葉は先祖帰りしたのだが、それをつかっているのは、老人ではなく、たった一七歳の女の子なのである。

 時代とともに寿命が伸び、その分、精神的な成熟が随分遅くなったのは事実だろう。寿命が短かった時代では、ぎっしり凝縮した時間を生きていたに違いない。例えば、私には、漱石がたった数え年の五〇歳で亡くなったとはとても思えないのだ。漱石が書いたものを読めば、透徹した目で同時代の浮薄さを鋭く見抜き、老成した頭脳は日本の危うい未来を具体的に見据えていたことがよくわかる。私如きと比較するのは漱石に失礼だが、私は、漱石よりもう六つも余分に歳をとっているのに、未だに彼のような時代を見る目が備わっていない。むろん、才能という時代を超えた天からの授かりものの差、と言ってしまえばそれまでだが、時代の変化が加速された分だけ、現代人は、いくら寿命が長くなっても、ただ空疎な時間を過ごしているだけなのかもしれない。

 そういえば、ゾウは一〇〇年生き、ネズミは数年しか生きないが、生涯の間の心臓の鼓動数は同じらしい。ならば、ゾウは長生きはしてもスカスカの時間をぼんやり過ごし、ネズミは濃密な時間を充実して生きているのかもしれない。私自身も、幼い頃はなすべきことが山のようにあって時間が長く感じられたが、トシをとるにつれ大したことをしないまま時間のみが速く流れるようになってしまった。漱石の五〇年には、私の一〇〇年分以上が詰まっているのだ。天才が夭逝するのは時間が凝縮し過ぎているためだろう。

 つまり、奇妙なパラドックスが生じているのである。寿命が伸びた分だけ現代人はより多くの仕事ができるはずなのに、かえって頭脳の成熟が遅くなって幼稚なまま生涯を過ごしている、と。とはいえ、「老成」した気分だけは変わっていない。とすると、老成とは、精神の成熟ぶりを指す言葉ではなく、時代の動きやその変化に同調できるかどうかの指標に過ぎない、と考えるべきなのだろう。実際、「老成」を辞書でひくと、「歳のわりに大人びること」という意味と、「経験を積んで巧みになること」という意味がある。人は、時代から取り残されたと感じるようになったとき、老成の気分になり「今どきの若者は」とつい言ってしまうらしい。世代交代が加速されたため、幼い頭のまま歳だけを重ね、時代に向き合う姿勢を早々に失っている、と言えるのかもしれない。
(池内了著「私のエネルギー論」文春新書 p12-16)

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 いまどきの若者は、さっぱりわからない。
 こんなことばを、これまで耳にしたことがない人はいないはずだ。それだけではなくて自ら「いまどきの若者は……」と、つい口にしている人も少なくないだろう。

 ものの本によると、これと似たことばは古代ピラミッドの中にも記されているらしい。「だから、なにもわかりにくいのは現代の若者だけではない。大人から見れば、いつの時代も若者は理解しがたい存在に見えるのだ」と言う人もいる。しかも、大人はかつて自分も若かったときには礼儀知らずで自己中心的だったことも忘れて、若者批判をしてしまいがちだ。

 では、結局のところ、若者は今も昔も変わっておらず、大人が勝手に「いまどきの若者はわからない」と言っているだけなのだろうか?
 私自身は、そうもまた言い切れないと考えている。

 高度成長からバブルの時代を通過し、出口の見えない不況が続きながらも、生活じたいは全体に平和で豊かな今の日本。携帯電話やインターネットの普及で、コミュニケーションの手段は画期的な変化を遂げた。そういう社会で暮らす若者は、やはりこれまでとはかなり違った価値観や行動様式を身につけていると言える。

 問題は、そういう若者たちに対して大人が「若者は堕落した」「若者はコワイ」と決めつけ、それ以上、理解しようとも近寄ろうともしないことだ。フェミニズム研究者の小倉千加子さんは、「いまどきの学生たちは変質してます。……これはなんですか!」とイライラして怒っている大学教員を見ると、「アホちゃうか。君ら訓練が足りんよ」と思う、とその著作の中で述べていた。

 しかし、そう言われてもどうやって訓練してよいかわからない。そう思う大人も、少なくないはずだ。訓練するにもまず、いまどきの若者の言動の基本にあるパターンがわからなければどうしようもない。

 「基本パターンなんてあるものか、彼らは好き勝手に動いているだけだ」という声もあるが、本当にそうだろうか。彼らの話にちょっと耳を傾け、その行動に目をとめてみると、そこには彼らなりの考え方や主張があることがわかってくる。それを「若者の法則」としてまとめてみたのが、この本だ。

 私はもちろん、これを読んで若者にすり寄り、ごきげんをうかがってほしい、と大人たちに望んでいるわけではない。ただ、その「若者の法則」を知ると、若者たちが彼らなりのやり方で、大人や社会全体に向かって言おうとしている何かが、おぼろげながら見えてくるはずだ。

 そして「いまどきの若者」について考えることは、だれにとっても自分についてもう一度、考えなおすことにもなるはず。元・若者の私は、そう思うのである。
(香山リカ著「若者法則」岩波新書 まえがき)

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なぜ「若者は動かない」と
思えてしまうのか
青年心理学の立場から考える
 白井利明(大阪教育大学教授)

 若者のフリーターの問題を考えるとき、最大の問題は言うまでもなく非正規雇用の増大にあり、そのことを政府が政策的に後押ししていることにあります。政府自身、フリーターの増加の原因について、「どちらかといえば、労働需要側の問題がより強い影響を及ぼしている」(『国民生活白書』〇三年版)とのべているにもかかわらず、非正規雇用をなくしていくという明確な姿勢ではありませんし、実際に議論では、「若者の意識に問題がある」という見方がくり返し出されます。

 しかし、正規雇用されている人に対し、非正規雇用の人は、何か職業能力や職業観に問題があるかといえば、まったくそうではないことが、社会学者の調査だけではなくて、私たち心理学者の調査でも明らかになっています。心理学には進路成熟という概念があります。将来に関心をもち、主体的に進路を選択し、計画を立てられることです。ある国立大学の卒業生に対して、正規雇用されている人と非正規雇用されている人とで、進路成熟に違いがあるかどうかを調べましたが、違いはありませんでした。ですから、決して個人が未熟だから非正規雇用になっているといった問題ではないのです。

 ところが実際に若者と接している人からすると、若者にやる気がないのではないか、今の若者はどうして動けないのかと疑問を感じることがあるようです。ここではそのことを考えてみたいと思います。

若者の〈未熟さ〉をどう考えるのか

[〈やりたい志向〉でふみ出せないのか]

 たとえば〈やりたい志向〉という言葉があります。三浦展氏は『下流社会 第2章』のなかで、「下流ほど年をとっても自分を探し続ける」と書いています。個性や自がらしさを重視することそれ自体は悪いことではないが、いつまでも個性や自分らしさを一〇〇%生かす仕事はないかと探し回り、三〇代になっても現実に立ち返らない人もいると述べています。

 たしかに、そういう若者もいるかもしれません。三〇代ではありませんが、大学のキャリア・カウンセリングの現場では、自分のしたいことや適職にこだわるあまり、就職活動に踏み込めないといったこともあると聞いています。

 ところが、これとは正反対に、やりたいことをやることによって、自分の道を切り開いている人もいます。ニート支援をしている人のことなのですが、以前の職場で、食堂なら食堂のメニューに関心があるはずだと言われて、ちっとも関心がない自分に気づいたそうです。結局、その職場をやめて、今の仕事に就いた。今は、若者と関わっていることが楽しくて仕方がないようです。自分のしたいことや自分に合う仕事を見つけたのだと思います。ですから、〈やりたい志向〉が一概に悪いというのではなくて、その意味はその人の置かれた文脈によって違うと思うのです。そのため、一人ひとりの〈やりたい志向〉の意味を個人の文脈に即して丁寧に見ていく必要があると思います。

 たとえば、ある非正規雇用の人の場合ですが、この人は三〇代で、〈やりたい志向〉の高い人でした。しかも、正社員になることを考えていますが、そのために何かできているかというと、必ずしも動けていません。これだけを見ると、三浦氏の言うとおりにも見えますが、文脈を見ると別の理由が見えてきます。実は、忙しすぎて正規雇用を探したくても探す暇もないのです。本人も流されていることはわかっていますが、どうしようもない。このような状況を知ると、自分らしさを大事にしたいという願いのなかに、状況に振り回されたり、流されたりせずに、自分のペースを保ちたいという思いを見ることもできます。

 この人の場合、正社員の仕事を探せていないことから「正社員になろうとしない」と結論づけるのでは見当違いになることも明らかです。仕事に追われていて探せないわけですから。この人に必要な支援は、正社員の仕事を探すことのできる余裕を与えることです。

 事情はそれぞれなのですが、支援の枠組みが「若者が動かないのが悪い」となると、実態が必ずしもそうではないので、若者をますます追い詰めて、動けなくさせてしまいます。それを見て、「若者が動かないのが悪い」となってしまうとしたら悲しいことです。私たちが変えるべきことは、まずは、こうした誤った枠組みのほうです。

[すぐ仕事をやめるのはなぜ?]

 ある新聞社の記者から、「若者はすぐに仕事をやめる。現場の教師も、苦労して教育大学に入り、免許状もとり、教員採用試験も突破したというのにすぐにやめてしまう。どういうことなのですか」と聞かれることがありました。お聞きしたお話からは、「いまの若い人は未熟じゃないか」という批難のようなニュアンスも読み取れました。

 しかし、今の若者が「未熟」かどうかという以前に、いま教育の現場はたいへんな状況になっています。子どもや保護者の対応でうつ病になり、バーンアウトしていく教師も少なくありません。バーンアウトは責任感があり熱心な人が燃え尽きていくのです。決して個人が未熟とか弱いからバーンアウトするわけではありません。むしろ周囲からのサポートがあるかどうかといった組織的な問題が大きいのです。サポートをするべき上司である管理職もいっぱいいっぱいでフォローに回れないという状況もあります。現場は忙しさが蔓延しているということが、若い教師にとっても、それを支える管理職にとっても、マイナスになっているのです。

 若い人が、早い段階で仕事をやめることについては、リアリティショックと呼ばれる議論が職業心理学にあります。一年目危機説です。入職する前に思っていた仕事のイメージと実際に入職した後の現実の仕事のイメージのギャップが生じて、こんなはずではなかったとショックをうけることです。かつてなら、そんなとき、たとえば仕事が終わった後、同僚の教師に飲みに誘ってもらって、愚痴を聞いてもらったりして乗り越えることができた。いまは、ほかの教師も多忙で、状況が厳しくなってきて、若い教師を職場全体で育てていくということがなかなかできにくくなってきているように思います。

 いまの若い人がすぐにやめてしまうのは、若い人がギャップを克服しようとしないからだとも言われているようです。私は、その原因は、現実が変わるというように思えないことにあると考えています。現場に直接責任をもつ人たちが現場を変えることができるような仕組みを作ることが何よりも大切です。

 若い人は、長年働いてきた人とは、同じ職場でもその職場の見え方が違うのではないかと思います。昔は互いにどんな仕事をしていてどんな苦労をしているのかわかっていました。力を合わせて忙しい仕事を乗り切るといったこともよくやっていたと思います。ところが、今の働き方は、昔と比べると、個人が仕事を請け負って自分の責任で仕事を切り盛りしているような感じです。バラバラに働くようなしかたになっているように思います。一人ひとりにノルマがあり、成果で個人が評価されます。

しかも、日雇派遣労働者では、その場でその日限りで働き、名前も呼んでもらえません。若者の課題は社会に移行し大人になることですが、ここには移行するべき「社会」はありません。派遣労働でなくても、今は、みんなと力を合わせて仕事をする、その中でみんなから自分が認められているといった感覚をもつ、といったことができにくい職場環境になっています。

長年、働いてきた人たちは、すでにそうしたことを知っています。ですから、今のような状態になっても、人とのつながりを見つけたり、作り出すことができます。ところが、若い人たちは今の現実がすべてとなってしまっています。そのため、今の現実は変わらない、自分が入るべき社会が見つからないということになってしまうのではないでしょうか。そこで、我慢するかやめるかの二者択一しかなくなってしまう。我慢の限度を越えるとやめるしかない。同じものを見ていても、若い人と先行世代では見え方が違うために行動が違っているのかもしれないのです。

なぜ若者とすれ違うのか

[大人の期待に縛られる若者たち]

 ニートの支援をしている方から話を聞くと、仕事に対して若者が動かないように見えるのは、親の期待に応えようとするからだとのことです。親は、就職というと、大企業のほうがいい、有名なところがいいと言うのだそうです。ところが、そうしたところに就職できるとはかぎらない。若者からすれば、期待に応えようとしても応えられずに困っているのです。

 大人からすると、フリーターの若者が大人の期待に応えようとしているというのは不可解に見えるかもしれません。なぜなら、大人はフリーターになれなどと言っていないからです。それどころか、フリーターになるな、と言っている。それなのにフリーターになっている。ということは、若者が大人の期待に応えていないことになるからです。ここでも、大人と若者で見ているところが違うので、すれ違ってしまうのです。

 フリーターやニートになっているというと、今の若い人はそれでいいと思っているとか、価値観が違うとか、あるいは価値観の多様化といったことが言われます。ところが、不思議なことに、価値観は必ずしも多様化していないし、考え方もそれほど違わないのです。フリーターにしても憧れのものではありません。先日、高校で模擬授業をした際、高校生にフリーターになりたいか聞きましたが、だれ一人としてフリーターになりたいと断言した生徒はいませんでした。フリーターのイメージを聞いたら、「犯罪者」といった言葉まで出てきてびっくりしました。今やフリーターは犯罪にまで結びつくイメージとなっているのです。このような中でフリーターになるしかないとなると、精神的にも非常にきついだろうと思います。

 このように大人の期待を内面化し一生懸命で応えようとしている若者にとって、今以上に大人から期待されることは、かなりのプレッシャーになるのでしょう。こちらが「こうしたほうがいいよ」とアドバイスしても、「そうしないといけないんですか」と返してくる。別に「しないといけない」とまでは言っていないのですが、そんな応答を聞くと、私たちの期待が相当なプレッシャーになってしまっているんだろうなと思います。

 ジョブ・カフェの方に聞くと、やって来るフリーターは親子のコミュニケーションが乏しいそうです。よくフリーターは甘やかされていると言われますが、実際には、親と話ができないでいます。どうせ親と話してもわかってもらえないと思っています。ですから、話をしようとしないのです。それと、親と話をしない若者は自分の気持ちを自分の言葉できちんと表現するのが苦手です。大人と話をすることで自分の考えをかたちにできるものなのでしょう。

[摩擦を回避する? 若者たち]

 それは若者の人間関係は家族との関係を除くと、学校での友人関係が中心になってしまってきたからです。現代青年には特徴的な友人関係のとりかたがあるとされています。本当に親しい人には自分の気持ちを話せますが、そうでなければ自分を抑えて生きているのです。

 青年心理学では、現代青年の友人関係の特徴について、表面的な楽しさのなかで群れる傾向、互いの内面に踏み込まないように気をつかう傾向、相手から自分がどのように思われているかが気になる傾向、親しくなる段階が苦手に感じる傾向の四つが言われています。

 かつて、千石保さんが若者の「人間関係の希薄化」が八〇年代からすすんでいると言って、「摩擦回避世代」とよびました。彼は、『「まじめ」の崩壊──平成日本の若者たち』という本のなかで一七歳の高校生の日記を分析しているのですが、その結果、身体的な病気や金銭的な問題、互いの能力の評価にかかわること──たとえば偏差値、勉強、進学先など──が話題から避けられていることを明らかにしました。私は、ここには青年のなかに、競争に関係するようなことを話題にしないことによってお互いの親密さを保つ、逆に言うと、それだけ競争というものが若者の人間関係のなかにはっきりと影を落としてきたのではないかと思います。

 千石さんは、人間関係が消費的な関係に変わったと言っています。今を楽しむということが友人関係の中心になったのだというのです。たとえば、友人に悩みがあるとします。親の世代は、「たとえ相手が話したがらなくても、聞きだして、相手のためになるようなことをするべきだ」と言います。これに対し若い人たちは、「なぜそこまで土足で、相手の心に入るのかわからない。相手が悩んでいて、落ち込んでいたらそっとしておき、何か言いたくなったら言ってと伝えて、待っている」と言います。それが若者にとっての気遣いです。

 しかし同時に見ておきたいのは、若者は決して摩擦を回避しているのではないということです。私は、学生たちに、表面的な会話・摩擦を回避している会話と、実際にぶつかっている会話を探してきてもらい、それを五〇〜六〇代の先行世代に読んでもらったことがあります。私は、若者はぶつかっている会話は否定的に評価し、表面的な会話を肯定する、逆に五〇〜六〇代は、ぶつかっている会話を肯定し、表面的な会話を否定すると予想していました。たしかに、表面的な会話について、上の世代はいいとは思っていないのですが、若者もいいとは思っていない。ところが、ぶつかっている会話を若者はいいと言っているのに対し、先行世代は、「なぜ、こんな自分勝手なことを言っているのか」という反応でした。

先行世代の反応は意外でしたが、若者の反応は興味深いものでした。いまの若い人たちは、実はぶつかることを恐れているのではなく、自分の感情を殺し、空気を読んでいながら、ほんとうは自分が怒りたいときは怒っていけるぐらいの人間関係をつくりたいと思っていることがわかったのです。
(白石利明「なぜ「若者は動かない」と思えてしまうのか」前衛 2009年1月号 日本共産党中央委員会 p67-72)

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◎「問題は、そういう若者たちに対して大人が「若者は堕落した」「若者はコワイ」と決めつけ、それ以上、理解しようとも近寄ろうともしないこと」と。